第15話 小さな足で駆ける夜(ディートハルト視点)
王宮の使者は、思っていたより話の分かる男だった。
監察官ローデリヒ・ハイネ。痩せた身体に灰色の外套を羽織り、鋭い目でディートハルトの書状を読み込んでいた。
「先代公爵の急死と、その夜を境に現れた痣。そして、叔父君との密談、ですか」
「証拠と呼べるものは、まだ少ない。だが」
「いえ、十分に調べる価値はあります。実は監察院でも、ガルフォード殿の金の流れには、以前から疑いを持っておりましてね」
ローデリヒは、静かに書状を畳んだ。
これで、叔父上を追い詰める道ができる。
そう息をついた、そのときだった。
廊下を駆けてくる足音が聞こえ、扉が乱暴に開け放たれた。
「旦那様!」
普段は決して声を荒らげないハンスが、真っ青な顔で立っていた。
「奥様が……奥様が、さらわれました」
ディートハルトは、自分の心臓が止まる音を聞いた気がした。
「扉の前の見張りも眠らされており、侍女長が見つかったのが、つい先ほどで……申し訳ございません」
ミレッタの部屋は、窓が割られ、床にガラスが散らばっていた。
寝台に寝かされたマーサが、額に布を当てながら、震える声で話した。
「申し訳ございません、旦那様……リゼが、ブローチを持って戻ってきて……奥様が、それを受け取ろうとなさったところに……」
「黒い外套の男たち、か」
「はい。奥様を、窓から……」
マーサの目から、涙がこぼれた。
「お守りできませんでした。申し訳ございません」
「お前のせいではない。休め」
言いながら、ディートハルトは拳を握りしめていた。
爪が掌に食い込んで、血が滲む。
叔父上だ。分かりきっている。
だが、どこへ連れて行った。
「旦那様、門の外で、この娘を捕らえました」
衛兵に腕を掴まれて、赤茶色のおさげ髪の娘が連れてこられた。
リゼだった。
泣き腫らした顔で、その場に膝をつく。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ。故郷へ帰される途中で、逃げてきました。奥様に、どうしても謝りたくて……」
「ミレッタは、どこだ」
低い声に、リゼの肩が跳ねた。
「ガ、ガルフォード様の別邸です。北の森の、古い狩猟館……」
「……そこで、何をするつもりだ」
「わ、分かりません。ただ、日が沈むまで待つと……旦那様が、来るのを……」
ディートハルトは、窓の外を見た。
空は、すでに茜色に染まり始めていた。
叔父上の狙いが、一瞬で分かった。
夜の自分を、待っているのだ。
「馬を出せ。今すぐだ」
「旦那様、お待ちください。日没まで、もう」
「分かっている!」
叫んでから、自分の声が震えていることに気づいた。
ハンスが、まっすぐにこちらを見ていた。
「……分かっている。それでも、行く」
「承知いたしました」
ハンスは、深く頭を下げた。
「では、私もお供いたします」
「監察院の者も、同行させていただきましょう」
背後から、ローデリヒの声がした。
「ガルフォード殿の罪を、この目で確かめる良い機会ですからな」
馬を走らせた。
森の中の道を、ただひたすらに北へ。
夕陽が、木々の間から刺すように差し込んでくる。
指先が、じんと熱を帯び始めた。
(まだだ。まだ、来るな)
手綱を握る手に、力を込める。
ここ数日、呪いが来るのは遅くなっていた。ミレッタが、少しずつ呪いを弱めてくれていたからだ。
頼む。もう少しだけ。
あと少しだけ、この身体のままで。
けれど、狩猟館の尖った屋根が木々の向こうに見えたとき、骨が、ぎしりと軋んだ。
「……っ、ぐ」
「旦那様!」
手綱が、指からすり抜けていく。
視界が、ぐらりと揺れた。
ハンスが馬を寄せ、落ちかけた身体を抱きとめた。
その腕の中で、ディートハルトの身体は、みるみる縮んでいった。
ローデリヒが、息を呑む気配がした。
「これは……」
「見てのとおりです、監察官殿」
ハンスが静かに答えた。
「これが、我が主にかけられた呪いでございます」
大きすぎる服の中から、小さな手が這い出した。
ディートは、ハンスの腕を振りほどき、馬から滑り降りた。
「旦那様、お待ちを」
「いく」
幼い声だった。
けれど、迷いはなかった。
「ミレッタが、まってる」
狩猟館の門の前には、黒い外套の男たちが立っていた。
衛兵とローデリヒの部下たちが、剣を抜いて前に出る。
怒号が飛び交い、剣と剣がぶつかる音が森に響いた。
ディートは、その騒ぎの陰を、走った。
小さな身体は、誰の目にも留まらなかった。
館の裏手に回ると、石壁の下のほうに、崩れかけた通風口があった。
大人なら、とても通れない隙間だ。
けれど、今の自分なら。
(……こんな身体でも、使える)
ディートは、迷わず頭から潜り込んだ。
肘を擦りむき、膝に血が滲む。冷たい石と、埃と、蜘蛛の巣。
それでも、前へ進んだ。
狭い通路を抜けると、薄暗い廊下に出た。
どっちだ。
立ち止まって、耳を澄ませる。
そのとき、ふわりと、懐かしい匂いが鼻をかすめた。
薬草の、優しい香り。
毎晩、枕元で嗅いでいた匂い。彼女の匂いだ。
「……ミレッタ」
香りは、廊下の奥から、細く漂ってきていた。
ディートは、走り出した。
小さな足で、裸足のまま、冷たい石の廊下を。
何度も転んだ。膝を打った。
それでも、立ち上がって走った。
香りが、だんだん強くなる。
廊下の突き当たりに、重たい木の扉があった。
その下の隙間から、ほぐれた薬草の葉が、いくつも零れ落ちている。
誰かが、内側から、ここへ押し出したのだ。
自分を、呼ぶために。
扉の向こうから、声が聞こえた。
「……もう、日は沈んだ。そろそろだろう」
叔父上の声だった。
ディートは、小さな手で、扉の取っ手を握った。
怖い。
身体が、がたがたと震えている。
この姿では、叔父上には敵わない。分かっている。
それでも。
(ぼくが、まもるって、いった)
約束したのだ。
ディートは、全身の力を込めて、重たい扉を押し開けた。
暖炉の灯りの中で、縛られたミレッタが、こちらを振り返る。
翠色の目が、大きく見開かれた。
「ディート……!」
そして、その前に立つ叔父上が、ゆっくりと口の端を吊り上げた。
「ようこそ、小さな公爵様」




