ざわめく薔薇(その2)
「くそっ! おい、マリオン。いったいどこまで続いているんだよ、この階段は」
何十階分か降りたとき、どこまでもどこまでも続くうんざりするほど長い階段についにしびれを切らしたジェイクが、目の前を行くマリオンの背に尋ねた。答えはない。
目の前にあったはずのマリオンの背中が急に揺らいで遠くなる。マリオンの長い金色の髪が幻のように闇の中をゆっくりと羽根のように漂い流れ、そして飲まれていった。
「おいっ!」
再び彼の名を呼ぼうとして、ジェイクは思いとどまった。
何かがおかしい。
ジェイクの疑問に答えるかのように、空気が僅かに震えた。
「しまった。どこかで目くらましの魔法を喰らったな」
ジェイクは足を止め、振り返って後ろを見上げた。そこには、ただ闇が広がっていて、何も見えない。たった今、自分が降りてきた階段すらも、ほんの数段ほどがかろうじて透かし見ることができるだけだ。
頼りになりそうなものは足元に漂っているマリオンのつけた蒼白い灯りだけだったが、その灯りすらも下へは降りるが、上には戻ろうとしない。
すでに後ろは見えない闇の壁に塞がれていて、元の場所へは戻れないのだろう。
ちっとジェイクは軽く舌打ちをした。
「こんなとこで迷ってる暇なんかないんだぞ!」
ロザリンを早く助けに行かなくてはならないという焦りで、身体が熱くなってくる。
だが、このままただ闇雲に前に進んでいいものかどうかジェイクは迷った。
進んだところで、いつまでたっても目的の地に辿り着かない可能性もある。まるで別の空間にいきなり放り出されたり、延々と闇の中を引きずりまわされた挙句、何もできないまま命を失うことも充分に考えられるのだ。
「お前が頼りになるもんかな?」
その言葉に憤慨したように、いきなり蒼白い灯りが足元からジェイクの顔のあたりまで浮き上がり、彼の鼻先をかすめた。
熱くはなかったが、ふいをつかれてジェイクは思わずのけぞった。
「わ、わかった、わかったよ。お前、どっかご主人様に似てるよな? 一体何者なんだ?」
マリオンに似ていると言われたせいか、灯りは嬉しげにジェイクの足元でぴょんと跳ねるような仕草をして見せた。
それから、まるで誘うように階段の下へふわりと漂い降りたかと思うと、再びジェイクの足元へ戻って来る。
同じ仕草を二度三度と繰り返してみせるその様子に、ジェイクは決心したようにうなずいた。
「とにかく下へ行くしかないってことだな。わかった、お前と前に進もう。行くぞ、ロザリンが待っている」
ジェイクは階段の下を睨みつけながら、また蒼白い灯りを頼りに闇の底へ駆け下りていった。
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気がつけば、後ろにジェイクの姿がなかった。
マリオンは、はっと足を止めた。背後の闇を仰いで透かし見るが、ただ、息苦しいほどの濃い漆黒が覆いかぶさるように広がるばかりで、どこにも灯りも人影も見えない。不気味な地鳴り以外にどんな物音も聞こえてこない。
だが、ジェイクの先ほどの様子からして、怖気づいて自分だけ地上に戻ったとは考えにくかった。マリオンは、唇を噛んだ。
「惑わされたか」
ジェイクを見失ってしまった。
だが、もはや彼を助けに戻ることはできない。
進むしかないのだ。
マリオンは、足もとの青白い灯りを眺めやった。青白い灯りは、彼の足元のあたりをふわふわとのんきそうに漂っている。
「灯りが一個、彼についていってるな」
それだけが救いだった。
少なくとも、ジェイクはたった一人で闇の中に取り残されたのではないということだ。
「あとは自力で何とかしろ」
マリオンは表情を動かさずに背後に広がる果てしない闇に向かってそうつぶやくと、決然と前を向いて二度と振りむかずに再び闇の底へ下り始めた。
どれだけの階数を降りたのだろう。
前回よりもその時間は長いとも、短いともいえない。
歪んだ空間がすっかり彼から時間の感覚を失わせていた。
だが、終わりは唐突に訪れた。
何の前触れもなしに、前回と同じ黒い扉がマリオンの前方に現れたのだ。
それは間違いなく、さんざんラザラスがもったいぶって開けた地下への入り口の扉だった。
マリオンは、ほっと息をついた。
「ようやく現れたな」
取っ手は彼の手の中で抵抗なくすんなりと回った。侯爵が開錠したままなのだろう、鍵はかけられていない。
ゆっくりと扉を開くと、マリオンはその内側へ躊躇いなく踏み込んだ。
廊下のつきあたりの扉はどうやら半開きのままになっているようで、あらかた蝋燭の灯りが消えてしまっている闇の先がほんのりと明るい。
マリオンは、小さく指を鳴らして蒼白い灯りを消し、代わりに空中から細身の剣を呼び出した。
その魔法によって空気が僅かに揺らぐ。
闇の気配はますます濃い。
ジェイクの姿を借りてこの城を訪れた最初の晩に、闇の中に感じた冷たい不安なものの正体がここにあったのか、とマリオンは思い返していた。あのときは、はっきりとしたものは何もつかめなかった。
だが、闇はずっとここにあった。長い時間を経て、なお力を失わない強い闇が。
そして、その闇は、今、外界へ再び生まれ出でようとしている。
マリオンはさらなる扉をゆっくりと開いた。
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「いったいお前たちは、ロザリンをどうするつもりなんだ」
音もなく引き開けられた扉の隙間から中をうかがうマリオンの耳に、いきなり侯爵の鋭い言葉が飛び込んできた。
息をひそめて覗き込むと、左手にある祭壇の前に人影が見えた。
侯爵のおかげで、誰もマリオンには気づいていない。
マリオンはマントのフードで髪を隠し、静かに扉の内側に身体を滑り込ませると、柱の影の中に身をひそませた。
祭壇の前には三人の影が見えている。
一人は、サモンデュール侯爵。もう一人はラザラス。そして、仮面のままのヘンリエッタ。
彼女の手には大きな燭台が握られており、その灯りにひときわ白く仮面が輝いている。
『おや、肝心のロザリンがいない?』
マリオンが目を凝らすと、祭壇の前に横たえられた人影らしきものが見えた。
祭壇の上には金と六つの石で作られた六芒星が壁にはめ込まれているが、相変わらず薄暗い中、石の種類までははっきりと見てとることができない。
石は全てが同じもののようで、柘榴石か黒瑪瑙のように暗い色合いのようだが、さきほどとは異なり、六芒星自体がかすかに明るみを帯び輝いているように見える。
「別にどうもしないわ、ネイサン。何をそんなにお怒りなの?」
明らかに猫なで声を出しながら、侯爵の胸に媚びるように手を当てヘンリエッタがなだめている。
だがその手を邪険に振り払い、侯爵は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「自分の娘だろう、ヘンリエッタ。このような事態になったら、真っ先に城外に逃がしたい、と思うのが心情ではないのか? それが親ではないのか? 何故ここにロザリンがいるんだ」
くくくっと引き込むようにヘンリエッタが笑った。
「何をおっしゃっているの、あなた。今はここが一番安全でしてよ。ここが一番」
仮面の奥の表情は読めない。しかし、口調には邪悪な影を宿している。
「私に嘘をつくな」
と、吐き捨てた侯爵の口調が、すぐに哀願するような調子に変わった。
「ヘンリエッタ。お前は変わってしまった。何故だ? あの優しく美しいヘンリエッタはどこへ行ってしまったんだ」
燭台を掴んでいるヘンリエッタの手の関節に力が加わってさらに白くなるのが、遠目にもはっきりと見えた。
それは、美しい、という言葉にヘンリエッタが反応したようにマリオンには思えた。
ヘンリエッタは、燭台をロザリンが寝かされている台の端に慎重に置いた。
「わたくしが美しくなくなったからよ、ネイサン。だからすべてが悪いほうへと進んでいるの」
震える濁った声で、不吉な女神の託宣のようにヘンリエッタが告げた。
侯爵はかぶりを振った。
「お前は愚かな女だ。美しいということがどういうことかわかってはいないのだよ」
侯爵の声は穏やかだったが、まるでそれが胸元に突きつけられた刃物ででもあるかのようにヘンリエッタは大きく身を震わせた。
「わかっていない? わかっていない?」
ヘンリエッタは小さな声で二度ほどそう繰り返すと、いきなり大きくのけぞって狂ったように笑い出した。
それから苦しそうに息をつぐと大きく腕を広げ、責めるような口調で侯爵に詰め寄った。
「あなたは一体何をおっしゃっているの? 美しいということがどういうことか、このわたくしにわからないですって? わかっていてよ、誰よりも。失ったらどんなに辛いかということも。あなたに何がおわかりになるというの?」
ヘンリエッタは癇癪を起こしたように地団駄を踏んだ。
割れて濁った声が次第に高くなっていく。それは涙声になっているようにマリオンには思えた。
「大体、わたくしと結婚なさったのは、わたくしが誰よりも美しいからだったくせに。わたくしを愚かというなら、あなたも愚かな男だわ、ネイサン。そうでしょう?」
侯爵は絶望的な暗い目でヘンリエッタを見つめた。
次に彼の口から出た言葉は低く押さえられていて、耳の良いマリオンですら聞き取り難かった。
「そうだ、私は愚かだった。私がすべて悪かったのだ。誤りは自分で正さなくてはならぬ」
だがその言葉は、マリオンよりも侯爵の近くにいるヘンリエッタの耳には届いていないように見えた。
ヘンリエッタは、唇を噛み締める侯爵の前で媚びるようにその身をくねらせた。
「でも、あなた。もう何も心配はいらなくてよ。わたくしは元に戻れるのですもの」
侯爵が俯けていた顔をあげた。
「なんだって? またどこかの娘を攫ってきたというのか」
「よその娘、ですって? そんな者たちはだめに決まっているでしょう、ネイサン。まだおわかりにならないの? あの逃げた魔女だって確かに綺麗な顔立ちだったけれど、わたくしにふさわしいとはいえないわ。わたくしにふさわしい顔はひとつしかないの」
それからヘンリエッタは、思わせぶりに台の上に横たわるロザリンに仮面の顔を振り向けた。
驚愕の表情を浮かべたまま、その場に固まっている侯爵をよそ目に、ヘンリエッタは気を失っている自分の娘の白い頬に、ついとその手を伸ばし優しく指でなぜた。
「サモンデュールの薔薇にふさわしい顔はひとつしかないのよ」
「まさか、お前は!」
ようやくのことで、呪縛から解き放たれたように侯爵が声をあげた。
「ええ、ロザリンの顔をわたくしのものと入れ替えるの」
こともなげにヘンリエッタが宣言した。




