悲嘆の薔薇(その2)
暗い階段をどこまでも降りていく。
蝋燭のゆらぐ灯りは頼りなく、足元までしっかり照らしてはくれなかった。
「いったいどこまで降りるのでしょう」
マーゴットは、か細い声で不安げにたずねるヘンリエッタにを小馬鹿にしたような目で振り返った。
「どこまでも、さ。この城の一番地下のさらに底までだよ」
と、マーゴットは解るような解らないような言葉を吐いた。
取り折り階段を吹き上がってくる風に混じって、かび臭いにおいが鼻をつく。
肺の奥までその匂いに染まりそうな気がして、口元に小さなレースのハンカチを当てたヘンリエッタは、小さく息をしていた。
その様子を面白がっているような顔つきで一瞥したマーゴットは、顔を前に戻すと喉の奥から低い笑いを漏らした。
「あきらめなよ。あんたは選ばれて、しかも自分で選んだんだから」
「選ばれて、選んだ? あなたはいったい何を」
ヘンリエッタが問いを最後までいわないうちに、不意にマーゴットが階段を下りる足を止めた。
すぐ後を歩いていたヘンリエッタも一緒に止まらざるを得ない。一段上から見下ろす形になるヘンリエッタからマーゴットは上半身しか見えなかった。腰から下は闇の中に融けている。
きちんと結い上げられていたはずのマーゴットの赤い髪はいつか乱れ、いくつもの房となってだらしなく肩のあたりに垂れ下がっている。
「知らなくていいよ。意味なんかないさ。皆、占いなんかで未来を見たがるものだけど、世の中には直前まで知らないほうがいいことだってあるものよ」
前を向いたまま、マーゴットが珍しく抑えた静かな口調でこう言い放った。
怖かった。顔の見えない女のさりげない一言が怖かった。
『お願い、今は振り向かないで』
ヘンリエッタは無意識に階段の手すりをまさぐり、腐りかかった木の湿った感触に声をあげそうになった。
だが、マーゴットの背中から目を離すことができない。
マーゴットの顔を見るのが怖かった。その顔はさきほどまでのものとは、きっと異なっているに違いない。
まるでヘンリエッタの願う心の声が聞こえたように、振り向かずマーゴットは再びゆっくりと階段を降りはじめた。
戻りたかった。地上へ戻って日の光にあたりたかった。
無性に娘の無邪気な顔が見たかった。きっと心が慰められることだろう。
なぜ、私はこんなところに来てしまったのだろう。
ヘンリエッタは、おびえた目で後ろを振り向いた。
すでに後ろは見えない闇に閉ざされている。どんなに瞳をこらしても、自分がたった今降りてきた上の段を見ることができない。
見えない分の階段はそこに存在しないようにヘンリエッタには思えた。
ぐいっとその手が乱暴につかまれ、ヘンリエッタは短い悲鳴をあげた。
「早く来るんだよ、奥さん。戻るにはまだ早すぎるし、もう遅すぎる。一人じゃ戻れないんだ、あたしもあんたも」
下からマーゴットがきつい目で見上げていた。
その顔のどこにも変わったところが見受けられないことにむしろほっとしながら、ヘンリエッタはまるで術でもかけられたかのように素直に再び彼女の後をついて階段を下りていった。
地下への重い扉を押し開けると、そこには延々と黄色い蝋燭の灯った長い廊下が続いていた。
「この城の地下にこんなところがあったなんて聞いてないわ」
驚きのあまり、大きく目を見開いたままヘンリエッタがあたりを見回しながら歩いていると、押し殺したような低い声でマーゴットが笑った。
「あんたの旦那は知らないかもしれないね。あるいは知っていても、本当にあるとは思ってないかもしれないし。ここは城よりも古いんだよ。ここの城主の誰よりも昔から、『あれ』はここにあったんだ」
「あれ? あれとは何?」
「あれとは、あれさ」
マーゴットは廊下の奥にあるもう一つの扉を開いて、ヘンリエッタを手招きした。
黒々とした戸口の奥には、横に長い天井の高い部屋が広がっていた。正面と右側にさらに扉が見えたが、マーゴットはそのまま部屋の左側へとヘンリエッタを誘った。一番奥まったところには見上げるほどの大きな祭壇があり、その両脇にはちろちろと炎が燃えている。
肌がそそけ立つのがわかった。何かが部屋中に溢れ、息が苦しくなるほどヘンリエッタの身体をぴったりと押し包んでいるような気がする。
口の中がわけもなく苦くなる。
足が細かく震えだしたが、自分では止めることができない。
本能がすさまじい恐怖を感じている。
ヘンリエッタは、悲鳴をあげたくなった。
「わめくのは、後におし。我が主が今からおいでになるよ」
その気配を感じたのか、落ち着いた声でマーゴットが言ったが、すぐには意味がつかめなかった。
「わ、我が主、と言ったの? ここへ、来るの?」
ようやく意味がつかめたとき、もっと大きな恐怖がヘンリエッタを襲った。
まるで声に答えたかのように、部屋中が震えだした。
地の底から起こった振動を伴った大きな唸りが、ヘンリエッタの全身を飲み込もうとしている。
もう、堪えられなかった。
ヘンリエッタは、悲鳴と共に身を翻し、出口へ向かって駆け出していた。
だが、足がもつれ、ドレスの裾が絡まる。恐怖に固くなった筋肉がまるで用をなさない。
それでも、ようやく戸口に着いた時、まるで計ったようにその扉が開いてどんとヘンリエッタは部屋の中に押し戻された。
「これはこれは奥方様。とんだ失礼を」
暗い声で慇懃に場違いな挨拶を返したのは、城付きの魔術師であるラザラスだった。
「あぁ、ラザラス! お願い、助けて」
床に膝をつき、なりふりかまわぬ様で懇願するヘンリエッタにラザラスが苦笑を返し、憐れむような口調で答えた。
「そもそも、奥方様は何故ここに来られたのか。何も知らねばよかったものを」
「あの人が、あの人」
ヘンリエッタは、夢中で後ろにいるはずのマーゴットを振り返った。
しかし、見てはならなかった。ヘンリエッタの背筋が冷たく凍りつく。
そこにいるのは、さっきまでのマーゴットではなかった。
血なまぐさい風がヘンリエッタの鼻をつく。
女は先ほどの場所から一歩も動いてはいなかった。
耳まで裂けそうなほど横に広がった唇が浮かべているのは邪悪な黒い微笑で、時折赤く細い舌が唇を舐めあげている。
女の首は、まともな人間ではありえない方向に蛇のように長く伸び、捩れ歪んでいた。
その目は瞳孔部分が細く針で突いたように小さくなっており、金色に光っている。
口からは不気味な笑い声が絶えず漏れている。
「あれは人ではない。あれはこの地の底にいるものに仕えている妖魔の仮の姿だ」
ヘンリエッタはもう悲鳴すらあげられない。
まともに息が吸えず、心臓は今にも止まりそうだった。
話には聞いていたのだが、今まで実際に妖魔に遭ったことなどなかったのだ。
まだ、人間の形を保つラザラスのほうがまともに見える。
このようなものが何故城にいたのか。何故彼女をここへ連れ込んだのか。
今はそれすらも考えることができない。
ただひたすら恐ろしかった。
「この地にはもともと妖魔が多い。なぜだかわかるかね?」
ラザラスの冷たく少し湿った手が震えてくずおれたヘンリエッタの髪を容赦なく掴み、祭壇のほうへ捻じ曲げた。
「あれがここの主だ」
目を閉じたい。だが、恐怖のあまりすべての筋肉がうまく動かない。
ヘンリエッタは震えながらその穢れたものを見続けるしかなかった。
揺れる床とどよめく空気とともに中空に浮かぶ黒い影。
最初は十フィートほどだったものが、みるみるうちに部屋の中いっぱいに広がり、まるで闇を喰らっているようにどんどん濃く黒くなっていく。
その闇の中にぬらぬらと光るうろこと黒い深遠を認め、ヘンリエッタの意識が遠くなった。
**..**.**.*.**.*.*.*.**.*.**.**
「ここは、地の底に穴があいていて、冥府へと通じている。そこには闇の主が住まっている。
その昔、穴を閉じ、封じ込めようとした者がいたのだが、力が及ばなかった。仕方なくその者はその地へ城を建て、それをもって封印とした。
だが、その封じの魔力は年々弱まっていく。
私にもどうしようもない。近頃はその弱まった封印の隙間から、主は妖魔を呼び込んでおる、絶え間なく、な」
ラザラスの呪文のように低い単調な声が遠くに聞こえる。
気がつけばヘンリエッタは、壁にもたれた状態でかろうじて立っていた。
「先ほどの小娘もそうだ。あれはかの者の側にいつもついている妖魔でな。かなり悪質な悪ふざけや悪戯が好きな類だ。あのように小さき妖魔であってもそれなりの魔力は持っているものだ。地の底に住まうものは、自分の仕役として、あるいはそれらを喰らって、力をつけようとしている。外へ出たがっておるのだ。当然のことだ。すでに何百年もこの地に縛られておるのだから。封印の魔力が弱まれば、きっとそれを破り、外へ出てくることだろう。私はそのような事態を恐れている」
意外なことにラザラスも地下のものを恐れているのだ。
「だが、その一方で、かの者は地上のか弱き我らにその魔力を分け与えてくれる。おこぼれといえど、そこいらの魔術師などよりはよほど強い魔法なのだ」
ラザラスの声が瞬く蝋燭の炎のように近づいたり遠のいたりする。
「奥方、あなたはそれをもらおうと考えたのだな」
ヘンリエッタはそれは違う、そんなことだとは考えてもいなかったのだ、と答えようとしたが、金縛りにあったように体が思うように動かなかった。
「だが、かの者は気まぐれだ。気をつけるがいい。奥方の望むほうへ物事が進むとは限らぬよ」
低くラザラスが笑った。
「だが、このような忠告、もう遅いかも知れぬが」
その声とともに、闇の中に再びヘンリエッタの意識が暗く沈みこむ。
すでに穢れた闇の中に首元まで飲まれてしまっているような冷たい感触を全身に感じながら、ヘンリエッタの意識が流れていく。
すでに自分が立っているのか座っているのか横になっているのかすらわからない。ただ冷たい感触だけがある。
**..**.**.*.**.*.*.*.**.*.**.**
『どうかね? こういうのは』
不意に闇の中から夫であるネイサン・サモンデュールの声が聞こえた。
それが自分に話し掛けられているのだと思ったヘンリエッタが、ぎょっとする。夫は自分の窮状を知っているのか?
『ええ、たまにはいいかもしれませんわね』
だが、すぐに違うと気づいた。
夫は誰か別の人間に話し掛けているのだ。答える声は落ち着いて穏やかな女性の声。
誰なの? あなた、誰に話しているの?
ヘンリエッタは、首を回してその声の主を確かめようとした。僅かに首を向けた方向、闇の奥に仄明るい場所が見えている。
中に浮かんでいる光景の中に、ヘンリエッタは自分の夫と見知らぬ女性の姿を認めた。
夫はその手に美しい刺繍の入った織物を持っている。見慣れぬその模様は、異国風で近在では手に入りそうもない高価そうな物だった。
どうやらどこからか手に入れたその布について、夫はその女性に趣味に合うかどうか尋ねているのだ。
横顔だけ見えるその相手は、穏やかな声に似合った優しげな顔立ちの薹のたった中年の女性で、髪には少し白いものも混じっていた。
また姿も胴回りもふっくらとして緩んだ柔らかさを持ち始めている。だが、優しく落ち着いたそのたたずまいには、自信と慈愛が溢れていた。
それはヘンリエッタの美貌とはまったく別の美しさを持っている。
そして夫の表情にも相手への愛が溢れている、ということにヘンリエッタは気づいていた。
誰? どうして? 私というものがありながら。
ヘンリエッタの胸が痛んだ。何故、若く美しい私よりもその女性を選んだの、あなた。
やがて、夫がその女性に口づけをした。
『君はいつも綺麗だよ』
夫の声が聞こえる。
ヘンリエッタは憎悪した。声を荒らげて叫びたかった。
美しくなどない。
こんな女。
この女のどこが私より美しいというの。
ネイサン、答えて!
だが、夫はヘンリエッタの視界の中でその女性に優しく微笑んでいる。
醜くなればいい。
もっと醜くなればいいのよ。
お前のような女。醜くおなり!
鋭い音がして何かが割れる音がした。
「ばかなことを。言ってるそばから一体何を願っているのだ」
少し慌てたようなラザラスの声がして、ヘンリエッタは誰かに強く肩をつかまれるのを感じた。
意識が闇の底から浮き上がる。目の焦点が合うと、辺りがはっきりと見えるようになった。
ヘンリエッタの肩をつかんでいたのは、ラザラスだった。
「あんな女、許さない。許すものか」
思わず口をついて出たヘンリエッタのしゃがれた低い声に、ラザラスがぎょっと身を引いた。
「あんな女、一生醜いままで過ごせばいいのよ。ネイサンも少しは懲りるでしょう」
肩の手を払いのけると、ヘンリエッタはまるで見えない糸に操られるかのように、ふらふらと祭壇へ近づいた。
ヘンリエッタは、祭壇のすぐ側でじゃりりと靴が何か固いものを踏みつけたことに気がついた。
足元に目を落とすと、そこには祭壇に飾られていたらしい鏡が千々に砕け散っていた。
先ほど聞こえた音はこれが割れた音なのか。
今日は一日で二度も鏡を割ったわ、とぼんやりと考えたが、その中の一番大きな破片の中におのれの姿を認めるや、ヘンリエッタは息を呑んだ。
思わず膝をつき、その破片を拾い上げその中をまじまじと覗きこむ。
破片は鋭く、ヘンリエッタの柔らかな白い手を切り裂き、祭壇の前やスカートに赤い血を滴らせたが、それにすら彼女は気がつかなかった。
鏡の中には、おのれの呪いによって醜く変貌したヘンリエッタ自身の顔が映っていたのだ。
ヘンリエッタの絶叫が、地下の闇の中に長く長く響き渡った。




