第12話 解呪の条件
翌朝、私は書庫にいた。
ガルフォード様の言葉が、どうしても頭から離れなかったからだ。
子どもの泣き声。
あの人は、知っている。少なくとも、何かを感づいている。
それなら、私も知らなければならないと思った。旦那様にかけられたものが、いったい何なのかを。
公爵家の書庫は広い。天井まで届く書棚が並び、古い紙とインクの匂いが満ちている。
私は梯子を使って、奥の棚から一冊ずつ背表紙を確かめていった。
歴史書。領地の記録。薬草の図鑑。
そして、一番奥の、埃をかぶった一角に、それはあった。
『呪詛と禁術に関する覚え書き』
革の表紙はひび割れ、ところどころが擦り切れている。
けれど、その本だけ、埃が薄かった。
最近、誰かが手に取った跡だ。
(旦那様、かしら)
そっと開くと、ページの間から、一枚の紙片がはらりと落ちた。
栞代わりに挟まれていたらしい。拾い上げて、挟まっていたページを開く。
そこには、こう記されていた。
『夜還りの呪い。陽が沈むと共に、呪われし者の身を幼き姿へと還す。呪いの印は、皮膚に這う蔦の痣として現れる』
蔦の痣。
旦那様の顔に走る、あの黒紫の痣が、目に浮かんだ。
「……やっぱり」
指先が、ひやりと冷たくなる。
続きを、読み進めた。
『この呪いは、術者の手元にある呪具によって繋ぎ留められる。呪具の在る限り、呪いは決して自然には解けぬ』
『ただし、ひとつだけ、呪いを退ける術がある』
『呪われし者の真の姿を知り、その醜さも弱さも恐れることなく受け入れた者が、真心をもって、その者の傍らに在ると誓うとき。呪いの力は弱まり、やがて呪具の繋ぎは断たれる』
私は、息を止めて、その一文を何度も読み返した。
真の姿を知り、受け入れた者。
真心をもって、傍らに在ると誓うとき。
手元の紙片に目を落とす。
そこには、見覚えのある、几帳面な筆跡で、短い言葉が書きつけてあった。
『望むべくもない』
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
旦那様は、知っていたのだ。
呪いを解く方法を、ずっと前から。
それでも、誰にも言わずに、一人で諦めていた。
自分の真の姿を受け入れてくれる人など、どこにもいないと決めつけて。
「……見つけてしまったのか」
背後から、低い声がした。
振り返ると、書庫の入り口に、旦那様が立っていた。
仮面は、つけていない。痣のある顔のまま、静かに私を見ている。
「旦那様。勝手に、申し訳ございません」
「いや。いずれ、見つかると思っていた」
旦那様はゆっくりと歩み寄り、私の手の中の本に目を落とした。
「三年前、父が亡くなった夜だ。叔父上と二人きりで話をした。その翌朝、目が覚めると、顔にこの痣があった。そしてその夜、初めて身体が縮んだ」
淡々とした声だった。
けれど、本を見つめる目は、ひどく暗い。
「この本を見つけたのは、半年ほど経ってからだ。読んで、すぐに分かった。私には、解けないと」
「どうして、ですか」
「当然だろう」
旦那様は、自嘲するように口の端を歪めた。
「この顔を見ただけで、皆、逃げていった。夜の姿など見せたら、どうなるか。受け入れてくれる者など、いるはずがない」
「…………」
「仮にいたとしても、頼めるものか。呪いを解くために、そばにいると誓ってくれなどと」
旦那様の拳が、震えていた。
「そんなものは、真心ではない。ただの、哀れみだ」
私は、本をそっと閉じた。
そして、旦那様の前に立った。
「旦那様」
「……何だ」
「私は、もう知っています」
旦那様の目が、わずかに揺れた。
「旦那様のお顔も、夜のお姿も。泣き虫で、寂しがり屋で、やきもち焼きで。私を離してくださらないことも」
「ミレッタ」
「全部知っていて、それでも、ここにいたいと思っています。哀れみなんかじゃ、ありません」
自分でも驚くくらい、はっきりとした声が出た。
旦那様は、しばらく何も言わなかった。
やがて、震える手が、私の頬に触れた。
「……やめてくれ」
「旦那様?」
「そんなことを言われたら、私は」
額が、こつんと私の額に触れる。
間近で見る夜色の瞳が、熱を帯びて、揺らいでいた。
「お前を、本当に離せなくなる」
囁くような声だった。
甘くて、重たくて、少しだけ怖い声。
「二度と逃がしてやれない。それでも、いいのか」
「はい」
私は、迷わずに答えた。
「離さないでください」
旦那様の喉が、ひくりと鳴った。
次の瞬間、私は強く抱きすくめられていた。
夜の小さな腕とは違う、大きくて、力強い腕。
けれど、縋りつくような必死さは、夜のディートとまるで同じだった。
書庫を出るころには、もう日が傾き始めていた。
旦那様は、私の手を握ったまま、離そうとしなかった。
「旦那様、そろそろお部屋に戻られないと」
「分かっている」
「では、手を」
「……あと少しだけ」
子どものような言い方に、私は思わず笑ってしまった。
それから、ふと気になって尋ねた。
「旦那様。この本に、呪具のことが書いてありました。呪具がある限り、呪いは自然には解けない、と」
「ああ」
「それは、どんな形をしているのでしょう」
旦那様は、少し考えてから、本を開き直した。
呪具について記されたページの隅に、小さな挿絵が描かれている。
黒い石を、銀の蔦が這うように取り巻いた、丸い装身具の絵だった。
私は、息を呑んだ。
「……これ」
「どうした」
「昨日、ガルフォード様からいただいた、ブローチと」
同じだった。
黒い石も、それを縁取る銀の蔦も、何もかも。
旦那様の顔から、さっと血の気が引いた。
「ミレッタ、あのブローチは、今どこに」
「私の部屋の、鏡台の上に」
言い終わる前に、旦那様は私の手を引いて走り出していた。
廊下を駆け抜け、階段を上がり、私の部屋の扉を押し開ける。
鏡台の上には、昨夜と同じように、小さな箱が置かれていた。
けれど、蓋は開いていて。
その中は、空っぽだった。




