揺らぐ薔薇(その2)
【Marion's SIDE】
マリオンは、腕の中に大事に抱いていた女性の華奢な身体をそっと草の上に横たえた。大きな木が淡い緑の陰を二人の上に差し掛け、心地のいい風が吹き過ぎていく。
ここは作男頭フェルの家に程近い街道沿いの林の中で、一瞬の間に彼が思いついた一番安全そうな場所だった。
だが、まだ城は近い。黒い翳りを帯びた巨大なサモンデュールの城がすぐ目の前にそびえている。
とはいえ、彼の力を持ってしても、あの複雑な結界の中を抜け出るのは困難なことで、腕の中のフェリシアを思えば、あまり無謀なこともできなかった。
しかも魔法での跳躍には、自分が一度はその場に立ったことのある知っている場所、という制約がつく。近場で彼が知っている城外の安全そうな場所といえば、この辺りしかない。充分に注意して飛んだつもりだったが、それでも移動魔法の負荷がかかったフェリシアは、気を失ってぐったりしている。
彼女のドレスの胸が静かに上下しているのを見て、彼は安堵の息をついた。
頭部を覆っていた忌まわしい黒い布地はすでにはずされ、少しやつれたフェリシアの顔が見えている。固く閉じられたまぶたには淡く影がかかり、肌はいつもよりももっと蒼白い。
彼は自分のマントを脱ぐと、彼女の頭の下に丸めて敷き、すっかりほどけてばらけてしまった長い黒髪を優しく頬から指で払った。
それから彼は少し顔をゆがめて、フェリシアの痛めつけられた手首を持ち上げた。彼の掌の中にすっぽりとおさまるほっそりとした手は、無残なありさまになっていた。赤く爛れ崩れ始めた手首の火傷によって、いまや指先のほうまで腫れあがっている。
「ひどい傷だ。痛かっただろう。今、治してあげるからね」
彼は優しくフェリシアの耳元でささやくと、懐から水晶でできた小さな瓶を取り出した。
その瓶を目の高さに持ち上げると、彼は丁寧に癒しの呪文を唱えた。それとともに小瓶が柔らかな光に包まれていく。
それは最初は蒼白く、やがては淡い薔薇色に変化していった。
すっかり瓶が薔薇の色に染まったところで彼はようやく呪文をやめ、慎重に瓶の口を開けた。
瓶を傾け、最初はフェリシアの口元に一滴、それから彼女の焼け爛れた手首に残りをゆっくりと満遍なく振りかける。
薔薇色の水滴は、みるみるうちに彼女の肌に浸透し、吸いこまれていく。彼はそれを見て大きく息をついた。
「鉄の魔歌の傷ならば、黒くはなっていないってことか。性質のいい素直な魔法で助かるよ」
それから彼は、彼女の手首を優しく持ち上げ、傷口に軽く唇を押し当てた。
そこから今度は小さな金色の光の輪が、空中に水紋のようにいくつも広がり消えていった。
彼が再び手首に目をやったときには、すでにあれだけ爛れていた傷口はふさがっていて、火傷の跡が濃い赤色の太い線へと変わっていた。
「すまない。今の僕には、これが限界だ」
それから彼は、自分の首に下げられていた大きな橄欖石のはまった護符をはずした。
彼女の胸にはすでに淡い薔薇色の石がはまった護符が下がっているが、彼はそちらではなく、彼女の傷ついた手首のほうに紐が傷口に直接当らないように慎重に巻き付けた。
「僕に何かあっても、これがきっと君を護ってくれる」
それから彼は少し顔色を取り戻し始めたフェリシアの唇に優しく静かなくちづけを落すと、未練を断ち切るようにすばやくたち上がり、黒い城へ顔を向けた。
「行かなくては、決着をつけに」
一陣の風が、借りていたジェイクの姿から元のマリオンへと戻った魔術師の上を吹きすぎていく。
長い金の髪が風に舞い、隠れていた金色の左目が現れると、あたりには空気までも震わせるような強い魔力が満ち溢れた。
マリオンは、もう一度ちらりと眠りつづけるフェリシアに視線をやってから、腕を高く上げ指を音高く鳴らし姿を消した。
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【Jake's SIDE】
マリオンの姿から久しぶりに本来の自分に戻ったジェイクは、身軽く生垣を飛び越えた。似合っていない明るい色合いの衣類に違和感はあっても、短い髪や使い慣れた身体にはすぐになじんだ。
裏道ならとうに知り尽くしている。誰にも見られずに北の棟に近づくことはジェイクにとって簡単なことだった。
裏庭から細い獣道のような垣根の隙間を抜けていくと、再び揺れが起こった。普通に立った状態ではいられないほどのもので、城内からは女官や小者たちの悲鳴が聞こえている。
ばらばらとどこからか、小石が落ちてきて、ジェイクは思わず天を見上げた。高い塔のどこかが崩れ始めているようだ。
城は、まるで見えない腕で乱暴に揺さぶられたように、すでにあちこちの壁に亀裂が走り始めていた。心なしか空までも黒く濁りつつあるようだった。
「マリオンの野郎、いったい何をしたんだ。ラザラスもなにをぼやっとしてやがる、役立たずめ」
悪態をつきながら、なるべく人目を引かないように、北に向かって走ったが、その間中、細かな揺れが断続的に続いている。
おーんという唸りとも叫びともつかない声が、地の底から響いてきて、ジェイクは我知らず身震いした。
「まるで、赤子が今にも生まれそうな」
とひとりごち、それがあまりにも的を射ていて正しい言葉なのかもしれないと気づいて、その不吉な感じに思わず残りを飲みこんだ。
ようやく北の棟が見渡せるところまで近づいたとき、次の一歩を踏み出すのを躊躇ってジェイクの足が止まった。近づくに連れて、どんどん黒い気配は濃くなっているようだ。
この城へきた当初から漠然と感じていた不安で不吉な感じが、じわじわと足元から這い登ってくる。
それは、ここにあるすべてのものを、覆い尽くそうとする影のように闇のようにジェイクには思えた。
闇は城を喰い尽そうとしているのかもしれない。
ジェイクには、北の棟から立ちのぼる黒い瘴気が見えるような気がした。
どれだけの時間、そうしていたのだろう。
「ジェイク」
闇の力に対抗するすべを思いつかぬまま立ち尽くしていたが、背後から突然おのれの名を呼ばれ、ジェイクの肩がぎくりと強張った。
「あなたって人は」
聞き慣れた怒りを含んだ声に、ジェイクはゆっくりと振り向いた。
相手の顔色をうかがういとまもなく、音高くジェイクの頬が鳴る。
ロザリンの細い手首がしなり、小気味良いほど強く、そして正確に自分より格段に背の高いジェイクの頬を引っ叩いていた。
「ロザリン、こんなときにいったい何を」
ジェイクは呆然として頬を押さえ、目を見張った。自分がいったい何をしたのか、一瞬だけ忘れていた。
周り中が混乱している只中で、ロザリンはそれを気に留めた風もない。彼女にとって城がどうなろうとあたりがどう変わろうと、今は一切目に入っていない。彼女は自身の怒りに身をまかせきっている。
ロザリンの美しい青い瞳はいつになく煌き、身体中が怒りに震え、頬は紅潮していた。
「馬鹿! 恥知らず! 卑怯者! この悪魔術師め! お前のような男に一時でも気を許したなんて」
「ロザリン」
ジェイクは、やっとロザリンが自分のやったことに気づいたと思い当たった。
たぶん、ロザリンは部屋を出ていったふりをして中を窺い、ずっと跡をつけていたのだろう。
そして、当然のごとく気がついた。
城に二人で戻ってきた魔術師は、それぞれが入れ替わっており、自分が恋を囁いた相手、褥を共にした相手、献身的に看病をした相手はマリオンではなく、ジェイクだったのだ、と。
「なんてひどいことを。あなたがマリオン様と入れ替わっていたなんて。この嘘吐き! 悪辣漢! 恥知らず!」
「恥知らず、は、先ほどすでにおっしゃったと思いますが」
しゃあしゃあとして言い放ったジェイクの言葉に、ロザリンの腕がもう一度思いきりよく後ろに引かれた。
だが、今度は叩かれる前にジェイクがその手首をつかんで止めた。
「二度も女に叩かれるほど、俺も間抜けじゃないぜ」
「お前のような男、わたくしの目の穢れになります。早々にここから立ち去りなさい」
手首をつかまれたまま、ロザリンは怒りの形相を崩さない。
おやおや、とジェイクは眉をあげた。
「そもそも、俺とマリオンが入れ替わるという思いつきを持ち出したのは、俺じゃない。マリオンの方だ。言い出しっぺの方が悪辣だろうが?」
「やはりそうだったのね。あなたたちは、この城へ戻って来た時からすでに入れ替わっていたんだわ」
カマをかけられたと気がつき、ジェイクの顔が苦虫を噛み潰したように渋くなる。
ロザリンの唇が嘲笑の形に歪んだ。
「人のせいにしているけど、マリオン様がご自分のふりをして、わたくしと寝所を共にせよ、とでもおっしゃったのかしら。どうなの? ジェイク」
「う、それは」
ジェイクが答えに詰まったところで、ロザリンの右足が前へ繰り出され、踵の頑丈な編み上げの白いブーツが無防備な彼の向こう脛を思いきり蹴り上げた。
不意をつかれたジェイクは痛みのあまり声をあげ、つかんでいたロザリンの腕を離した。
痛そうに唸りながら悪態をつくジェイクが油断した隙に、ロザリンは彼の身体を今度は全体重をかけて植え込みの方へ突き飛ばす。
悲鳴とも呻きともつかない声をあげて、ジェイクは大きな緑のかたまりの中へ盛大に倒れこんだ。
運の悪いことにその植え込みは、外側は綺麗に刈り込まれているが、内側には天然のままの長い刺を備え持った茨のものだった。
彼の身体はその体重の分だけ、茨の奥に深く沈みこんでいく。
彼は慌ててじたばたと長い手足を動かしたが、その刺は思いのほか鋭く、少々もがいたくらいでは容易に獲物を離そうとはしない。
彼の身体と顔のあちこちに長い爪で引っかかれたような赤い跡がついた。
「畜生!」
あがいているジェイクの様子を見て、ロザリンは勝ち誇ったように笑った。
「無様だこと! お前のような男には、その中がお似合いよ。二度と出てこないほうが世の中のためだわ」
「この性悪女!」
ジェイクが歯噛みしたが、この状態では歩が悪い。ロザリンを睨みつけるのが精一杯だ。
「殺されないだけまし、とお思いなさい。わたくしにはその権利があるのよ」
ロザリンは、ジェイクに向かって人差し指を突き出した。
「しかたがないだろう! お前が俺を避けていたせいだ。あれしか残された道はなかったんだ」
半ばやけくそで叫んだジェイクの言葉に、ロザリンがわずかにとまどうような表情を浮かべた。
「いったい何を言い出すの。またいい加減な逃げ口上で、わたくしに嘘をつこうというのね」
「お前は、俺を避けていた。一緒にここを出ようと俺が言ったのに、お前は聞く耳を持たなかった。お前は俺を裏切ったんだ。だから、正体を明かさずに、お前を外へ連れていこうと思っていたんだ」
「嘘に決まってるわ、そんなこと」
ロザリンの語尾がか細くなっていき、怒りの勢いを失ったように聞こえる。
そして、ジェイクは、自分がでまかせのつもりで実は真実を語っていることに気がついた。
「お前は、俺よりも城を選んだ。サモンデュールの名を選んだんだ。そんなものに何の価値がある? 俺とここを出たほうが、お前は幸せになれるはずだ」
「何度言わせるの。わたくしは、ここの跡取なのよ」
ロザリンの顔が子供のような泣き顔に歪んだ。
そもそも、高位の魔術師には自分の魔法以外のものに名誉も価値も見出さない、という者が多い。
『ただの貴族より、流れ者でも魔術師でありたい』、という諺すらあるくらいだった。
魔法が使える自分の身分は王族よりも上だ、と自負している魔術師も珍しくはない。
当然のことながら、その格下の貴族に仕えている城付きの魔術師は、魔術師の中でも身分は低いとされている。いや、身分というよりも志が低い、という意味合いかもしれない。
高位の魔術師であれば、人に仕えるより自分が天下をとればいいのだ。魔法の使えない者に自分の財産である魔法をわざわざ使役する必要などどこにもない。魔術師は、自分が自分の主人なのだ。
と、だいたいそのような理由で、一般人の間ではともかく、魔術師の内ではあまりよく思われてはいない。
ジェイクとても、いつまでも城付きの魔術師をしているつもりはなかった。
いつかは自分の城を持ちたい。金が欲しかった。そして、ロザリンが欲しかった。
そのためには、自身の矜持を捨てることも厭わないつもりだった。
だが、金よりも彼女の方がずっと手に入れ難く手強かった。
自分が、まるで魅力も価値も見出せないものに彼女は固執している。どんなに言葉を尽くしても、頑固に彼女はジェイクとの新たな道よりもサモンデュールの跡取にこだわりつづけた。
だから、容易い方法があったときに、すぐにそれに飛びついた。
マリオンが警告したように、それが真実の愛に程遠いとしても、だ。真実の姿でなければ、愛されても愛しても虚しいだけだ、と、もちろん、マリオンの警告は正しい。
しかし、ジェイクにとって彼の警告が正しければ正しいほど、耳に逆らう忠言というものだった。
ジェイクはすでに、常識も理性もあるいは打算すらも全部振り捨てていた。
「畜生!」
ジェイクはもう一度悪態をついた。
それは、自分に絡んでいる茨の刺に対してではなく、ロザリンに絡んでいる薔薇の刺のような『身分」と『家柄』というものに対してだった。いま、ジェイクはサモンデュール家に対して腹を立てていた。
「血筋や家柄に縛られているような女じゃないくせに。侯爵がいったいなんだというんだ。何がサモンデュールの薔薇だ。いまさら気取るな」
噛み付くようなジェイクの言葉に、さすがにロザリンは顔色を変え、泣き顔から再び怒りの形相に戻った。
だが、最初の純粋な怒りとは異なる、どこかに痛みを含んだ哀しげな顔だった。
「ジェイクなんて大嫌い。二度と顔も見たくないわ」
そう言い放つと、ロザリンはスカートの裾を翻し、混乱の続く城の方へ駆けて行った。
あの時と同じだ。
ロザリンと別れてしまった、何ヶ月か前のあの時の喧嘩とほとんど同じようなことを繰り返している。
「進歩がない奴だ」
ジェイクは、自分自身に悪態をつくと、ようやく周りの茨を避ける呪文を思いだして唱え始めた。地の魔術師である彼にとって、植物は自分の領域の一部であった。
腹立たしげにそれを唱えると、茨はまるで大きな手でなぎ払われたように大きく二つに分かれ、ジェイクを解放してくれた。
綺麗だった砂色の服は、緑色の汁とジェイク自身の血ですっかり汚れている。
ジェイクは苛立たしげにそれを見下ろし、それから顔の傷を袖口でこすった。
気がつくと、地面の揺れは収まりつつあった。あれだけ聞こえていた地鳴りも、遠い小さなものになっている。
安堵したような顔の小者たちが、渡り廊下を右往左往しつつ平常に戻ろうとしているのが遠目にも見えている。
ただし、北の棟に立ち昇る黒い瘴気は、まだ完全に収まったようには見えない。
ジェイク自身からも、まだ不安な気持ちが消えていない。
とりあえず、北の棟へ行こうか、と一歩踏み出したとき、ジェイクの耳に鋭い悲鳴が聞こえた。
「ロザリン?!」
悲鳴が誰のものかすぐに思い当たったジェイクは、何も考える暇もなく声のした方へ走り出していた。




