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薔薇の影(その2)

「解くしかないだろうな。かなり面倒だが」

 マリオンが一歩下がってもう一度魔法陣の全貌を見直そうとした時だった。

「微妙なところなのだよ」

 後ろから声がかかり、はっとマリオンが振り向いた。声がするまでまったく何も気配がなかったことにマリオンは驚く。

「封印を解く魔術師は必要だが、再度の封印をしてもらっては困るんだ」

 もの柔らかな深い声の男がそこに立っていた。


 明るい色の髪をしていて背の高いその男は、穏やかな蒼い目をしていた。一見して上品で高貴な物腰と顔立ちは、ネイサン・サモンデュールと似てなくもない。魔性の者という感じも外側からは伺えなかった。魔術師のようでもない。

 着ているものは、いささか時代遅れで仰々しいものだったが、豪奢ごうしゃで贅沢なものに見えた。

「私はノーマン・サモンデュール、と申す者」

 男はそう名乗ると、優雅に一礼をした。

「サモンデュール?」

 マリオンは挨拶は返さず、つったったまま眉を寄せた。

「さよう。この城の十三代ほど前の城主だった男」

 マリオンは少し顎をあげ、目を細めた。

「ほう? 十三代も前のご城主殿がなぜここにいらっしゃるのか、お伺いしても失礼はないでしょうね」

 マリオンの皮肉げな口調にノーマンと名乗る男は、かげりのない人懐こい笑みを浮かべて軽くうなずいた。

「もちろん、君には聞く権利があるでしょうな」

 マリオンはかすかに口元をゆがめただけで何も言わない。男はしばらく言葉を待っていたようだが、やがて諦めて肩をすくめ話し始めた。


「当時ここには城はなかった。もう少し北側の村のほうへいったあたりにあったのだ。ここにあったのは小さな井戸でな。その側には占い魔女が住んでいた。

 その魔女の井戸――当時そう呼ばれていたんだ――には豊かな水がいつも十分にあった。しかし、村人は誰もそこから水を汲み上げようとはしなかった。魔女は決して自分の井戸から水を汲み上げさせようとはしなかったので、ヘタなことをするとまじないをかけられて、蛙や天道虫にされると信じていたのだ。

 ある年、ここいら一帯ひどい干ばつに見舞われた。夏からずっと一滴も雨が降らない日々が続いた。このままでは収穫の秋になっても作物は実らないだろう。村の井戸も水枯れが起こり始めていた。領主は――つまり私のことだ――魔女のところにいって天候を占ってもらった。魔女は雨は降らないだろうと告げ、私はがっかりしていた」

 ノーマンは言葉を切った。当時を思い出したのだろうか、表情にさきほどまでなかった翳りがあった。

 マリオンは口を挟まない。うなずくこともせず、ただ冷たい目でノーマンをじっと見つめているだけだった。だが、それに気づいているかいないのか、ノーマン自身は気にした風はない。 淡々と過去の話を続けている。

「だが、水はたんまりあった、魔女の井戸に。私は覗いてみたよ。井戸には水が溢れんばかりに溜まっていた。私は不思議には思わなかった。・・・・・・思えばよかったものを」

 最後のほうは聞き取り難いほどの小声だったが、そこに腹立たしげなものが滲んでいることをマリオンは聞き逃さなかった。


「やがて、本当ににっちもさっちもいかないほどの渇きがやってきた。作物どころか人間が飲む水さえ事欠くありさまだった。

 何人もの魔術師がやってきて雨乞いをした。だがどうにもできなかった。魔術師たちは口を揃えてこう言った。

『わたくしには雨が降らない理由がわかりません。その理由がわからない限り、雨を降らせることはかないません』とな。役立たずな魔術師どもが」

 ノーマンは吐き捨てるようにそう言ったあとで、マリオンの方へ向いてわざとらしく一礼した。

「これは失礼。そちらも魔術師どのでしたな」

 マリオンは唇の片方の端を僅かに上に持ち上げ、頭をかすかに振って先を促すような仕草をして見せた。ノーマンは眉を上げたが、その無礼な仕草に気を悪くしたとしてもそれをおくびにも出さなかった。

「先を続けよう。そう、それで私はあの魔女の家を再び訪ねて行った。魔女は私の顔を見るなり、『何度来ても同じ、雨は降らない』と言ってくれたよ。私には、それが呪いのようにも聞こえた。まるでこの魔女自身が雨を降らさないのではないか、とね。口にも出してそう言ってみた。もちろん、私にそんな力はない、と魔女は言った。雨が降らないのは、そういう気候のめぐり合わせなのだ、しかたのないことだと。だが、私の聞きたいことはそんなことではない。何度も頼んだ。懇願した。だが、魔女は決して雨が降るとは言わなかった」

 ノーマンは、小さくため息をついた。

「それならあの水の豊かな井戸から水を汲み上げることを今年に限り許して欲しい、と私は乞うた。だが、それもすげなく断られた。決して水を汲んではならん。この私に向かってそういいおった。頑固な女だった、許しがたいほど」


「それで殺した」

 ふいに今まで無言だったマリオンが不穏な単語を口にした。ぎくりとノーマンの顔が固まる。

「ほう、魔術師殿は先を読む術にけておられるな」

 今度はマリオンが眉を上げた。

「失礼。話の腰を折ってしまいましたね。どうぞ、お続けください」

 そして、再び無言で先を促すように軽くあごをあげた。

 ノーマンは、マリオンの涼しげにすました顔を睨みつけた。

「そうだ、私は持っていた短刀で魔女を殺した。何度も刺した。何度も何度も、だ。死の間際、魔女は呪うといった。サモンデュールを許さない、と」

 ノーマンの声が大きくなっていた。

 過去のその場面を再現しているかのように、短い間に彼の目は血走り、落ち着きがなくなっていた。

「だが、私は恐れなかった。自分の死すら避けられなかった魔女にいったい何ができるんだ? 私は付いて来ていた従者たちに魔女の死骸を家の裏手に埋めさせた。どこにもこれっぽっちも後ろめたい気持ちなどなかった」


 ノーマンは肩をすくめた。

「それから、私は血まみれの身体を洗いに裏の井戸へいったよ。水は豊かだった。乾いた夏にしては豊かすぎるくらいに。いまにも井戸の縁から溢れんばかりに水はあった。そのときのほっとした気分といったらなかった。これで助かるかもしれない。少しでも水が汲めれば、作物までは無理でも人の喉は潤すことができる。そう思った」

 ノーマンは奇妙な目つきでちらりとマリオンの顔を見た。

「私は間違っていたのか? 人を救うためなのだよ。領民を救うためには多少の犠牲はいたしかたなかったのだ。そうだろう?」

 マリオンは無言のまま、否定も肯定もしなかった。表情からも何も読み取れない。ノーマンはひとつ大きくため息をついた。

「残念ながら、同意は得られんようだな。だが、もう少しおつきあいいただこうか。肝心の魔女の井戸の話をしよう。井戸は先ほどから言っているように満々と水をたたえていた。ほとんど口まで水をたたえた井戸など見たことがあるかね?  普通の井戸ではありえんことだ。女子供や年寄りたちは必死で水を汲み出し、男たちがそれを運んだ。水は幾らくみ出しても尽きぬように見えたよ。綺麗な水だった。話を聞きつけた者たちがたくさんやって来た。水は大量に汲み上げられた。それはそれは大量に」


 ノーマンは言葉を切って、天を見上げ右手を胸にあて祈るような格好をとった。

「やがて、さすがの魔女の井戸も水が尽き、枯れる日が来た。だが、ちょうどその頃、雨が降ったのだ。領民たちは、みなほっとした。もちろん私もだ。 何も大変な事など起きなかったではないか、と私は思ったものだ」

 ノーマンは深いため息をついた。

「だが、事は起こった。井戸の水が枯れたとき、そこから闇がやってきて我らを支配したのだ」

「井戸の水が結界となり封印となっていた、そういうことか」

 マリオンの静かな声に、物思いにふけっていたノーマンがはっとしたように彼の顔を見やった。それからノーマンは、自嘲の笑いをその頬に浮かべ小さくうなずいた。

「そう、そういうことだ。大地の奥底に冥府がある。死者たちが集う影の国、とでもいったほうがよいか。井戸はそこと通じていたのだ」


 ノーマンが肩をすくめた。

「この国、いいや、世界中の死者たちがいるのだ。そしてその中にひときわ大きな『あれ』がいる。黒い闇。黒い影。死の魔王。そして力のある魔術師がやってきて、この地に封印を施そうとした。たしかに封印はなされたが、魔術師は喰われた」

 ノーマンがひらひらと右の掌を宙に漂わせた。

「闇の王とその魔術師はひとつになった。あれは闇の王と死んだ魔術師の影」

「……喰われた魔術師と闇の力が融合したと」

 マリオンが眉間に深い皺を寄せた。

「そうだ、彼は偉大なる魔術師の影」

「名前は?」

 ノーマンはかぶりを振った。

「彼にはすでに名前などない。少なくとも私は知らぬ。彼には、地上の名前など必要ないのだ。すでに偉大な影なのだから」

「この私も、闇と死と影が漂っているその中の影のひとつに過ぎない」

 ノーマンの足元がぐらりと揺れたように見えた。

 目を凝らすとひたひたと波打ち際のさざなみのような黒い影が、ノーマンの足元に漂い始めていた。

「私も、他の影たちもただ単に彼に使役されているに過ぎないのだよ。下僕に過ぎない。わかってもらえたかね?」

 影はノーマンの膝元まで這いのぼりつつあった。


「私は彼からの伝言を伝えよう。この地の封印を解き放ちたまえ、と」

 ノーマンは嫌悪からか苦痛からかその顔をしかめた。影はすでにノーマンの腹の辺りまで包み込んでいる。

「だが、もうひとつ言わねばなるまいよ。私の言葉を」

 影はノーマンの喉元まで侵食していて、彼の声は既にしゃがれ始めていた。

「どうか、この地を封印」

 してくれ、と言おうとしたのかどうかは、ついにわからなかった。

 ノーマンの姿はすっかり影に飲まれ、闇に塗り込められていたからだ。もはや彼の身体は口をきくことすらもかなわぬただの影に戻り、ずぶずぶと地の底へと引きずり込まれ始めている。

「公平に言って、魔女を殺したことはともかくも、領民に水を分け与えたあたりは感心するよ。独り占めしようなんてことは考えなかったわけだからね。そのような事態になって残念だったと心から思う。だが、魔女がなぜ頑なに拒んだのか考えなかったのは、愚かだったというほかはない」

 すでに黒い染みとなりつつあるノーマンに聞こえているかどうかわからないが、マリオンは床に向かって静かな声で語りかけた。


「とはいえ、魔力を持たない者にとってその判断はなかなか難しいといわねばなるまい」

 新しい声が再びマリオンの背後から聞こえた。

 マリオンは苛立たしげに振り向いて何か言おうと口を開き、そしてそのままの形でものも言えず固まってしまった。

「元気かね? マリオン、ずいぶん久しぶりになるな」

 そこには穏やかな顔をした背の高いがっしりとした男が静かに立っていた。

 白いものが半分以上混じる豊かな砂色の髪に広い額。常に風を見ているような深い茶色の瞳と柔らかで懐かしい微笑み。それはまぎれもなく、マリオンが幼い頃から十五歳になるまでずっと、彼を守り育ててくれた魔法の師匠だった。


「……師匠せんせい。どうして」

 声がかすれうわずっているのが自分でもわかり、マリオンは無意識のうちに小さく咳払いをした。そこに立っているのは、本物の師匠の影だと本能的に確信していた。胸の奥に鋭い痛みが走った。

「私も影の国にいるのだよ、マリオン。もう地上ここから去ってずいぶん経つ」

「呼ばれたのですね。あなたも。影の魔術師に」

 師匠は少し戸惑ったような顔でうなずいた。

「だが、私は君に助けになりそうなことを何も言ってやることができない。私にはなぜここに呼ばれたのかすらよくわからないのだ」

 マリオンは唇を噛み締めた。奴はこうしてマリオンの身近にいた人々の眠りを覚ましながら、人質として見せ付けるつもりなのか。では、この次に地上に呼び出される者は誰なのか。

 マリオンは目を閉じた。愛していた人、懐かしい人、もう一度逢いたい人もたくさんいる。だが、それは心に痛みを伴う辛い出逢いになるだろう。血を吐くような痛みを持って出逢うだけなら、彼らの穏やかな眠りを覚ましたくはない。


「私は地上に戻りたいとは思っていない。ただ静かに眠りたいだけなのだ」

 師匠の言葉にマリオンは目を開いた。

師匠せんせい!」

 懐かしい顔がマリオンをやさしく見つめていた。

「しかし、このままで済ませてよいはずはない。君の気の済むように。やるなら徹底してやるんだ。魔術を行うとき、無駄にためらってはならない。そう教えただろう。 我らを気にしてはならない。我ら影の国の者は、もはや傷つくことはないのだから」

 だが、師匠の顔が苦痛に歪むのをマリオンは見逃さなかった。黒い影がノーマンの時のように師匠の足元から這い登り、侵し始めたのだ。

師匠せんせいっ!」

 マリオンの悲痛な叫びに答えるかのように、師匠は苦痛に歪んでいた顔に再び穏やかな微笑を浮かべた。すでに影は師匠の身体全体を飲み込んでいる。

「よいか、マリオン。彼の思うようになってはならない。失うことをためらうな。破壊せよ」

師匠せんせいっ!」

「君に会えて良かった」

 最後まで師匠は笑みを崩さぬまま、地下の闇の中に再び没した。がくりとマリオンの膝が床に落ちた。


「許さない。闇の主よ、絶対、お前を許さない」

 怒りに肩が震えた。噛み締めた唇から細く血が滴ったが、彼はそれを拭おうともしなかった。

 やがて、新しい影が再び地の底から呼び出されようとしている気配がした。マリオンは立ち上がると、吠えるように叫んだ。

「二度と誰も呼び出すには及ばぬ! お前の望みどおり、この封印を解いてやる!」

 言うが早いか、マリオンは手の中に大きな剣を呼び出すと六芒星ヘキサグラムの魔法陣へ向かって走った。

 そのまま大きく振りかぶりながら跳躍し、その剣を滅びの呪文と共に魔法陣の真ん中に思い切り突き立てた。

「開け、封印よ。砕けよ、すべてのくびきよ。破れよ、すべての呪縛よ。砕け散れ!」

 白く輝く剣は、眩しい煌きを振り撒きながら、千々に砕けて弾け飛んだ。


 それはかなり乱暴な方法といってよかった。封印を解くやり方というよりは、すべての魔法をぶち壊すためのものといってもよかった。普通であれば、それらの呪文をまとめて唱える魔術師はいない。 その呪文を唱えたあとのことを考えれば、なおさら慎重にならざるを得ない。

 だが、マリオンは一瞬たりともためらわなかった。呪文とともに壁のヘキサグラムの六つの石から大量の血が噴き出した。血が床を赤く染めると、それとともにあたりには生臭い匂いが立ち込めた。

 やがて血の噴出がやみ、がらがらと激しい音とともに、魔法陣の書き込まれた壁が崩壊し始めた。同時にあれほどあたりを圧迫していた魔法の気配が薄れていく。封印が解けたのだ。


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