第13話 仮面の内側(ディートハルト視点)
空の箱を前に、ディートハルトは立ち尽くしていた。
「ハンス」
呼ぶより早く、執事はもう部屋の入り口に控えていた。
「今日、この部屋に出入りした者を、すべて洗い出せ」
「すでに始めております」
ハンスの声は、いつになく硬い。
「旦那様。ひと月ほど前に雇い入れた、リゼという侍女がおります。今朝から、姿が見えません」
「……誰の紹介だ」
「王都の口入れ屋でございます。ですが、その口入れ屋は」
「叔父上の息がかかっている、か」
ハンスが、黙って頭を下げた。
ディートハルトは、奥歯を噛みしめた。
屋敷の中にまで、手を伸ばされていた。それに、今の今まで気づかなかった。
隣で、ミレッタが小さく震えていた。
「申し訳ございません、旦那様。私が、あのブローチを受け取ったりしなければ」
「お前のせいではない」
振り返って、その肩を掴む。
「叔父上は、最初からお前に持たせるつもりだった。受け取らなければ、別の手を使っただけだ」
「でも」
「ミレッタ」
名前を呼ぶと、彼女は唇を噛んで、言葉を飲み込んだ。
翠色の瞳が、不安に揺れている。
その目を見た瞬間、腹の底から、冷たい怒りが込み上げた。
(叔父上は、この人に触れた)
屋敷に入り込み、彼女の部屋に手を伸ばした。
許せない。
自分が呪われたことよりも、ずっと。
ミレッタを部屋で休ませ、マーサをそばにつけると、ディートハルトは書斎に籠もった。
机の上には、あの古い本が開かれている。
『呪具の在る限り、呪いは決して自然には解けぬ』
その一文を、指でなぞった。
叔父上がブローチを持たせ、そして取り返した理由は何か。
考えられることは、ひとつしかない。
呪いが、弱まり始めているのだ。
ディートハルトは、自分の手を見つめた。
ここ数日、身体が縮むのが遅くなっている。以前は日が沈みきる前に始まった痛みが、今は空が藍色に変わるまで来ない。朝に戻るのも、日に日に早くなっている。
気のせいではなかった。
ミレッタが来てから、ずっとだ。
(あの人が、私の呪いを、解きかけている)
胸の奥が、熱く震えた。
そして、同時に、ひやりと凍りついた。
叔父上も、それに気づいたのだ。
呪具をミレッタに持たせ、呪いの弱まりを確かめたのだろう。そして、確かめ終えたから、回収した。
呪いが解ければ、叔父上が三年かけて企んできたことは、すべて水の泡になる。
ならば、次に狙われるのは。
「……ミレッタだ」
声に出した途端、指先から血の気が引いた。
ディートハルトは、ペンを取った。
白い便箋に、一行書く。
『王都の伯爵家へ、しばらく身を寄せてほしい』
母方の縁戚だ。信用できる家で、守りも堅い。叔父上の手も届かない。
彼女を、ここから遠ざければいい。
それが、一番確実に彼女を守る方法だ。
頭では、分かっていた。
けれど、二行目が、どうしても書けなかった。
ペン先が、紙の上で止まったまま、インクの染みがじわりと広がっていく。
(手放せ)
理性が囁く。
お前のそばにいれば、彼女は危険にさらされる。愛しているなら、遠ざけるべきだ。
(嫌だ)
もう一つの声が、それを塗りつぶした。
嫌だ。離したくない。
あの人のいない夜に、もう戻りたくない。
冷え切った寝台で、一人きりで泣いて目覚める朝に、二度と戻りたくない。
「離さないでください」
書庫で、彼女はそう言った。
迷いなく、まっすぐに。
二度と逃がしてやれないと告げた自分に、それでもいいと、頷いてくれた。
ディートハルトは、便箋をくしゃりと握りつぶした。
「……できるわけが、ない」
情けないほど、声が掠れていた。
自分は、どうしようもなく浅ましい。
彼女を守りたいと思いながら、彼女を手放すことだけは、どうしてもできない。
ならば。
握りつぶした便箋を、暖炉の火に放り込む。
紙が炎に呑まれ、黒く縮れていく。
ならば、遠ざけるのではなく、この手で守り抜くしかない。
叔父上から、呪具を取り返す。呪いの証拠を突きつけ、二度と彼女に近づけないようにする。
ディートハルトは新しい便箋を取り、今度は迷わずにペンを走らせた。
宛先は、王宮の監察院。
三年前の父の急死と、自分にかけられた呪いについて、調査を求める書状だった。
その夜、身体が縮み始めたのは、月が昇りきってからだった。
小さな姿で廊下に出ると、ミレッタが、いつものように椅子に座って待っていた。
「ディート」
名前を呼ばれただけで、胸がいっぱいになる。
駆け寄って、その膝に抱きついた。
「ミレッタ」
「うん」
「どこにも、いかないで」
「行かないわ」
「おじうえに、つれていかれたら、やだ」
「……大丈夫よ」
ミレッタの手が、髪を撫でてくれる。
けれど、その指先が、かすかに震えていることに、ディートは気づいていた。
この人も、怖いのだ。
それでも、自分の前では笑ってくれている。
小さな手で、ミレッタの手をぎゅっと握った。
この身体では、何もできない。剣も握れない。叔父上に立ち向かうことも、彼女を抱き上げて逃げることも。
夜の自分は、あまりにも無力だ。
それが、悔しくてたまらなかった。
「ミレッタ」
「なあに」
「ぼくが、まもる」
ミレッタは、少しだけ目を丸くした。
それから、優しく微笑んだ。
「ありがとう。頼もしい旦那様ね」
「ほんとうだよ。ちいさくても、まもる」
「ええ、信じているわ」
部屋に入り、鍵をかける。
カチリ、という音を聞きながら、ディートは小さな拳を握りしめた。
誰にも渡さない。
叔父上にも、他の誰にも。
この人は、ぼくのものだ。
たとえこの身体のままでも、必ず。
窓の外では、雲が月を覆い隠そうとしていた。




