第二章:氷の城と陽だまりの記憶
「……お薬をお持ちしました、ヴァルハイト閣下」
レナは震える声でそう言いながら、頭を深く下げた。
ジルは冷ややかな蒼い瞳でレナを一瞥すると、小さく鼻で笑った。
「薬だと? 宮廷の錬金術師どもが匙を投げたというのに、そのような若い娘に何ができる。無駄だ、去れ」
「ですが……っ!」
「去れと言っている。私にこれ以上、無意味な期待を抱かせるな」
ジルの声には、激しい拒絶だけでなく、諦めと深い絶望が滲んでいた。
彼を取り巻く空気があまりにも冷たく、レナの皮膚にはピリピリとした痛みが走る。周囲の草花は、彼の冷気によって白く凍りつき、パリパリと砕け散っていた。
だが、レナは引かなかった。
彼は今も、胸を突き刺すような激痛に耐えている。冷気の中心で、一人で凍えているのだ。
「拒絶されても構いません。ですが閣下、その手のお痛み……冷気によって体内の循環が止まり、激痛が走っているのではありませんか?」
ジルがわずかに目を見開いた。
レナは革袋から、小さな陶器の小瓶を取り出した。
「これは魔力を持たないただのハーブと、温熱効果のある鉱物を微粒子にして練り込んだ軟膏です。魔力による反発は起きません。……どうか、試させてください」
レナは静かに歩み寄り、ジルの前に膝をついた。
そして、おそるおそる彼の右手に触れた。
「なっ……」
手繰り寄せた彼の皮膚は、まるで真冬の氷柱のように冷たかった。思わず手を引っ込めそうになるほどの寒気。しかし、レナはその手を両手で包み込むようにギュッと握りしめた。
「冷たい……こんなに冷えるまで、ずっとお一人で耐えていらしたのですか」
「お前……寒くないのか? 私に触れれば、お前の手も凍りつくぞ」
ジルの声に、狼狽のの色が混じる。
レナは首を横に振った。
「寒いです。とっても。でも……閣下のお手の方が、きっとずっと痛くて、お寒いはずです」
レナは小瓶から指先で軟膏をすくい上げ、ジルの凍える皮膚へ丁寧に塗り広げていった。
彼女の手のぬくもりと、ハーブのやさしい香りが立ち上る。
ゆっくりと、時間をかけてさすっていくと、ジルの手首からかすかに白みが消え、肌にわずかな血色が戻りはじめた。
「……痛みが、和らいでいく……?」
ジルは信じられないといった様子で、自分の手元を見つめた。
これまでどんな高位の回復魔法も、高価な魔薬も受け付けなかった体。それが、魔力をいっさい持たない少女の素朴な手によって、急速に熱を取り戻していく。
「ふふ、良かったです。私の作った薬が、役に立ちました」
レナが心からの笑みを浮かべた瞬間、ジルは息をのんだ。
天頂から降り注ぐ夏の太陽の下で、汗を浮かべながら自分を気遣う少女の笑顔。それは、彼が何年も忘れていた「陽だまり」そのものだった。
「……お前、名は?」
「レナと申します。レナ・フォレストです」
「レナ……か」
ジルは静かにその名を呟くと、どこか遠くを見るような目をした。
「私は呪われている。数年前、北の魔獣との戦いで侵された『永久凍土の呪い』だ。体内の魔力が暴走し、私自身を内側から凍らせていく。……いずれ私は、感情も心も完全に凍りつき、動く氷の彫刻となって死ぬだろう」
「そんな……! 解く方法はないのですか!?」
「ない。少なくとも、この国の名だたる錬金術師たちは誰一人として解けなかった。だから私は、暑い夏を選んでこの離宮へ来たのだ。少しでも、太陽の熱で死期を延ばすために」
苛烈な真夏の太陽の下に彼がいた理由。
それは優雅な日光浴などではなく、生み出され続ける冷気と相殺し、生き延びるための必死の足掻き(あがき)だったのだ。
「解く方法は……必ずあります! 諦めないでください!」
レナは叫んでいた。
自分自身も「魔力がない役立たず」と諦めかけていたくせに、目の前の彼が世界を諦めていることが、どうしても耐えられなかった。
「私が……私が絶対に、閣下の呪いを解く薬を作ってみせます!」
その日を境に、レナの日常は一変した。
彼女は昼夜を問わず、王立図書館の古文書を漁り、調合室にこもって新しい薬の試作に没頭した。
「おいおい、落第生がまた無駄な足掻きをしているぞ」
「公爵閣下の呪いが、魔法も使えん奴に治せるわけなかろう」
同僚の錬金術師たちからは相変わらず嘲笑されたが、今のレナには気にもならなかった。
毎日、午後になるとレナは庭園へ向かった。
ジルのために作った特製の保温薬と、冷えを和らげるお茶を届けるためだ。
「閣下、今日は日差しが強いですね。冷たいハーブティーをお持ちしました」
「……また来たのか。お前は本当に物好きだな」
口では呆れたように言いながらも、ジルはレナが差し出すカップを素直に受け取るようになった。
日を重ねるごとに、二人の会話は増えていった。
ジルは北の領地の厳しい冬の話や、かつて見た美しい雪景色について話し、レナは薬草の知識や、亡き父親との思い出を語った。
「父は言っていました。薬は魔力だけで作るものじゃない。患者を想う心が、薬の効能を何倍にも引き上げるんだって」
「心の力、か。錬金術師たちが聴けば鼻で笑いそうな言葉だな」
「そうですね。でも、私はその言葉を信じています」
ひたむきに薬と向き合い、自分を恐れずに触れてくれるレナ。
ジルの冷え切っていた心は、彼女と過ごすひとときの中で、少しずつ解けはじめていた。
二人の距離が近づくにつれ、ジルはレナを「レナ」と名で呼ぶようになり、彼の瞳に宿る氷のような冷たさは、柔らかい蒼へと変化していった。
しかし、二人の穏やかな時間は長くは続かなかった。
夏の盛りが過ぎようとしていたある日、調合室で作業をしていたレナの元に、激しい衝撃音が飛び込んできた。
「レナ殿! 大変だ!!」
使者が血相を変えて飛び込んでくる。
「ジル様が……ヴァルハイト閣下が!! 庭園で倒れられた! 今までとは比べものにならない冷気が溢れ出している!!」
「えっ……!?」
レナは手にしていたフラスコを落としそうになりながら、庭園へと走った。
走るにつれて、猛暑のはずの空気が急速に冷え込んでいくのが分かった。
庭園の入り口にたどり着いた時、レナは絶句した。
——庭園の半ばが、真っ白な氷と霜に覆われていた。
真夏の太陽が照りつける中、そこだけが狂ったような冬の世界と化していた。
その中心で、ジルが白銀の氷に囚われるように膝をついている。
彼の髪も、眉も、肌も白く凍りつき、蒼い瞳からは光が失われかけていた。
「閣下!!」
レナが駆け寄ろうとした瞬間、駆けつけた上級錬金術師たちが叫んだ。
「近寄るな、レナ! 呪いの暴走だ! 閣下の体内の魔力が限界を迎え、周囲の熱をすべて奪い尽くそうとしている!」
「魔法陣を展開しろ! 封印の魔力を叩き込め!」
錬金術師たちが放った強烈な魔力の光が、ジルを包み込む。
しかし、その瞬間——。
「ガハッ……!?」
ジルは激しく血を吐き、苦悶の悲鳴をあげた。
外からの魔力が、彼の体内の呪いと激しく反発し、内側から彼の肉体を破壊しはじめたのだ。
氷の侵食が、一気に胸元まで跳ね上がる。
「ダメ……! 魔法を使わないで!! 閣下の体が保ちません!!」
レナの叫びに、錬金術師は舌打ちをした。
「黙れ無能が! 魔法を使わずにどうやってこの暴走を止めるというのだ! このままでは公爵閣下は氷となって破裂するぞ!」
ジルは途切れ途切れの息の中で、消えそうな蒼い瞳をレナに向けた。
「逃げろ……レナ……。私の……近くに……いるな……」
彼の手から放たれる圧倒的な冷気が、レナの頬を削るように掠める。
誰も近づけない。誰も彼を救えない。
周囲の錬金術師たちは恐怖に顔を歪め、引き下がりはじめていた。
(嫌だ……! こんなの、嫌!!)
レナの胸の中で、何かが弾けた。
魔法が使えないから? 自分は未熟だから?
そんな理由で、自分に温もりの温かさを教えてくれた人を、たった一人の大切な人を諦めてたまるか!
「閣下……ッ!」
レナは制止の声を振り切り、猛烈な吹雪が吹き荒れる「氷の世界」へと飛び込んだ。




