ざわめく薔薇(その1)
【M&J's SIDE】
マリオンが戻ってきたのは、あの北側にある倉庫の前だった。
突然現れた魔術師の姿に、腰を抜かさんばかりに驚いたのは、他ならぬ作男のジョンだった。
見慣れぬ男が、空中から突然自分の前に現れれば無理もない。
しかも、その男は現れて彼の顔を認めると、少しだけ厳しい表情を崩し、親しげに肩をたたいたのだ。
「やぁ、ジョン。無事でよかった。ここは危ない。北の棟、いや、この城の外へみんなを連れて出たほうがいいよ」
突然のことで口も利けずにジョンは、魔術師の顔を呆然と眺めて足を震わせているばかりだった。
「そうか、あのとき僕はジェイクの姿だったからか。しかたないな」
眉を寄せ独りごちるマリオンに、
「あ、あなたはジェイクさんのお友達の……」
ようやくジョンは、マリオンが誰だったのか思いついたようだ。
それを見て取ったマリオンは、業を煮やしたように元の厳しい顔つきに戻るとさっと腕を振り上げ、門の方角を指さし声を荒げた。
「行け、ジョン! 城が崩壊する前に。まだ、間に合う。行くんだ、仲間を連れて」
まるでそれが合図だったかのように、再び地面が唸りをあげて揺れ始め、ジョンは悲鳴をあげた。
そのまま悲鳴とも叫びともつかぬ声をあげながら、ジョンは突然マリオンに背を向けて走りだした。
彼は、いったん門へ向かおうとしていた足を止め、思い直したようにみんなのいる休憩小屋のほうへ向かった。
「城が壊れる! 魔術師がそう言ってる! 城が壊れるぞー! みんな逃げろー!」
いつもの大人しいジョンの様子からは想像も出来ないほど切迫した声に、休憩小屋はもとより、城内にいた人々が大勢驚いたように窓から顔を覗かせた。
ジョンは、なりふりかまわず大きく手を振りながら叫び続けた。
「城が崩れる! 早く城の外へ出ろー! みんな出るんだー」
元々不安そうな目をしていた人々は、それを聞くと慌てたように我先と外へ走り出て、門へ向かっていく。
やがて、ジョンだけでなく他の者たちも同じようなことを叫びながらあちこちへ走り回り、それに連れて城の外へ出て行く人々が門へ殺到し始めた。
その叫びを背中で聞きながら、長身の魔術師はすでに黒い風のように北の棟に向かって走り出していた。
あれほど明るかった空は、まだ午後も早い時刻だというのに、城から立ち昇る瘴気を吸いこんでしまったかのようにどんよりと重く暗い色合いに沈んでいる。そのうえ、繰り返し何度も起こる大地の揺れで、気分が悪くなりそうだった。
不気味な地鳴りがずっと続いていて、マリオンの肌は、敏感に地下にいるものの気配を感じて粟だっていた。
空気に色がついたかのように辺りの風景も重く沈み始めていて、最初はかすかだった生臭い匂いが徐々にきつく耐えがたくなっている。
「マリオン!」
北の棟に続く庭へ踏み込んだとき、呼び止めたのはジェイクだった。
「ジェイク。無事だったか」
安堵したように声をあげ駆け寄ったマリオンの胸倉を、すかさずジェイクの手がつかみあげた。
だが、視線で殺しかねないほどきつく睨みつけていた暗い色の瞳が、不安げに一瞬揺らいで、すぐにその手はマリオンから離れた。
「お前に言いたいことは山ほどあるが、今の俺にはそんな暇はない」
「何があった?」
ジェイクはそれに答えぬまま、いきなりマリオンに背を向け、北の棟へ向かって走り出した。
「ジェイク! そっちは危険だ、戻れ!」
追いかけていったマリオンがジェイクの肩を掴むと、彼はそれを振り払った。
「危険なのは百も承知だ。ロザリンが攫われた」
「ロザリンが?」
いらだたしげに足を止めると、じろりとジェイクが横目でマリオンを睨みつけた。
「だいたいにして何の騒ぎなんだ、これは。何故こんなに地下がざわめいているんだ。マリオン、お前、この城に何をした」
マリオンは、小さく肩をすくめるような仕草をして見せた。
「僕は何もしていない。フェリシアを連れて、城から抜け出るときに少し空間は歪んだかもしれないが、地下の封印が解けるほどのことはやってないぞ。そこまで間抜けじゃない」
「フェリシア?」
突然出てきた名前に、訝しげにジェイクが眉を上げた。
「お前こそ何があった?」
ジェイクの問いにマリオンが答えようと口を開きかけたときだった。
目の端に何か黒い影が、ちらりとうごめくのが見えた。
はっと首を廻すと、つられたようにジェイクもそちらへ視線を移した。
誰かが回廊を走っている。
それも尋常な走り方ではない。
まるで何かに憑かれてでもいるように、腕を大きく振り、死に物狂いで走っている。
白く浮き上がった柱と柱の間の空間に、マントを翻して走る男の姿が、まるで影絵のように浮かんでは消えた。
やがてその影は、北の棟の正面の大扉を乱暴に引き開けると、その黒々とした闇の中へ飲み込まれていった。
「侯爵だ」
叫んだのは、二人ともほぼ同時だった。
そして、その大扉へ向かって走りだしたのもほぼ同時だった。
侯爵の消えた扉を引き開け、中へ飛び込んだのは、マリオンのほうが一瞬だけ早かった。
そのまままっすぐに、ラザラスに案内をしてもらった地下への入口を隠している奥の書庫へと向かう。重い扉を次々と引き開けて、部屋から廊下、また別の部屋へと抜けていく。
扉は閉まっているものも、半開きになったものもあり、たった今、マリオンたちと同じように侯爵が慌しく通っていったであろうと思わせた。
ラザラスに案内されたときは何も感じなかったのだが、今はただ書庫が奥まっているのがもどかしい。
侯爵の姿はすでにどこにもなく気配すらしない。廊下には、遠い地鳴りと二人の靴音だけが空しく響いた。
「どこへ行ったんだ、侯爵は」
幾分息を切らしながら、ジェイクが尋ねた。
「地下だ。たぶん、ロザリンもそこにいるんだと思う」
「何故だ! ロザリンを誰がどうしようとしてるんだ」
叫ぶようなジェイクの問いに、マリオンは答えられなかった。
彼なりに嫌な予測はしていたが、それをジェイクにそのまま伝えることははばかられた。
それにあの事の発端となったヘンリエッタの長い話を、どう彼に伝えたものか。
心の中で迷いながらマリオンは無言のまま、奥の書庫の扉を引きあけ、地下への入り口となる一番奥の壁に取り付けられた大きな書棚へ向かった。
その書棚は、高い天井まできっちり造りつけられ、到底、人間一人の力では動きそうにもないように見えた。
しかし、先にラザラスがやって見せたように、中央の6フィート(1.8m)ほどの棚部分が、思ったよりも軽い力で手前に引き出せて、さらにそれを左側に寄せると地下への入り口が開く仕掛けになっていた。
すでに、侯爵が入り込んだあとなのだろう、その地下への入り口となる書棚は大きく口を開けていた。
黒々とした穴の奥から冷えきった生臭い風が吹き上げてきて、思わずジェイクが袖口で口元を押さえた。
あの地下の気配も色濃く、押さえ切れない魔法の力もそこから途切れることなく流れ出ている。
「こんなところにこんなものがあったのか」
少し震えた声でジェイクがつぶやいた。
「ジェイク、ここから先は僕だけでいい。君はできれば、城の人たちがどうなっているのか、そっちを見て欲しい」
書棚の奥の闇を見つめたままマリオンがそう言うと、ジェイクは軽蔑したような強気の視線をその横顔に投げつけた。
「ふざけるな。ここまで来ておめおめと引き下がれるか。そんなに城の奴らが気になるなら、お前が戻ればいいだろう」
「・・・・・・。わかった。一緒に行こう」
あっさりとマリオンはうなずくと、かすかな笑みを口元に浮かべ、ちらりとジェイクを見やった。
ふんと、顎を上げ、ジェイクは笑いもせずにじろっとマリオンを睨みつけた。
「俺を試すつもりならやめておけ。無駄なことだ」
「そう、君だってロザリンのためなら、どこへでも行くよね」
マリオンが嫌味なくさらりと言ってのけた言葉に、ジェイクは頬をさっと朱に染めた。
「あのな!」
怒りの形相で今にも掴みかかりそうなジェイクにマリオンは、
「僕だって行くさ、護りたい人のためならね。そういうもんだろう」
と、真顔で言ってのけた。
「違うか?」
マリオンのいたって冷静な、しかもまじめな問いに気圧されたようにジェイクは手を引っ込め、顔をそむけた。
「馬鹿馬鹿しい。たわ言を抜かしている暇はないんだぞ」
「君は、もっと素直にロザリンにそう言ったほうがいいと思うよ」
マリオンは軽く肩をすくめてそう言うと、もう一度怒りの形相で何かいいたそうに口を開いたジェイクから視線をはずして、鋭い目で深遠の中を覗きこんだ。
「さぁ、行こう」
ふっと軽く息を吐いて呼吸を整えると、マリオンが先に立って書棚の奥の入り口に身をくぐらせ、はぐらかされた形のジェイクが不満顔ですぐ後に続く。
書棚の奥は狭い踊り場になっていて、その先には急な階段が続いている。
踊り場に立つと、かすかな振動が足の裏から身体に響いてきた。
マリオンがぱちんと指を鳴らすと、どこからともなく1フィートほどの大きさの蒼白い灯りが二つ現れて、二人の足元をそれぞれ照らした。
「ここは目くらましの階段になっているんだと思う。迷うなよ、ジェイク」
「・・・・・・。わかった」
慎重に、だができうる限りの速さで二人は階段を駆け降りていく。




