第11話 叔父上の来訪
翌日の昼過ぎ、一台の黒塗りの馬車が門をくぐった。
私は旦那様の隣で、玄関前に立っていた。
旦那様は、今日は仮面をつけている。昨日、応接室で外してくれた素顔は、今は黒い仮面の下に隠れていた。
「ミレッタ」
「はい」
「叔父上の前では、何を聞かれても、夜のことは知らないと答えろ」
「承知しました」
小さく頷くと、旦那様の手が、私の背にそっと添えられた。
その手のひらが、いつもより冷たい。
(旦那様、緊張していらっしゃる)
そう気づいて、私は少しだけ、旦那様のほうへ身を寄せた。
馬車の扉が開く。
降りてきたのは、灰色の髪を後ろへ撫でつけた、五十歳ほどの男の人だった。上等な外套を羽織り、銀の握りの杖をついている。
目元は、どこか旦那様に似ていた。
けれど、その瞳の色は、夜の青ではなく、濁った鉛のような灰色だった。
「やあ、ディートハルト。元気そうで何よりだ」
「ようこそおいでくださいました、叔父上」
旦那様の声は、昨日クラリッサに向けたものよりも、さらに温度がなかった。
「そちらが、噂の奥方かな」
ガルフォード様の視線が、私に向けられた。
頭のてっぺんから足の先まで、ゆっくりと撫で回すような目。
背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。
「ミレッタ・ヴェルナーでございます。お初にお目にかかります」
「ガルフォード・ヴェルナーだ。いやはや、甥にこんな可愛らしい奥方が来てくれるとは。てっきり、また三日で逃げ帰るものと思っていたが」
「叔父上」
「冗談だよ、ディートハルト。そう怖い声を出すな」
ガルフォード様は、楽しそうに笑った。
笑っているのに、目だけは少しも笑っていなかった。
応接室で、お茶が振る舞われた。
ガルフォード様は、領地の話や王都の噂話を、愛想よく次々に話した。旦那様は、短い相槌を返すだけだ。
私は、二人のやりとりを黙って聞いていた。
「ところで、ミレッタ殿」
不意に、名前を呼ばれた。
「この屋敷の暮らしには、もう慣れたかね」
「はい。皆様、とても良くしてくださいます」
「それは結構。ただ、夜は寂しいだろう。甥は、日が落ちると部屋に籠もってしまうからな」
カップを持つ手が、一瞬だけ止まりかけた。
隣で、旦那様の肩がかすかに強張る。
「夜は、早めに休んでおります。ぐっすり眠れておりますので、寂しくはございません」
「ほう、ぐっすりと」
ガルフォード様は、カップを口元に運びながら、目を細めた。
「夜中に、何か物音を聞いたりはしないかね。この屋敷は古いから、妙な声がすると噂する者もいる」
「いいえ。何も」
「子どもの泣き声、などは」
心臓が、どくんと跳ねた。
(どうして、それを)
私は、膝の上で指先を握りしめた。顔に出してはいけない。
「子ども、ですか? このお屋敷に、お子様がいらっしゃるのですか?」
首を傾げてみせると、ガルフォード様は、じっと私を見つめた。
長い沈黙だった。
やがて、彼は肩をすくめて笑った。
「いや、ただの古い噂だよ。気にしないでくれたまえ」
「叔父上、ご用件がそれだけでしたら」
旦那様が、低い声で遮った。
「おや、追い返すつもりかね。せっかく、奥方への贈り物も持ってきたというのに」
ガルフォード様は、懐から小さな箱を取り出した。
蓋を開けると、黒い宝石をはめ込んだブローチが入っていた。周りを、細い銀の蔦が這うように縁取っている。
「我がヴェルナー家に代々伝わる品だ。新しい奥方に、ぜひ身につけてほしくてね」
「……そのような大切なものを、いただくわけには」
「遠慮はいらない。家族になったのだから」
半ば押しつけるように、箱が手の中に置かれた。
黒い石が、窓からの光を吸い込むように鈍く光っている。
なぜだろう。
触れた指先が、ひやりと冷たくなった気がした。
「ありがとう、ございます」
私がそう答えると、ガルフォード様は満足そうに頷いた。
隣の旦那様が、ブローチをじっと見つめていたことに、そのときの私は気づかなかった。
日が傾き始めても、ガルフォード様はなかなか腰を上げなかった。
窓の外が、少しずつ橙色に染まっていく。
旦那様の額に、うっすらと汗が浮かんでいるのが見えた。
膝の上で握られた拳が、小刻みに震えている。
(日没が近いんだわ)
私は、思い切って口を開いた。
「ガルフォード様。申し訳ございません、少し、気分が優れなくて」
「おや、それはいけない」
「旦那様、お部屋まで送っていただけますか」
旦那様が、はっとしたように私を見た。
ガルフォード様は、私と旦那様を交互に見比べ、それから、ゆっくりと立ち上がった。
「では、私はこれで失礼しよう。可愛い奥方の具合が悪いとあってはね」
「お見送りもできず、申し訳ございません」
「構わないよ。またすぐに、お邪魔させてもらうから」
扉の前で、ガルフォード様は振り返った。
「ディートハルト。夜の屋敷は、さぞ賑やかなのだろうね」
にやりと笑って、彼は去っていった。
馬車の音が門の外へ消えた瞬間、旦那様は、ふらりと壁に手をついた。
「旦那様!」
「……大丈夫だ。助かった、ミレッタ」
荒い息を吐きながら、旦那様は私の手を取った。
その手は、もう熱を帯び始めていた。
その夜のディートは、いつにも増して、私から離れなかった。
鍵をかけるなり、私の腰に抱きついて、顔を埋めたまま動かない。
「ディート?」
「……おじうえ、きらい」
くぐもった声が、震えていた。
「ミレッタのこと、へんなめで、みてた」
「大丈夫よ。もう帰られたわ」
「また、くるって、いった」
小さな腕に、ぎゅっと力がこもる。
「ミレッタ、あのひとに、ちかづいたら、だめ」
「ええ、近づかないわ」
「あのブローチも、つけちゃ、だめ」
私は、少しだけ驚いた。
「ブローチ?」
「いやな、においが、する」
ディートは顔を上げ、まっすぐに私を見た。
深い青の瞳が、ランプの灯りの中で、怯えたように揺れている。
「……ミレッタまで、いなくなったら、ぼく」
その先は、言葉にならなかった。
私はディートを抱きしめ、背中をゆっくりと撫でた。
「いなくならないわ。約束したでしょう?」
「……うん」
腕の中で、ディートが小さく頷く。
窓の外で、風が唸っていた。
自分の部屋の鏡台に置いてきたブローチの黒い石が、なぜか、まぶたの裏でちかりと光った気がした。




