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散りゆく薔薇(その1)

 ロザリンは声も出せず、ただ呆然と火柱を見ていた。

「水よ、生命の源である大いなる水よ。我が命により、炎を消滅せしめよ」

 ヘンリエッタの悲鳴でできたラザラスの一瞬の隙を突いて、移動魔法で結界を抜け出したマリオンが呪文を唱えた。

 すぐに彼の右手から滝のように大量に放出された水によって、みるみるうちに火の勢いが削がれていく。

 水蒸気が盛大にあがり、それと共にいろいろな物が焦げる嫌な匂いが鼻をついた。視界は蒸気の白い壁に遮られ、どこに侯爵がいるのかすら見ることができない。なんとかしようにも、マリオンはいつのまにかまた姿を消している。

 白い遮蔽幕がおさまるまで、ロザリンは二人に近づくことができなかった。やきもきしながらロザリンは、水蒸気がおさまるのを待った。

 最後に見えた光景のあまりの無残さにロザリンは叫びだしたい衝動に駆られ、ドレスのスカートをきつく掴みそれに耐えねばならなかった。泣き叫んでも、今更どうにもなりはしない。


 ロザリンは唇を噛んだ。

 やがて水蒸気がおさまると、そこには二つの人影が折り重なるように倒れていた。

 仰向けに倒れた侯爵は、それでも最期までヘンリエッタの身体を放そうとはしなかった。その腕は、今もしっかりと妻の身体に巻きついている。

「お、お父様っ! お母様っ!」

 二人に駈け寄ったロザリンの靴がざりりと何かを踏みつけた。

 それはヘンリエッタのつけていた白い仮面だったが、ロザリンはそれには目もくれなかった。仮面は焼け崩れすでに原型をとどめていない。

 為すすべもなく、ロザリンは二人の前に倒れこむように座り込んだ。煤で汚れたロザリンの頬を涙がひと筋すべり落ちていく。

「お父様」

 ロザリンは、わななく唇で父を呼んだ。侯爵は、すでに息をしていない。

 その顔は無残に焼け爛れ、髪も髭も焦げ付いて元の面影はほとんどない。豪奢な衣装も無残に焼け落ちてその間から見える肌もすっかり赤黒く色が変わり、ところどころから激しく出血していた。

 だが、その侯爵の腕の中に守るように抱かれていたヘンリエッタのほうはまだ息があった。ヘンリエッタはあえぎつつ、侯爵の胸からその顔をわずかにあげた。


「お母様! しっかりなさって」

 ヘンリエッタのもろに炎を浴びた顔の左側は、侯爵と同じに焼け爛れていたが、胸に押し付けられていたほうはどこにも傷がついていなかった。

 そしてそれは、ロザリンの記憶の中にある昔のままに美しい顔だった。

「お母様。お顔が元に戻っていらっしゃるわ」

 思わずあげたロザリンの声に、ヘンリエッタが小さく笑みを返したように見えた。

 その顔は、幼い頃に見た優しい母のものでロザリンの胸が熱くなった。

「ロザ・・・・・・。魔王の血の、六芒星」

 最後の気力を振り絞るようなかすれた声で、ヘンリエッタがロザリンに囁いた。

「なんですって? お母様。何をおっしゃりたいの?」

 ロザリンは躊躇わず母の口元に自分の頭を押し付けた。

「・・・・・・ロザ・・・・・・、わたくしの薔薇(マイローズ)・・・・・・」

 やっとのことで聴き取れたそれがヘンリエッタ最期の言葉になった。

 まぶたがゆるやかに閉じられ、まるで愛おしみながら寄り添うように柔らかに侯爵の胸にヘンリエッタの首が落ちた。

「お母様・・・・・・」

 ロザリンは胸の前で震える指を組み、祈るために目を伏せた。最後に母が呼んでくれたのは、自分の名前だろう。マイローズ、私の薔薇、と。

 最後の最後に、母が残した言葉、それが自分の名であったことにロザリンは泣いた。


 だが、それ以上、悲嘆に暮れている暇はなかった。

「おーやおや、死んでしまったのね。あの二人。まったく役に立たないわねぇ」

 突然、ロザリンの頭上の闇の中からどこか面白がっているような声が降ってくる。はっ、とロザリンが顔を上げた。

 闇の中にぽっかりと浮かんでいたのは、にやにや笑いを貼り付けた女の生首だった。それは、人間の背丈では到底あり得ない高さにあり、しかもどんなに目をこらしても首以外のものはどこにも見えない。

 蒼白い女の顔は整ってはいるが、ぬめるようにてらつく赤い唇が妙に目立ち不気味でいやらしかった。


「呪いも解けたようだね。わかったかしら、お嬢ちゃん。何故呪いが破れたか」

 ロザリンは立ち上がり、きっと女の顔を睨んだ。不思議に恐怖はなかった。ただ、怒りのみがあった。

「お前のせいなのね。お母様とお父様が苦しんだのも、村の娘が攫われたのもすべては、お前とラザラスのせいなのね。許さないわ」

 怒りのあまりロザリンの声がかすれ、それを嘲笑うかのように女の赤い唇の両端が思い切り横に裂けた。

「あーら、許さない、ときたわね。素敵にお馬鹿なお嬢ちゃん。では、お前も両親と一緒に逝っておしまい」

 ロザリンに避けるすべはなかった。

 大きく横に裂けた赤い女の唇からびゅうっと鋭い音を立てて、黒い風がロザリンに向かって吐き出された。

 そのまままともに受けていたら、たぶんその鋭い刃のような風によってロザリンの胴体はふたつに切断されていただろう。

 だが、ロザリンの目の前で風は忽然と出現した光の壁によって弾かれ、その威力を失った。

 立ちすくんでいたロザリンは、自分の身体がぐいっと後ろに引かれ、誰かのマントの内側に抱きかかえられたのを感じた。


「ふざけたことを抜かすなよ。何でもお前らのいいなりになってたまるか」

 聞き慣れたジェイクのすごむ声がロザリンの頭の上で聞こえ、頬には彼の体温が感じられた。

「ジェイク・・・・・・」

 ロザリンは我知らず小さく安堵のため息を漏らした。

「ロザリン。すまなかった、遅くなって」

 ジェイクがそう囁いたとき、ロザリンは危うく涙ぐむところだった。

「おやおや、姫君を守る白馬の騎士参上? といっても、どっからどう見ても真っ黒い魔術師みたいだけどね」

 女はおかしそうに笑ったが、次の瞬間、のけぞると喉の奥からうぉぉと獣じみた叫び声をあげた。


 ロザリンが振り向くと、小さな黒い短剣が女の眉間に深々と刺さっているのが見えた。

 ジェイクの手から放たれた黒く細い短剣が音もなく闇を縫い、女に向かって飛んだのだ。

 すかさず、ジェイクの口から滅びの呪文が紡ぎだされる。

 短剣は抜かれるひまもないうちに、女の眉間の中で粉々に弾けとんだ。

 その短剣の欠片とともに、女の顔が粉々に弾けとぶのを、しかしロザリンは見ることができなかった。

 ぐにゃりと女の顔が歪む。歪んだ顔はまるで濃い粘液のようにそのまま破片を飲み込むように膨張した。目や鼻が風船のように伸縮し、原形をとどめないまま巨大に膨れ伸びていく。さっきまでロザリンが横たわっていた寝台もそのまま飲み込めそうなほど横に大きく裂けた唇は、そこにいやらしい笑みを浮かべたままだ。

 やがて粉々に砕けたジェイクの短剣は、すっかり粘液に絡めとられ飲みこまれてしまった。


 ちっとジェイクが舌打ちをした。

「化け物め。ロザリン、後ろへ避けていろ」

 ジェイクが、軽々と片手でロザリンを抱き上げると、自分の後ろへ半ば投げ込むように押し出した。

 同時にジェイクの口から呪文が流れ出て、二人の周りに遮蔽しゃへいの結界が張られる。

 女の顔であったものが、そのまま更に膨張して周りにあった大きな闇と交じり合い、溶け合っていくのがロザリンにも見えた。女の顔と見えたものは、闇の中にあった本体の一部でしかなかったのだ。すでに顔は本体の中にまぎれてしまい、残っているのは大きく裂けた口だけだった。

 目をこらすと、巨大で見上げるほどの濃いそれは、黒いやにのようなどろりとした禍々しい塊に見えてきた。

 奥行きのある部屋の端から高い天井までの闇だと思っていたものが、すべてその化け物の身体だったのだ。

 何か粘液のようなものを引きずるような水気を帯びた不快な音とむせかえりそうな生臭い匂いがロザリンにも届いていた。


 そして先ほどまでなかった天井に近い位置に、大きな血走った眼球がひとつ現れるのが見えた。

 ロザリンは床に倒れて座り込んだままだったが、悲鳴も呻き声もあげなかった。ジェイクに投げ出されたときに、石の床で打った膝が痛かったが、今はそんな仔細なことに構ってはいられない。

 自分にできることを探さなければ、とロザリンは忙しく考えていた。

 さっきロザリンが抱き上げられたとき、ジェイクの目が真剣な色に染まるのを一瞬だったが見てしまったのだ。

 ジェイクは、この化け物の力が半端ではないことに気がついている。ジェイクの目の中に怒りのようなものをロザリンは見たような気がする。きっと彼は、彼のプライドを賭けて後には引くまい。

 自分は常に金のためにしか生きない、と口ではいうくせに、魔術師としてのプライドは高いということにロザリンは気づいていた。

 何があっても、しっぽを巻いて逃げることだけはしないだろう。たとえ死が間近に彼に迫っていようとも。


 もしかしたら、この人も失うかもしれない。

 そう考えて、ロザリンは身震いした。自分が化け物に食われることよりもそちらのほうが、今のロザリンには怖かった。

「いいえ、黙って見ているだけじゃいや。何かできることがあるはずよ、私にだってきっと何か」

 びりびりと音にならない振動が肌を刺す。

 二人の周りを黒い霧のような物が覆いこみ、押しつぶそうとしている。

 ジェイクの口から、新たな呪文がつむぎ出され、その呪文によって更に大きくあたりの空気が震えた。

 誰の叫びなのか、地を響かせて闇の底から唸るような不気味な声が聞こえている。

 耳をふさいでも漏れ聞こえるその咆哮に、ロザリンの身体が震え思考がうまくまとまらない。

 ロザリンは落ち着くように、胸に手を当てて深く息を吸った。

「お父様、お母様、私にお力をお貸しください」


 ふとロザリンは顔をあげた。

 母の最期の言葉を思い出したのだ。

「六芒星。魔王の血」

 ヘキサグラムとは、あの壁に描かれた奇妙な紋様であるということはロザリンも知っていた。

 だが、魔王の血とは何のことなのか。

 ロザリンは、結界を通して横手にわずかに見える壁いっぱいのヘキサグラムを見つめた。

「あれはいったい何のためにあそこにあるの」

 ロザリンは疑問を小さく声に出してみた。

 六芒星の掲げられた壁のすぐ前にある石造りの寝台は、自分が先ほどまで寝かされていたものだ。あれは祭壇のつもりなのだろうか。

 では、あの六芒星は何のためにあそこに掲げられているのだろう。

 誰かが何かを祀ろうとして、あそこに描いたのだろうか。では、誰が何を祀ろうとしたのか。


 六芒星の六つの角には、暗い色の輝石が嵌め込まれているように見える。

 それは、大人の拳ほどもありそうな大きなものだ。だが、それを輝石と呼ぶのはロザリンには躊躇いがあった。

 それはよく磨きこまれているようだが、美しいとはいえない。

 どこか禍々しい感じがつきまとっている。

 赤っぽい石なのはわかるのだが、たくさんの宝石や輝石を見慣れているロザリンにもあれが何の石なのかは判別ができなかった。

 よくよく見れば、六芒星のその真ん中にはなにか複雑な形の黒い文字が書き込まれている。

 ルーン文字のようでロザリンには読めないが、あれは魔法の呪文なのかもしれない。


 そこまで考えたとき、どんと激しい衝撃が起こり、ロザリンの華奢な身体は数フィートほど後方へ弾き飛ばされた。

 ジェイクの作った障壁が壊されたのだ。

 ロザリンが慌てて振り向くと、剣のように研ぎ澄まされた黒い風が、ジェイクの胴を無造作になぎ払うのが見えた。ジェイクの腹から吹き出た血しぶきがまるで赤い霧のようにロザリンの視界を染めた。

「いやー!」

 ロザリンは悲鳴の形に口をあけた。

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