第16話 子どもの姿のまま
扉の前に、小さなディートが立っていた。
裸足の足は泥にまみれ、膝には血が滲んでいる。大きすぎる寝間着の袖は破れ、黒い髪には蜘蛛の巣が絡みついていた。
それでも、深い青の瞳だけは、まっすぐに私を見ていた。
「ディート……どうして」
来ないでほしかった。
来てほしかった。
その二つが、胸の中でぐちゃぐちゃになって、涙があふれそうになる。
「ミレッタ、たすけに、きた」
小さな声が、震えていた。
怖いのだ。当然だ。
それなのに、この子は、ここまで来てくれた。
「これはこれは」
ガルフォード様が、愉快そうに笑った。
「本当に、その姿で来るとはね。健気なことだ」
杖を手に、ゆっくりとディートへ歩み寄る。
「ディートハルト。三年間、よく耐えたものだ。毎晩、その情けない姿で泣いていたのだろう?」
「……おじうえが、やったんだ」
「そうだとも」
ガルフォード様は、あっさりと認めた。
「兄上を毒で葬り、お前にはこの呪いをかけた。お前が絶望して爵位を投げ出せば、穏便に済んだのだがね。お前は、存外しぶとかった」
懐から、黒い石のブローチを取り出す。
石の奥で、何かが、どろりと蠢いたように見えた。
「だが、それも今夜で終わりだ。幼い当主が、夜の森で迷い、不幸にも命を落とす。誰も、私を疑いはしない」
杖の握りを、ガルフォード様がひねった。
かちり、と音がして、杖の中から、細い刃が引き抜かれる。
暖炉の灯りが、刃の上で冷たく光った。
「やめて!」
私は叫んだ。
縛られた手首を、必死にねじる。
縄は、少しだけ緩んでいた。
ディートが扉を開けるまでの間、ずっと、薬草の手巾で縄目を擦り続けていたのだ。
ガルフォード様が、刃を振り上げる。
ディートは、逃げなかった。
小さな身体で、まっすぐに叔父上を見上げていた。
「ミレッタには、さわらせない」
「威勢だけはいいな」
刃が、振り下ろされる。
その瞬間、手首の縄がほどけた。
私は、考えるより先に、走っていた。
気づいたときには、ディートを抱きしめて、床に転がっていた。
左の腕が、焼けるように熱い。
見ると、袖が裂けて、赤い血が滲んでいた。
「ミレッタ……っ、ミレッタ!」
腕の中で、ディートが泣き叫んでいる。
「だいじょうぶ……かすっただけよ」
本当は、ひどく痛かった。
けれど、ディートが無事なら、それでよかった。
「邪魔をするな、小娘」
ガルフォード様の顔から、笑みが消えていた。
刃の切っ先が、私の喉元に向けられる。
私は、ディートを背中に庇いながら、ゆっくりと立ち上がった。
足が、震える。
それでも、一歩も退かなかった。
「どきたまえ。君に用はない」
「どきません」
「……何?」
「この方は、私の旦那様です」
声が、震えずに出た。
自分でも、不思議なくらいだった。
「昼の旦那様も、夜の旦那様も、どちらも、私の大切な旦那様です」
背中に、小さな手がしがみつく。
その温もりが、私に力をくれた。
「私は知っています。旦那様のお顔の痣も、夜のお姿も。泣き虫で、寂しがり屋で、やきもち焼きで、私を離してくださらないことも」
ガルフォード様の手の中で、黒い石が、ちかりと瞬いた。
「それでも、私は、この方のそばにいます。ずっと、ずっと」
ブローチの石が、震え始めた。
ガルフォード様が、はっとしたように手元を見る。
「何だ……これは」
「誓います」
私は、振り返った。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたディートの前に、膝をつく。
小さな手を、両手で包み込んだ。
「ディートハルト様。私は、あなたのそばに在ります。昼も、夜も、これから先も、ずっと」
ディートの瞳が、大きく揺れた。
その瞬間、ガルフォード様の手の中で、乾いた音が響いた。
ぴしり、と。
黒い石に、一本のひびが走っていた。
「やめろ……やめろっ!」
ガルフォード様が、刃を振りかざす。
けれど、その刃が届くことはなかった。
「そこまでです、ガルフォード殿」
扉のほうから、冷静な声がした。
灰色の外套の男の人が、剣を手にした兵士たちを従えて立っていた。
その隣には、息を切らしたハンスさんの姿もある。
「王宮監察院のローデリヒ・ハイネと申します。先代公爵殿の毒殺と、現公爵殿への呪詛。ご自身の口から、しかと伺いました」
「な……っ」
ガルフォード様の顔から、血の気が引いていく。
兵士たちが、一斉に彼を取り押さえた。
手から離れたブローチが、床に落ちる。
石は、ひびの入ったまま、ころころと転がって、私の足元で止まった。
鈍い光は、もう、ほとんど消えかけていた。
「放せ! 私は公爵家の者だぞ!」
喚き散らす声が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
私は、それをぼんやりと聞いていた。
「奥様! ご無事でございますか」
ハンスさんが駆け寄ってきて、私の腕に布を巻いてくれた。
「大丈夫です。それより、ディートを」
振り返ると、ディートは床に座り込んだまま、じっと私を見ていた。
小さな肩が、震えている。
「ミレッタの、うで」
「平気よ。ほら、ちゃんと動くわ」
「ぼくの、せいだ」
「違うわ」
「ぼくが、ちいさいから。まもるって、いったのに。ぼくが、ミレッタを、まもらなきゃ、いけなかったのに」
ぽろぽろと、大粒の涙がこぼれ落ちる。
私は、ディートを抱き寄せた。
「ディートは、守ってくれたわ」
「……うそ」
「本当よ。こんなに小さな足で、ここまで走って来てくれたじゃない。私を見つけてくれたじゃない」
泥だらけの足の裏を、そっと撫でる。
擦り傷だらけで、血が滲んでいた。
どれだけ必死に走ってきてくれたのか、それだけで分かった。
「ありがとう、私の小さな旦那様」
ディートは、私の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。
その小さな背中を撫でているうちに、ふっと視界が揺らいだ。
腕の傷が、ずきずきと脈打つ。
眠り薬の名残だろうか。身体が、急に重たくなっていく。
「ミレッタ?」
「ごめんね、ディート……少しだけ、眠いの」
「やだ。ねちゃ、やだ」
小さな手が、必死に私の頬を叩く。
「おきて。ミレッタ、おきて」
「大丈夫……ちゃんと、ここに、いるわ」
そう言ったつもりだった。
けれど、声になったかどうかは、分からなかった。
最後に見えたのは、泣きながら私にしがみつく、小さな旦那様の顔だった。
窓の向こうの空は、まだ深い夜の色をしていた。




