薔薇の影(その1)
「ジェイクっ!」
ロザリンが駆け寄るのと、ジェイクの手から黒い光が放たれるのがほぼ同時だった。
その黒い光は、大きな刃のように唸りながら闇の中に立ちはだかる不気味な塊に向かっていった。
脂のようににちゃつく魔物は、それを避けようともしなかった。
光をまたその黒い身内に飲み込んでしまうつもりだったのだろう。
だが、ジェイクはすばやく身体を沈めて床の上に右手をつくと、もうひとつ別の呪文を唱えた。
「大地よ、我が母なる大地よ。我が命により、このものをその内なる深遠へ誘いたまえ」
石の床が音をたてて揺れた。
ごおっという音と共に床石が砕け散り、みるみるうちに魔物の足元が崩れ出した。
「地の底へ消え去れ!」
ジェイクが腹の傷を押さえたまま、口元にかすかに笑みを浮かべた。
だが、床の崩壊はじきに止まった。かすかに振動はしているものの、魔物は地の底へ飲み込まれるどころかその淵からずるずると這い出してきている。
ジェイクの眉が曇った。
大きな一つ目がゆっくりと瞬きをすると、にちゃりと嫌な音がした。
「お前ごときのちゃちな魔術師の呪文で、この我が城が、我が大地が崩れるとでも思っているのか」
地の底からでも吠えているかのような魔物のくぐもった哄笑が、ジェイクの神経を逆撫でした。
「我が血の供物を大地へもたらさん。我が命を疾く聞き届けたまえ!」
再びジェイクの口から呪文が紡ぎだされる。ジェイクはそれと共に自分の腰に下がっていた剣を抜き放った。
そのまま躊躇いもせず、ジェイクはその短剣を自分の左腕に突き刺した。
ジェイクは短剣を投げ捨て、その滴り落ちる血を右手で受けると、石の床に血まみれの掌を押し付けた。
「地よ。我が命に従いて、彼のものをその内なる深遠へ誘いたまえ」
血と黒い言葉によって、大地が再び音を立てて揺れ始めた。
魔物の足元の床がきしみ、端の部分からもろもろと崩れ出した。蟻地獄のように崩れ落ちる床に足元がすくわれそうになっている。
「おのれ! こしゃくな!」
怒りの声と共にぐんにゃりとした黒い不定形だったものが、急速に中央にまとまり崩れる床に呑まれる前に巨大な竜の形をとった。
竜の鱗が闇の中に気味の悪い黒銀色の輝きを放っている。
それが空間いっぱいに広がると、竜の口が大きく開く。
激しい擦過音とともにその口の奥から、血のように赤い炎がジェイクめがけて吐き出された。
傷の痛みのせいか、腕を上げ炎を避けようとするジェイクの動きが一瞬だけ遅れた。
床に腰を落とした状態では飛び退ることもできない。炎の舌が容赦なくジェイクに襲いかかる。
そのとき、後ろから飛びつくようにジェイクに抱きつき、力の限り横に押し出したのはロザリンだった。ロザリンの華奢な身体のどこにそんな力があったのかというほどの激しい勢いで、ジェイクの身体は倒れこんだ。
ほんの少しだけ遅れてジェイクの上に倒れこんだロザリンが悲鳴をあげて顔を押さえたのと、マリオンの光の浄化が地下全体に行き渡るのとほぼ同時のことだった。
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眩く全てを浄化しようとする強力な白い光に、耳をつんざくほどの咆哮をあげ竜が苦悶した。
鱗が端からもろもろと剥がれ落ち、まるで乾きすぎた粘土細工のように輪郭が崩れ始めている。
だが、ジェイクにはすでにそれすらも目に入っていなかった。
「ロザリンっ!」
うずくまるロザリンにジェイクが悲鳴に近い叫びをあげた。
「どうしたんだ?」
ジェイクが自分も血まみれのまま、ロザリンを抱き起こそうとすると、
「無理に動かすな!」
駆け寄ってきたマリオンが、ロザリンのほうへかがみこんだ。
「・・・・・・。これはひどいな」
ロザリンの顔の右側が額から頬にかけて、ちょうど掌の分ほどが焼け爛れていた。
命に別状はなさそうだが、傷の程度はかなりひどい。
ロザリンは、痛みのためか衝撃のためか目は開いているものの口もきけない状態にあった。
「ロザリン、しっかりしろ」
ジェイクはロザリンの冷えきった手を握った。わななく唇が痛々しい。
「ジェイク、君も怪我をしている。二人でここを出るんだ。外に行けばフェリシアがいる。彼女なら治療をしてくれる」
マリオンは頭上を振り仰いだ。
すでに光は収まり、また闇が少しずつ戻り始めている。
「まだ結界が全部崩れきったわけじゃない。しかも地下にはまだ奴がいる」
「奴? さっきのあれか?」
マリオンは否定の印に首を振った。
「上に出張っているのは、ただの使い魔だと思う。下にいるのは、別のものだ。しかももっと大きい。奴は、何かよからぬ目的をもって動いている」
「じゃあ、そいつを呼び出せ、マリオン。俺がこいつの仇をとってやる」
ジェイクが怒りに歯軋りをした。
マリオンは、あまりにも顔色の悪いジェイクとロザリンを等分に見比べた。
ジェイクのほうはどうやら傷がふさがりきっていないらしい。自分で血止めは行ったようだが、腹部と左腕からはまだ出血していた。
滴り落ちた血が床に血溜りを作っているが、ジェイクは自分よりもロザリンのほうだけをしきりに気にしている。
ジェイクの無事なほうの腕に抱きかかえられているロザリンの顔も、火傷部分以外は蝋のように白い。火傷部分は、爛れて赤くぐずぐずになっている。
「だめだ」
短いマリオンの言葉にジェイクの頬が一瞬だけ紅潮した。
「俺では力が足りないと、そういいたいんだろう。そんなことはわかってるさ。だが、俺は奴は許さん! 俺にやらせろ」
「馬鹿なことを言うな! ジェイク、ロザリンを、このままにしておく気なのか? 彼女の傷をこのままにしておいたら、痕が残るぞ。一刻も早くフェリシアに診せたほうがいい」
ジェイクは唇を噛んだ。
「・・リオン様」
瞳が虚ろなまま、ジェイクの腕の中でロザリンがマリオンの名前を呼んだ。
「どうしましたか、姫君」
できうる限り丁寧な口調で訊ねながら、マリオンがロザリンのほうへかがみこんだ。
「母が・・、六芒星、魔王の血、と死ぬ間際に言い残しました」
「えっ!」
マリオンがきっと壁の六芒星を見上げた。
六芒星はそのままにそこにあった。はまっている赤い石は暗い光を秘めたままで、マリオンの浄化の光もそこに何らかの影響をもたらしたようには見えない。
「そうか。もしかしたら、これは・・・・・・」
マリオンはそこで言葉を切った。側まで寄って仔細に調べたいところだった。
だが、今はそれよりもこの二人を外へ出さなくてはならない。マリオンがすっくと立ち上がった。
「ジェイク、君の傷もひどい。血止めの魔法も効いてないようだし。さぁ、早く行って治してもらいたまえ!」
「いや、俺はまだ」
ジェイクはなおも言い募るが、
「問答無用!」
マリオンは右手をあげて、ぱちんと指を鳴らした。
同時に、びゅっと強い風が吹き付けたかと思うと、ジェイクとロザリンの身体は強制的に外界へ向かって飛ばされていた。
ずきりと一瞬だけマリオンの頭の奥が痛んだ。
移動魔法は普段、自分自身以外にはあまり使用しない。しかも、他者の結界から抜け出す移動は、今日二度目だった。魔力と魔力が擦れているような奇妙な手ごたえがあって、簡単な魔法に普段の倍以上の力を必要としている。
マリオンはひとつ頭を振ると気を取り直し、六芒星を確かめるために祭壇の側へ歩いていった。
壁いっぱいにその六芒星は描かれている。いや、彫られている、というほうが正しいだろう。
灰色の石の壁に指一本分の溝が均等に掘られて、その上に金粉が擦りこまれている。
星の六つの角には、それぞれ暗い赤色をした石のようなものがはめ込まれている。更に側に寄ると六芒星の外側には黒い円が彫られていて、真ん中にはルーン文字が見える。
彫られたその文字は古いものと見え、半分がた金の色が消えかけている。そばまで寄ってもかなり読みにくかった。
「ここに、われ、地の底より・・・・・・を・・・・・・召喚せり。だが、その力、強大にて、・・・・・・われの騎士と、魔術師たちの多くが死せり。魔王の、血と・・・・・・共にこの城を封印す」
マリオンは手を伸ばし、六芒星の下の端に指を這わせた。痺れるような感覚が指先から背筋に走る。
だが、彼は指を離さずにそのままゆっくりと彫られた溝のとおりになぞっていく。一番下にはまっている赤い石の側まできたとき、吐き気のするような嫌悪と寒気を感じた。
「これは普通の石ではないな」
石に触れぬよう注意深くマリオンは顔を近づけた。
「魔王の血。もしかしてこれは奴の血、なのか?」
そういえば、ヘンリエッタの話の中にもこれが出てきていたではないか。
侍女のマーゴットが、ヘンリエッタを地下へ誘うために見せた黒い石のはまった首飾りが。
あれは黒かったのではなく、本当は暗い赤だったのではないのか。この壁にはめ込まれたものよりも小さかったために、黒く見えただけに過ぎないのではないのか。
ヘンリエッタは見せられた石が穢れている、と感じ、同時に嫌悪と恐怖を覚えたといっている。あれが全部ラザラスの(本物のほうの)作り話でないなら、マーゴットの見せた石と六芒星の石は同じものである確率は高い。
「何代か前のここの城主が、地下から『何か』を呼び出した。だが、それは彼の手におえなかった。だから、奴の血をはめ込んだ六芒星で、ここへ封印しようとした」
マリオンは目をすがめ、もう一度線の上を指でなぞった。
「血の封印」
血を六芒星の上に固定することで、地下の主をここに封印しているのだ。
「しかし、時と共に封印の効力が薄れてきた。地下の主は、自分の血を首飾りにして持たせた使い魔を地上に出して悪さを始めた」
なんのために?
はたして、悪さをして遊びたいだけだったのだろうか?
いいや、そのためだけならわざわざヘンリエッタに呪いをかけてみたり、侯爵を使って娘たちを攫ったりと事を起こし、それを何とかするために魔術師を探してみようなどとは考えまい。奴の思惑は別のところにあったはずだ。
侯爵もヘンリエッタも単にそのために利用されたに過ぎない。
ヘンリエッタにかけられた呪いを解くために、侯爵はこの十年ほどの間、自分でも魔術に関していろいろと勉強をしたのかもしれない。
だがもちろん、侯爵自身にはヘンリエッタにかけられた呪いを解くことはできなかった。だから彼は、力のある魔術師を探そうとしていた。
しかし、とマリオンは指を止めた。
あのヘンリエッタへの呪いを解くことができる魔術師がいたなら、その力を利用しよう、と考えたのは実は侯爵ではないのではないか。
地下の主だ。あの呪いは、一種の試金石であったのだ。そう考えれば、つじつまは合う。あれが見破れる魔術師なら自分の役にたつと考えたのに違いない。
ラザラスでは、力が及ばず使えなかった。
ジェイクは、力量はともかく、そもそも侯爵のやっていることにまったく興味を示さなかった。彼は自分の利益になりそうもないことには、絶対に首を突っ込まない性質だ。興味がなければ、聞く耳などもつまい。
では、国王が宮廷魔術師にしようとしたらしいマリオンという魔術師はどうだ?
だが、思惑は外れた。ラザラスとモーリスの罠にかかった魔術師は、あっさりと黒い矢の前に倒れることになった。
この件は、同時にフェリシアをおびき出す役目も果たしている。侯爵は、最初のパーティの時からフェリシアをヘンリエッタに顔を貸す美女として白羽の矢を立てていたのだ。
いっぽうでラザラスは、ジェイクに対する認識を改めることになった。彼はマリオン――実際はジェイクだが――に突き立った黒い矢を一瞬で消滅せしめたのみならず、侯爵に興味を持ちいろいろなところに首を突っ込み始めたのだ。これは使えるかもしれない。
ここまできて、やっと奴は利用できそうな魔術師を見つけたのだ。
「ジェイクに化けたこの僕を」
と、マリオンは皮肉げに口元をゆがめた。なんとも光栄なことだ、とマリオンは封印から指を離した。
「だとすれば、厄介だな」
マリオンの顔に憂慮の影が浮かんだ。
奴の目的は、封印からの解放なのではないのか。長い間、奴は地の底で静かにそれを願ってきたはずだ。効力が薄れ始めてきたとはいえ、このままずっと地の底ですべての効力がなくなるまで待っている気はなくなったのだろう、と思う。
だから、力のある魔術師が必要だった。自分の手足となったラザラスでは解けなかったのだ。
多分、このまま捨ててはおけない。すでに封印は半分ほども解けかかっているのだ。このままでは地上にどんな影響が出るのか解らない。
いったん古い封印を解いて、再度行わなければならない。
だが、既に行われた封印のうえに封印を重ね二重にすることは、魔力の混乱を招きやすい。よほどうまくかけ直さないと、自分と他者の魔力同士がぶつかり合い、摩擦を起こし、相殺され、逆に封印の役目を果たさなくなることが多い。
一度解いて、新たにかけ直すのが一番確実な方法だと、マリオンは過去の経験からも学んでいた。
だが、封印を解くことは口で言うほど簡単ではない。封ぜられたものが大きければ大きいほど、封印魔法は堅牢なものであるはずだ。
もし首尾よく解けたとしても、封ぜられたものは一瞬であれ自由の身となる。再度の封印なぞ決して望んではいないだろう地下の主は、もちろんその機会を狙ってくる。
「たぶん、力で攻めてくる」
二重の意味で封印の解放は、難易度が高く熟練した魔術の腕と戦闘能力が必要だといわねばならない。




