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血まみれの薔薇(その2)

 何の前触れもなく、空間がぶるっと揺れた。同時に冷えた痛みがマリオンの全身を襲う。

 奴だ。ここへやって来る。マリオンは唇を噛んだ。今のこの状態で自分が勝てる目算はまったくない。だが、負けるつもりもなかった。

 もし、全力を尽くして勝てないなら、あとは相打ちしかない。少なくともその覚悟は必要だ。

「黒いものは黒く染まりやすい」

 どこからともなくあの男の声がした。

「黒は黒でしかない。黒が白く戻るはずはない。魔法は魔法で魔物は魔物。人間は人間で半妖は半妖」

 無感情につぶやく男の声だけが聞こえる。

 マリオンが仰向けに漂ったまま、口の端を曲げて笑った。

「いい歳して言葉遊びかい。優雅なもんだが、もう少しひねった韻は踏めないものかな。人間ですらないということは、君にそういうセンスはないのかな」

 マリオンは、かすれそうになる声を精一杯張って明るく答えた。


 気力までくじけたらそこですべて終わる。マリオンは、なけなしの気力を振り絞って、せめて半身を起こそうと腹と背中に力を入れた。

 どっかりと重石を載せられたような圧迫感は抜けないが、それでもなんとか半身だけ起こして前を見ることができるようになった。

 だが前も後ろも闇が続くだけで、どちらが上でどちらが下なのかすらもわからない。

 遠くにかろうじて人の影のようなものが揺らいでいるのが見えた。

「お前は黒い。お前はこの闇の底にふさわしい。もっと黒くなれ。黒くなって私と共にこの世を喰らい尽くそう」

 腹の底に響くような不気味な声で呪文のように男が唱え、その言葉と共に手から無造作に放たれた黒い気がマリオンに襲い掛かった。

 避ける手立てはない。


「光よ、わが道を照らせ。生きるものに光の道を示せ。白きものよ、浄化の光となれ」

 凛とした声が浄化の呪文を唱えるのだけが、マリオンの耳に聞こえた。それと共に、黒い気がマリオンの目前でいともあっけなく消滅し、澄んだ女性の声が高らかに告げる。

「彼は我らの希望の光であり、未来への光」

 明らかにその声に男が動揺した。

「お前は! この地の聖杯か! おのれ、仲間の邪魔をするとは!」

「聖杯!?」

 マリオンは、そこでその女性の声に聞き覚えがあることに思い当たった。あれは、北の聖杯、カデカミナの湖に眠るあの聖杯の声ではなかったか。

 しゃらりと水のように澄んだ声が静かに答えた。

「あなたはもうすでに私たちの仲間でもない」


「彼は闇の世界には行かせない、決して」

 よく通る誰かのバリトンが聞こえた。あれは誰の声だろう。

 決して、という言葉が闇の中をさざなみのように渡り、いくつもの声がそれに唱和する。

 男とは反対の方向から、たくさんの影が揺らめきながら現れた。それぞれの影は手に蒼白い灯火を掲げている。

「あなた方は」

 マリオンは絶句した。

 確かにそこにあるのは、自分が今まで関わってきたたくさんの人たちの懐かしい顔だったからだ。彼らは既に地上には無い。

 今は亡き祖父の顔、早くに亡くなった友人たち、従姉妹たち、短い間だったが恋人だったこともあるひと、大事な仲間、世話になった兄弟子たち。名前も思い出せないような短時間の知り合いだった者もいた。数え上げればキリが無いほどのたくさんの影。彼らがみな一様にマリオンのほうへ漂うように歩き始めていた。


「その小僧を守ろうというのか。もうすでに影でしかないお前たちが!」

 男の声に再び感情が戻っていた。男はかなりいらだっているように見えた。

「すぐに消してやる。消してやるぞ。お前らを永遠に消滅させることなど簡単なことだ。お前たちは苦しむだけ苦しんで消え去るがいい」

 懐かしい人々の影は、それでもひるむそぶりも見せない。無言ではあったが、そこには固い決意が見られた。誰も後にはひかず男のほうを向いたまま、マリオンを囲むように静かに立っている。みな穏やかな顔をしていた。

「消え失せろ、亡霊どもよ。永遠にここから消滅せよ」

 男が腕を広げ、大きな声で呪文を唱えようとしていた。


 マリオンは重い身体を起こし、もがいた。

 この人たちを、絶対に消滅させたりはしない。深く息を吸い込んで、よろめきながらもやっとの思いでふわつく足元を踏みしめ、男と対峙するように立ちあがった。

「そんなこと、絶対にさせません」

 だが、マリオンが男に対抗する呪文を唱えようとする前に、別の方向から新たな声が響き渡り、男もマリオンもはっとそちらへ顔を振り向けた。

 闇の奥底がほんのりと明るみ、今度は生きている者の声、まぎれもなくフェリシアの声がぴんと張った竪琴ののようにあたりの邪気を払った。

「白きものよ、光となり闇を払え。すべてのよこしまなるものを浄化せよ」


 夜が明け始め朝が来たように、腐りきり澱んでいた空気がさわやかなものに少しずつ変わり始めている。

 姿は見えないが、フェリシアの柔らかで暖かく澄んだ気配だけははっきりと感じられた。

 それに気づき、マリオンがきっと唇を噛んだ。ぎゅっと腕に力をこめる。

 今まで自分に関わった人たちの眠りを覚ましてしまったばかりでなく、フェリシアまで巻き込んでしまった。自力で抜け出すつもりだったのに、このていたらく。

「情けないとは思わないのか」

 マリオンは口の中で苦々しげに自嘲の言葉をつぶやいた。


「その声はマリオンの女か。こしゃくなことを。まとめてみんな消してやるぞ」

 男が腕を振り上げた。もはや呪文などというまだるっこしいものは唱えない。闇の中に稲妻が走り、あたりの空気が音をたてて震えるほどの衝撃が走った。

 その衝撃はまるで鋭く重い斧のように、影の人々をずたずたに切り裂いたように見えた。だが、そうではなかった。

 間一髪でマリオンの手から発せられた光の帯が、その衝撃を遮蔽しゃへいしたのだ。闇とぶつかり合った光は、まるで星を振り撒いたように飛び散り霧散した。

「貴様!」

 男の歯軋りする音がマリオンの元にまで聞こえてきた。

 くくっとマリオンが小さく笑った。もうその足元はふらついてはいない。

「待たせたな、名無しの魔王殿。今度は油断しない」

 その言葉を合図に、影の人々がまるで風に吹き寄せられるように静かにマリオンの背後に漂っていく。

「勝てると思うてかっ!」

 男が黒い光を何本も鞭のようにしならせ、マリオンに打ち付けた。

 マリオンの右手がそれを払うと、黒い鞭は蒼白い光を放ちながら千々に散り失せた。

「思ってるとも!」

 マリオンが両腕を高く差し上げると、その指先から蒼白く美しい光が生まれ大きく育った。

「地上の魔術師ごときに、この俺が破れるものかっ! 我が身の卑小さを思い知れ、小僧!」

 言葉と共に男の姿が大きく変化する。

 みしみしぎちぎちと、急激に骨の伸びる音と皮膚の破れる嫌な音がマリオンの耳に届いた。

 男の身体はみるみるうちに宙に膨れ上がり、長い角と牙の生えた巨大な魔王の姿をとっていく。マリオンはそれを見上げたが、怖れる様子はない。


 巨大な魔王は静脈が無数に浮き出た青黒い大きな手を伸ばし、今にもマリオンに掴みかかろうとしていた。

「光よ、我がうちに眠れる地上の光よ。すべての地上の光とともに闇を砕け」

 マリオンはその醜く恐ろしい姿を睨みつけ、小さく呪文ともいえないようなものを口の中で唱えながら呼吸を整えている。

 同時に彼は、自分のうちにある暖かく眩しい光の記憶を呼び覚ましていくことに専念した。

 それがうまく思い描けるたびに、マリオンの手の中の光は大きく息づき、より明るくより強い煌きを放ちはじめていた。

 マリオンが前に向かって走リ出すのと、魔王がその大きな闇の両腕を振るうのはほとんど同時のことだった。

 絶叫にも似た裂帛れっぱくの気合とともに、光の塊が闇を切り裂いていく。

 ぶつかり合う闇と光に、あたりが揺らぎ、震え、そしてひび割れた。闇が大きく縦に裂け、そこから地上の光がさし始めていた。


 たん、と固い靴音があたりに響く。不意にマリオンは、自分のブーツの底が石の床の上にあるのを意識した。

「戻ったな、地上に」

 マリオンは、油断なくあたりに目を配りながらひとりごちた。

 見慣れた地下室の現実の壁に掲げられた蝋燭の炎が、まるで生き物のように細く太く激しく揺れうごめいている。

 明るんだ地下室の中は、壁自体が光を帯びたようにうっすらと光り輝いていた。

 だが、何の前触れもなくふいに光が途絶える。摩擦が起こり、光と闇が激しくせめぎあう。

 どくん、とひとつ心臓の鼓動のようなものが聞こえ、まだすぐ側に残っていた闇が大きく波打った。

「お前は俺の中にいるのだ、とそう言っただろう。出られんぞ。いいや、出すものか」

 声と共に、心臓の音のように規則正しい腹の底に響くような重い音があたりに反響している。

 マリオンの足の下のさきほどまでは無機質であったはずの床が、痙攣をおこしたように奇妙な音を立てて歪み、引きれ、赤みを帯びてきていた。

 やがて、つんと鼻をつく生臭い匂いがあたりに漂い始めた。


 壁には細かいひびが入ったように縦横に赤黒い血管が走り、ところどころからどろりとした赤い血が滴り落ちている。

 まるで、巨人の体内に飲み込まれてしまったように、肺の中まで染まりそうなほど濃厚な血の匂いがあたりに立ち込めていた。息苦しい。清浄な空気がなくなりつつある。

 マリオンは上を見上げた。

 わずかに残された本当の地下室の壁もすでに大部分が剥がれ落ち、柱も天井も血を含んで崩落をはじめている。

 閉ざされた暗い空間が広がっているばかりで、どこにも光はない。

「城の中がお前の腹の中というわけか」

「そういうことだな」

 ぶぶっと生臭い空気がうごめき、それとともに男の笑い声が暗く響いた。

「俺の内側にいるお前がどうやって俺を封印する? 無理なことは止めておけ」

 マリオンは男の言葉に、にやっと笑った。

「僕はお前の封印になど興味はないぞ」

 そう言い放つとマリオンは目を閉じて、その場に静かに立った。さきほどからずっと考えていたのだ。この方法しかない、と。


 この男の正体がなんであれ、この城に封印する形で残すわけにはいかない。

 では、自分でできることはひとつしかないではないか。封印できなければ、滅ぼすのみ。跡形も無くすべてを消滅させる。二度と復活などできぬように完膚かんぷ無きまでに叩きのめし、滅ぼし尽くすことが、ただそれだけが、自分にできる最善の方法であろう、とマリオンは考えた。たとえこの身が男と共に滅びようとも、この黒き魂を野放しにはできない。

 この男がこの城は自分である、とそう言い放つのなら、城と共に破壊し尽くして消滅させてしまうまで。マリオンのよく通る深い声が、滅びの呪文を紡ぎだした。

 一陣の風がマリオンの額から前髪を吹き払うと、濃い金色に染まった左目が見えた。あたりが強い魔法の気に満ちる。男の魔力をも凌駕しそうな力が、その左目から白金の光となって一面に放射される。

「滅びよ、すべてのくらきものよ。分解せしめよ。砂の粒一粒まで。塵よりも細かく、すべての闇を砂に還せ! すべての悪しき魔よ、く還れ、その闇の底へ。砂よ、全てを飲み込み、この地をその身をもて浄化せしめよ!」

「なにっ!? この城を砂にしようというのか。この魔城はめったなことでは崩れんぞ。無駄なことを」

 男の声が呆れたような笑い声をあげたが、その笑いは途中で止まった。


 マリオンの呪文と同時に、ごごっと地下を揺るがして血まみれの城がまるで息づいたかのように細かく震え始めたのだ。

「馬鹿な! お前如きに俺を滅ぼすことができるはずがないっ!」

 男の狼狽したような声に、呪文を唱え終わったマリオンが顔を上げて崩れ始めた天を仰ぎ、高らかに勝利の笑い声を上げた。

「では、ゆっくりと見るがいい。おのれの最期のときを」

 壁が落ち、先ほどまで薄気味悪く波打っていた床もいまや白く変わりだしている。生々しい生き物のようだったあたりのものが、少しずつ元の形に戻りつつあった。

「お前もただではすまぬ。ここから出ることは叶わぬ。お前も砂に」

 男の声が震え、掠れ、次第に不明瞭になっていく。

 天井が砕け崩れ落ちる。だが、その石の塊は途中で白い砂となり、まるで雨のように床に降り注ぐ。さらさらという砂の流れる音が、あちらでもこちらでも絶え間なく続いている。それとともに、崩落が起きてはそれが砂に変わるということが果てしなく起っていた。

「お前もだ、マリオン! お前も俺と共に闇の底へ!」

 男の最期の呪詛にも似た叫びが、あたりに重く響き渡った。

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