血まみれの薔薇(その1)
マリオンはまるで怒れる龍神のごとく厳しい顔で、すぐさま崩れた壁を避けて後ろへ飛び退ると、高く右手をあげた。
「姿を見せよ、闇の主よ。我が前に疾く姿を現せ!」
呼び出しの言葉がマリオンの口から発せられ、それとともに闇の中にひとつの影が浮かんだ。
七フィート(210cm)近い大きな黒い男が、先ほどノーマンが地に呑まれたあたりに立っていた。
「呪文など唱えんでも出てきてやろうぞ。腕は良いようだが、乱暴な魔術師だな」
濁った声が笑った。
「封印を解いてやったというのに、ふざけたいい草だな」
怒りを押し殺した低い声でマリオンがそれに答え、尊大に顎を上げた。
くっくと男の影が笑い声を上げ、一歩前に踏み出した。 ブーツの底が固い石の床を踏みつけるざりっという現実の音が聞こえた。
蝋燭の灯りに照らされた顔は、上半分が黒く塗りつぶされたように影になっている。
だが、四角くがっしりとした顎と品のない邪な笑みを浮かべたぶ厚い唇だけは、薄闇の中でもはっきりと見えた。着ているものはすべて真っ黒で、丈の長いマントの裾が床すれすれに揺れている。
「さっきラザラスの姿でお目にかかって以来、だな。マリオン殿」
男は胸に手を当てて軽く一礼をしたが、マリオンは少し目を細めただけで相手の顔をきつく睨みつけた。男はそんなマリオンの様子をいささかも気にする風もなく、濁った声で続けた。
「いやはや長かったな。待ちくたびれた。俺は長い間、封印が解かれたらそいつには幾ら感謝しても足りない、と思っていた」
黒い男はにいっと歯をむき出しにした。それは笑うというよりは獰猛な猛獣が舌なめずりしているように見えた。
「だが、長かった。ここに至るのが長すぎた。俺は誓った。いつの日にか、この封印が解かれたら」
闇の主はそこで言葉を切って、にーっと唇を裂けんばかりに大きく広げて笑った。
「俺はそいつを許すまじとな」
男が太く長い腕を横に広げるとマントがたなびき、闇の中ではばたく大きな黒い翼をもった妖魔のように見えた。
マリオンは恐れ気もなく片頬に笑みを浮かべた。
「やれやれ、光栄なことだな。感謝の気持ちを忘れると、ばちが当たるぜ?」
男はくくっと小さく喉の奥で笑った。
「いったい誰がこの俺にばちを当てることができるんだろうな。そうだ、さっきノーマンの薄ら馬鹿が、ここを封印した魔術師と俺の攻防について語ったがだいぶ端折っていたな。どうだね、もっと詳しく聞きたくはないか? 相手の魔術師は俺を封印こそしたが、自分は俺にやられてその身を滅ぼすはめになったとてもよい戦いだったぞ」
マリオンは眉を上げ、右手で空をなぎ払うような仕草でそれを拒否した。
「それは魔術師の勝ちだな、邪悪な君が今日まできっちり封印されていたんだから。君が自分の負け戦について語りたいなら勝手に語ればいい。だが、生憎、僕は暇じゃない」
男はふんと馬鹿にしたように鼻を鳴らして再び短く笑った。
「有能、大胆にして乱暴、かつ不遜な魔術師だな、お前は」
「あんたみたいな奴にそんなに褒めてもらわなくても、僕は別に困らないが」
マリオンが大仰に肩をすくめ小馬鹿にしたような軽い口調で言い放つと、男は、一瞬だけ苛立ちを感じたように唇をきゅっと引き締めた。
「小僧、今に後悔するぞ」
男が無造作に片手を挙げ、マリオンのほうに掌を向けた。
呪文を唱えた様子もなくそこから突然放出された黒い気が、マリオンの胴を直撃した。
衝撃が腹から脳天に向けて抜け、そのまま彼の身体は二十フィート(6m)ほども弾かれ、後ろの壁に激しく叩きつけられた。
マリオンの口から低い呻き声がかすかに漏れた。ぼろぼろと衝撃で壁がひび割れ崩れていく。マリオンは痛みに顔をゆがめ、かばうように胸に手を当てた。
「ふん、口ほどにもない奴だ」
男が一歩前に踏み出したが、足元にふいに現れた蒼白い炎に足をとめた。高さが1フィートほどの炎は、男の周りに円を描くように踊っている。
「これはまたえらくちゃちな魔法陣だな」
男は笑いを浮かべて構わずに更に一歩、炎を踏みしだくように足を出したが、すぐに腹の底から野太い声をあげてあとずさった。
蒼白い炎に触れた部分から鋭い音を立てて猛烈な勢いで氷が張り詰め、男の足から胴へ向かってみるみるうちに凍っていく。
男は舌打ちをして、右手でさっと何かをなぎ払うような仕草をした。それにつれて赤い光が闇の中に走り、男の足の氷はじゅうっと鋭い音を立てながら盛大に蒸気をあげた。
「小ざかしい!」
男が苛立たしげに首を振るが、蒼白い炎は更に丈高くなっていて、たった今上がったはずの水蒸気もすぐに氷の粒に変わり男の身体にまとわりついてきた。
「なかなか離れてはくれないと思うよ。そいつらは自分より体温のあるものが好きだからね」
どこからともなく降ってきたマリオンの声に男が顔をあげた。
いつのまにかマリオンは、さきほどラザラスがやって見せたように壁の小さなでっぱりにブーツの踵をひっかけて斜めに身体を張り出させ、男を見下ろしていた。
口元にはかすかに血がこびりついているが、回復の魔法を行ったのかさほど痛手を受けたようには見えない。
「話の途中で不意打ちとはね。お返しは念入りにしなくちゃ悪いからね」
マリオンの言葉に男はにやりと笑った。
「これはお前が呼び出した水蛇どもか。甘く見すぎたな」
複数の頭を持つヒュドラと呼ばれる水蛇は、通常、魔法を持たない。しかし、ごく一部に強い魔力を持つものがあって、それを何匹かまとめて呼び出すと、水蛇たちはお互いのしっぽと頭を咥えあって”水蛇の魔法陣”と呼ばれるものを作る。
魔力を持つ水蛇は熱をもつものに寄っていく。自分たちで作った魔法陣の中に、獲物を捕らえて凍らせ喰らっていくのが彼らの特性だった。
魔術師が炎をうまく操れたとしても、逆にそれを糧としてヒュドラの輪は強く大きくなっていく。
水蛇を呼び出せる者は、魔術師でもかなり上位の部類で限られており、その魔法陣を越えられる者もそれに等しい。
ただし、マリオン自身は男がそれしきのものでどうにかなるとは、まったく思っていなかった。
不意打ちを食らって受けた打撃を回復する僅かの時間稼ぎをしたかっただけだった。案の定、男は水蛇の輪と見破ってからは、容赦がなかった。水蛇の輪の中に、これでもかというほどの炎を注ぎ込むことに専念しているかのように見えた。
「過剰摂取による飽和状態、だな」
マリオンはつぶやいた。
水蛇たちが糧となる炎をたらふく吸い込んで満足するまで続ければ、やがて輪は崩壊する。単純な方法だが、同時に簡単ではない。
貪欲な水蛇たちが満足するまで糧を与え続けることが難しいのだ。少しでも休めば水蛇たちの食欲はすぐに回復し、魔力が増幅する。
秘薬や輝石などに頼る魔術師では、なかなか最後まで続けることができない。
だが、やはり男の力は侮れなかった。
やがて、見る見るうちに水蛇の蒼白い炎の輪は大きく育ち、ひときわ明るくなったかと思うと急速に輝きを失った。
「・・・・・・! ずいぶん早いな」
マリオンが眉間に皺を寄せた。
水蛇の飽和状態に至る時間が思いのほか早い。どうやらマリオンが計算していたよりも男の持つ魔力が強かったようだ。
「その分、手強いということだな」
マリオンは治療のために胸に当てていた手を離した。まだ、胸の奥で骨がうずいてはいるが、耐えられないほどではない。
同時に先ほどの失態に歯噛みしたい気分を押さえると、彼は右手を上げてぱちんと指を鳴らした。
こおっと小さな音を立てて一陣の風がマリオンに吹き付けその前髪を吹き払い、そこに隠されていた金色の瞳を露出させると、あたりの空気がさっと張り詰めた。
重く荘厳といっていいほどの魔法の気配が色濃く立ち込める。
「やっと本性を現したな、小僧」
水蛇の輪による魔法陣が完全に崩壊する前に、男は自信ありげに輪の外へ足を踏み出した。
しゅっと擦過音とかすかな煌めきだけを残し、水蛇の輪は男の足元で完全に消え失せた。
ほぼ同時にマリオンの背後から、きらめく水のように半透明の巨大な竜の影が男へ向かってまるで滝のごとくなだれ落ちた。
その竜の大きな牙の生えたあぎとから間一髪で横へ飛び退った男が腕を振り上げ、召喚の呪文を唱える。たちまち男の右手から邪悪に満ち満ちた凶暴な黒い竜が出現した。
それは、マリオンの半透明で美しく神々しいとさえいえるような竜と同じ種類とは到底思えないほど、禍々しく穢れた生き物だった。
すぐに鱗を鳴らし咆哮をあげながら、竜同士の戦いが始まった。
二頭の竜は、その大きさと魔力で地下室全体を揺るがし圧迫し続けており、それにより絶え間ない振動と壁の崩落が続く。
壁から身軽く飛び降りたマリオンと男は、それぞれの分身である竜同士の戦いと同じく全身から気を発しながら睨みあった。
竜同士とはいえ、それぞれの魔力での戦いにかわりはない。少しでも気力がそがれれば、それは竜の魔力に影響する。
男の赤い瞳とマリオンの金と緑の瞳が交差し、火花を散らした。マリオンの額にも男の額にもうっすらと汗が浮かんでいる。
竜はどちらの力も拮抗していて互角のように見えた。
一見すると美しいが少し弱々しい感じがするマリオンの竜がなかなかの健闘ぶりを見せていて、その口から吐き出された蒼白い炎に黒い竜がどこか怯むようなそぶりを見せている。しかし、すぐに黒い竜が円を描きながら身体を返し、半透明の竜の胴体に長く汚れきった牙を立てようとした。
半透明の竜は、優雅にそれを避けると黒竜の胴体の下をかいくぐり、黒龍とは異なる長い尾を相手の目に思い切り叩きつけた。耳を聾する凄まじい黒竜の咆哮が響き渡った。
二頭の竜の口からは、すでに相手の血が大量に滴り落ちていてどちらもそれなりの痛手を受けていることがわかる。
男は歯を食いしばったまま、押しつぶすように唸った。
「小僧、なかなかやるな。だが、お前もお前の竜もここから生きて出ることはできないぞ」
男は大きく腕を広げた。ひとまわりもふたまわりも男の身体がぐんと伸びたようにマリオンには見えた。
「なぜなら、この城自体が俺だからだ」
男の哄笑があたりに響き渡ると同時に、マリオンの竜が男の竜に乱暴に掴みかかられ、首筋を半分がた食いちぎられた。のた打ち回る半透明の竜はその蒼白い首筋から、身体の色と同じく蒼い血を大量に撒き散らしながら、哀しげに一声吠えた。
何もできないまま、マリオンは呆然と立ちすくんでいた。まさかこれほどの打撃を一瞬のうちに受けるとは、思いも寄らないことだった。
男が嗤う。
「俺の今の身体は俺を閉じ込めようとした魔術師のものなのだ。その卑小なものを捨てさえすれば、俺の力は半分しか魔族でないお前など及ぶところではないぞ。何しろ俺は地上の”もの”ではないからな。俺は人の子ではない。だが、妖魔でもない」
「……! お前は、魔族ですらないのか!」
マリオンが自分の受けた衝撃に身を振るわせた。額には冷たい汗が浮かんでいる。首筋から背中にかけてまるで氷の刃を受けたように冷たい痛みが走っていた。男の話と分身の竜が受けた凄まじい衝撃が、今我が身に跳ね返ってきていた。
「お前が俺の話を聞かなかったのが悪い。わざわざ親切に説明しようとしたのにな」
男は自分の顔をつるりと撫でる。その顔が全て真っ黒に塗りつぶされたように闇に染まった。
マリオンの竜が断末魔の痙攣を起こし、黒竜の前に倒れふした。すでにその身体は輝きを失なっている。マリオンは力を振り絞り、右手を振ってその竜を自分のうちに呼び戻した。マリオンの力が戻れば、また竜は蘇る、ただし、戻れば、だが。
男の声は既に無機質なものになっていた。感情がどこにも見当たらない。
人間ではない、妖魔でもないという言葉どおり、男はどんどん影に近くなっている。
「だが、俺は人間であり、妖魔でもある。そのうえ俺は、この土地そのものだ。そしてこの城は俺の一部。俺は影の都。俺は世界の一部であり全部でもある」
男の姿がいくつもの影が重なり合ったようにぶれていく。
「俺は世界であり、世界を作ったものでもある」
その言葉に気が遠くなりかけていたマリオンの顔がはっとあがった。
「まさか君は、聖杯に関係があるというのか……」
マリオンの顔が蒼ざめた。
*****
創始聖伝の一節
すべては泥と空気と水と熱から成り立っていた。
その混沌の中に、天上界から白い乙女の腕が一本伸びて、手の中の美しい聖杯になみなみと泥をすくいとった。
その泥は、世界の北の隅に聖杯ごと逆さに伏せられ、北の大地となった。
再びそのたおやかな乙女の腕が伸ばされ、新たな聖杯に東の大地をすくい上げた。
そしてさらに新たな聖杯とともに西の大地と南の大地がすくい上げられた。
そのように四たびそれが繰り返され、世界に青い海と四つの大陸が創りあげられた。
その四つの聖杯は、地上のあらゆるものに勝る強大な創始の魔力を宿していた。
聖杯の力を得たものはこの世の全てを統べるとも言われるが、それは聖杯たちの望みではない。
それぞれの聖杯は、四つの大陸のどこかでその地を護るため、闇の奥底深く眠っている。
*****
「世界はもはや必要ない。どこにも何もなくてよい。すべて闇の中に奪われ、消え失せるが正しい」
まるで世界に対する怨嗟の言葉のように男が淡々と続けた。それは呪いの言葉のようにあたりに暗く黒く漂っている。
すでにそのときには、男の声も影と同じように複数の声が重なり合っているように聞こえていた。
「我々はそのために世界を造った。だから破壊しなければならない、我らの手で」
ふいにマリオンの天地が逆転した。
いきなり空間に放り出されたように、足元の床がなくなってしまったのだ。
冷たく深い闇の中にマリオンの身体が浮かんでいる。
すでに男はどこにも見えない。
宙に漂う自分の身体を立て直そうともがいてみたが、張りつく空気にしっかりと押さえつけられているようでゆっくりとしか動くことができない。
「見ろお前の正体をお前というものをお前は誰だお前はどこへ行く本当の自分はどれだお前の名前はなんだ」
闇の中から誰のものとも知れない声が、マリオンにささやく。
マリオンが無理に首を巡らせると、自分の金色の髪が下方へ流れ落ちているのが見えた。
その金の髪の先が黒く染まり始めている。しかも、徐々にその部分が広がり始めているのが見え、マリオンの目が驚愕に大きく見開かれた。
闇に染まり始めているのか、あるいは何十代か前の自分の一族にかけられた「ローセングレーン家に黒い髪の子供は生まれない」というまじないが解けようとしているのか。
「本当の自分はどれだお前の名前はなんだ」
遠い昔に聞いた同じような問いをマリオンは思い出していた。
「まさか、本当にこの地の底に眠っていたものは」
あの聖杯のどれかではあるまいな、とマリオンは暗く染まりつつある自分の髪を見下ろしながら考えた。
この世界を作ったとされる伝説の聖杯は四つある。
ひとつだけは、その行方を知っている。自分が遠い遠い昔、まだ十代の少年だった頃にカデカミナの奥底深くに眠らせたのだ。時々確かめに行っているが、あの聖杯はまだあの湖の底で静かに眠っている。
それ以外にあと三つあると思われるのだが、それはこの地に存在するはずのないものだった。その三つはマリオンが今いるこの北の大陸以外の地にあって、それぞれの大地を支えている、はずだった。
「馬鹿な。あの聖杯に出会うなんて、そんなことが二度も三度もあるはずがない」 マリオンは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
思いがけず、過去の出来事をいろいろとほじくり返されたおかげで感傷的になっているに過ぎない。
首を上に戻すと、マリオンはゆっくり目を閉じた。
先ほど分身の竜で被った痛手から、まだまるで回復していなかった。
手足の先が氷のように冷え始めている。あるいは、そこも髪と同じように黒く染まりつつあるのかもしれなかった。
自分が暗黒に飲み込まれそうになっているのだ、という自覚はあったが、身体も精神も押さえ込まれていて無力なまま蝕まれつつあった。
冷たい塊が胸の奥に留まり、心臓を強く押さえつけている。
「このままでは喰われてしまう」
あの暗黒の主に魔力どころか精神のすべてを乗っ取られ、喰い尽くされるのだ。
マリオンは仰向けに漂ったまま、右腕を胸の前の空間に伸ばした。白いはずの指先が、心なしか黒く染まリ始めているようにも見える。
このままではいけない。この闇の檻から、なんとしても脱け出さなくてはならない。
あと3回ほどで完結いたします。




