第三章:真夏の眩耀とひまわりの祈り
「来るな……ッ! レナ、離れろ!」
視界を真っ白に染め上げる吹雪のただ中で、ジルの悲痛な叫びが響く。
凍てつく風は鋭い刃となってレナの頬を切り裂き、体温を容赦なく奪っていく。手足の感覚は疾うに消え、呼吸をするたびに肺胞が凍りつくような激痛が走った。
だが、レナは歩みを止めなかった。
「嫌です……! 離れるなんて、絶対に嫌です!」
「私に触れれば……お前まで命を落とすぞ! 私はもうダメだ……この呪いに飲み込まれる……!」
ジルの胸元からは、黒ずんだ氷の結晶が毒の鎖のように全身へと伝播していた。彼の蒼い瞳はすでに光を失いかけ、睫毛まで白く凍りついている。
彼は自分自身をあきらめようとしていた。
周囲の大人たちと同じように。「もう助からない」と己の運命を呪い、冷たい孤独の中で死を受け入れようとしていた。
レナは爪が剥がれそうなほど冷え切った指先で、抱え込んできた革袋を強く固く握りしめた。
中に入っているのは、この日のために命がけで作り上げた新しい調合物——【陽光草の抽出オイル】だった。
「閣下……いいえ、ジル様!!」
レナは彼の名を叫んだ。
立場も、身分の違いも超えて。初めて出逢ったあの日から、氷の奥でずっと助けを求めていた「一人の青年」の名を。
「あなたは……冷たい氷の彫刻なんかじゃありません! 私の手を握り返してくれた、あたたかい心を持った人です!」
吹き荒れる極寒の嵐を突き破り、レナはジルの胸元へと飛び込んだ。
ドスン、と激しい衝撃が走り、二人は凍りついた地面の上に倒れ込む。
レナの体が、ジルの凍えきった身体と重なり合った。
「う……ぁぁっ!?」
瞬時にレナの皮膚を襲うのは、死そのものの寒気だった。服越しに侵入してくる冷気が、レナの心臓の鼓動すら止めようと猛威を振るう。
だがレナは、噛み締めた唇から血を滲ませながら、ジルの氷の首筋に手を回し、固く固く抱きしめた。
「レナ……なぜ……諦めない……。私など……捨てて逃げればいいのに……」
「諦めるものですか! 魔法が使えない私を……ただの落第生だった私を、必要としてくれたのはあなたです! あなたがいたから、私は自分の作った薬を信じることができたの!」
レナは凍える手で革袋の蓋を引き抜き、黄色のオイルを自分の手のひらに全量あけた。
そして、その手をジルの胸元——呪いの核心である「心臓の真上」へと力任せに押し当てた。
「フォレスト家に伝わる薬草調合術は……患者を想う『心』の伝達術です……! 魔力がないなら、私の熱を……私の命の熱を全部あげます!!」
レナは叫び、全身の体温を、魂を絞り出すようにしてジルの身体へ注ぎ込んだ。
魔法の触媒などいらない。
ただ「この人を救いたい」「生きて、二人で笑い合いたい」という、どこまでも純粋でまっすぐな祈り。
その瞬間、レナの手のひらから放たれた黄色のオイルが、眩いばかりの光を放ちはじめた。
「な……これは……!?」
遠巻きに見守っていた上級錬金術師たちが息をのむ。
レナが使用したのは、ただの温熱ハーブではない。
『ひまわり』——太陽の光をどこまでも追いかけ、真夏の眩しい日差しをその身いっぱいに蓄え続ける黄金の花。
レナは過去数ヶ月間、庭園に咲き誇るひまわりの花弁から、魔力ではなく「純度の高い太陽の熱と光」だけを抽出し、凝縮し続けていたのだ。
魔法の力に頼らず、自然の恩恵と人間の執念だけで作り上げた、世界でたった一つの『太陽の調合薬』。
「温かくなれ……っ! 解けて……ジル様の呪い……ッ!!」
レナの叫びに応えるように、ひまわりのオイルがジルの体内に侵入した呪いの氷と激しく衝突した。
ジュゥゥゥッ……!
激しい水蒸気が上がり、二人を包み込む。
黒ずんだ氷の鎖が、ひまわりの放つ圧倒的な黄金の光に照らされ、ひび割れ、パキパキと音を立てて砕け散っていく。
「ぐあぁぁぁぁっ!!」
ジルが天を仰いで叫んだ。
彼の中で長年猛威を振るい、魂まで凍らせていた『永久凍土の呪い』が、ひまわりの太陽光と、レナの命懸けの抱擁(熱)によって、内側から激しく溶かされていく。
氷の吹雪が、瞬く間に消え去った。
雲を突き抜け、天空から降り注いだのは——刺すような、けれどどこまでもあたたかい「真夏の太陽の光」だった。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
静寂が訪れた庭園で、レナは力を使い果たし、ジルの胸の上で倒れ込んだ。
視界がゆっくりと暗くなっていく。
手足の冷たさは消え、全身を包んでいるのは、ぽかぽかと温かいぬくもりだった。
「……レナ? レナ……っ!!」
自分を呼ぶ声が聞こえる。
それは、あの氷鈴のような冷たい声ではない。
熱を帯び、今にも泣き出しそうな、人間味に満ちたあたたかい声。
「目を開けてくれ、レナ! 頼む……私を一人にしないでくれ!」
ジルの手が、レナの頬を包み込んだ。
その手は——まるで真夏のひだまりのように、とても、とても温かかった。
レナは薄っすらと目をあけた。
目の前にあったのは、凍てつく冬の湖ではない。
涙を蓄え、太陽の光を受けて輝く、見たこともないほど美しく澄み渡った『真夏の青空』のような、ジルの蒼い瞳だった。
「……よかった……。手が……あたたかいです、ジル様……」
レナが途切れ途切れに微笑むと、ジルは彼女を押し抱き、その額に優しく唇を寄せた。
「ああ……解けたんだ。私の呪いも……冷え切っていた心も……すべてお前が溶かしてくれたんだ、レナ……!」
二人を包み込むように、夏の風が吹き抜けた。
庭園の氷は跡形もなく消え去り、そこには一面に咲き誇る、黄金色のひまわり畑が広がっていた。
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