第17話 夜明けの口づけ(ディートハルト視点)
「ミレッタ、おきて。おきてよ」
何度呼んでも、ミレッタは目を開けなかった。
腕に巻かれた布には、赤い染みが広がっている。顔は青白く、唇には血の気がない。
ディートは、小さな両手で、彼女の頬を包み込んだ。
冷たい。
いつも自分を温めてくれた手が、こんなにも冷たい。
「ハンス、ミレッタが」
「ご安心ください、旦那様。傷は深くございません。眠り薬が、まだ残っておいでなのでしょう」
ハンスは穏やかに言った。
けれど、その声もかすかに震えていた。
「馬車の支度ができ次第、お屋敷へお連れいたします。バルド先生も、すでに呼びにやらせております」
「……ぼくが、だっこする」
「旦那様」
「ぼくが、はこぶ」
言ってから、ディートは唇を噛んだ。
無理だ。分かっている。
この小さな腕では、彼女を抱き上げることもできない。
守ると言ったのに。
彼女は、自分を庇って、傷を負った。
「……ぼくが、おとなだったら」
声が、震えた。
「おとなだったら、ミレッタを、まもれたのに」
ハンスは何も言わなかった。
ただ、黙ってディートの背に手を置いた。
ディートは、ミレッタの胸元に顔を伏せた。
とくん、とくん、と鼓動が聞こえる。
生きている。ちゃんと、ここにいる。
それだけが、救いだった。
どれくらい、そうしていただろう。
窓の外が、ゆっくりと白み始めていた。
夜明けだ。
いつもなら、この時刻には、骨の軋む痛みと共に元の姿へ戻る。
ディートは、身構えた。
けれど、来たのは、痛みではなかった。
温かい。
指先から、春の陽だまりのような温もりが広がっていく。
胸の奥で、何かがほどけていく感覚があった。三年間、ずっと身体の芯に巻きついていた冷たい蔦が、一本ずつ、静かに枯れて落ちていくような。
床の上で、ぱきん、と乾いた音がした。
振り向くと、ひびの入ったブローチの黒い石が、粉々に砕けていた。
さらさらと、黒い砂のように崩れ、朝の光に溶けて消えていく。
「旦那様……」
ハンスが、息を呑んだ。
ディートハルトの身体が、ゆっくりと伸びていく。
手が。足が。肩が。
痛みは、まったくなかった。
気づけば、彼は大人の姿で、床に膝をついていた。
両手を見下ろす。
長い指。大きな掌。見慣れた、自分の手だった。
「……戻った、のか」
声も、低い大人のものに戻っている。
ハンスが、震える手で、懐から小さな手鏡を差し出した。
受け取って、覗き込む。
そこに映っていたのは、三年前の自分の顔だった。
こめかみから顎にかけて這っていた黒紫の痣が、跡形もなく消えている。
「旦那様……お顔が……」
ハンスの目から、涙がこぼれ落ちた。
ディートハルトは、手鏡を下ろした。
痣が消えたことよりも。
呪いが解けたことよりも。
今、確かめたいことは、ひとつだけだった。
腕の中で眠るミレッタを、そっと抱き上げる。
軽い。
小さな腕では持ち上げることさえできなかった彼女を、今は、簡単に抱きしめることができる。
「ミレッタ」
名前を呼ぶ。
長い睫毛が、ふるりと震えた。
ゆっくりと、翠色の瞳が開いていく。
「……旦那、様?」
掠れた声だった。
ぼんやりとした目が、こちらを見上げる。
それから、大きく見開かれた。
「お顔……痣が……」
「消えた」
「元の、お姿……夜なのに……」
「もう、夜は明けた」
ディートハルトは、彼女の額に、自分の額を押し当てた。
「お前が、解いてくれた」
「私、が……?」
「お前の誓いが、呪いを解いた」
ミレッタの目に、みるみる涙が浮かんだ。
その涙を、親指でそっと拭う。
「よかった……旦那様、よかった……」
「怪我を、させた」
「こんなの、すぐに治ります」
「守れなかった」
「守ってくださいました」
ミレッタは、首を振った。
「小さな足で、私を見つけてくださいました。ちゃんと、迎えに来てくださいました」
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
言葉が出てこなかった。
だから、ディートハルトは、何も言わずに唇を重ねた。
ミレッタの身体が、一瞬だけ強張った。
けれど、すぐに、彼女の手が、そっと背中に回された。
夜明けの光が、二人を照らしていた。
唇を離すと、ミレッタは真っ赤な顔をして、俯いていた。
「旦那様、あの……ハンスさんが、見て……」
「構わない」
「構います」
慌てて振り返ると、ハンスはとうに背を向け、窓の外を眺めるふりをしていた。
その肩が、小刻みに震えている。笑っているのか、泣いているのか、分からなかった。
ディートハルトは、ミレッタを抱く腕に、力を込めた。
「ミレッタ」
「はい」
「呪いが解けたからといって、お前を手放すつもりはない」
「……はい」
「昼も、夜も、ずっとだ」
耳元に唇を寄せ、低く囁く。
「書庫で言ったな。二度と逃がしてやれない、と」
「はい。覚えています」
「あれは、子どもの戯言ではない。今の私も、同じことを思っている」
腕の中の身体を、閉じ込めるように抱きしめる。
「もう、どこにも行かせない。誰にも触れさせない。お前が嫌だと言っても、離してやれない」
言ってから、少しだけ怖くなった。
重すぎる。こんなことを言えば、彼女は怯えるかもしれない。
けれど、ミレッタは、くすりと笑った。
「夜のディートと、同じことをおっしゃるのですね」
「……同じ私だからな」
「知っています」
ミレッタは顔を上げ、まっすぐにディートハルトを見た。
「離さないでください。私も、離れませんから」
その言葉に、胸の奥が、どうしようもなく満たされていく。
三年間、凍りついていたものが、すべて溶けていった。
朝の光の中で、ディートハルトは、もう一度、彼女に口づけた。
今度は、ハンスが咳払いをするまで、離れなかった。




