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悲嘆の薔薇(その1)

【Henrietta's SIDE】


 若いころは、美しい、ということがどういうことか、ヘンリエッタにはよくわかっていなかった。

 子供のころから美しいという評価は得ていたものの、それはごく自然なことだと思っていたし、自分でも醜いと思ったことは一度もない。

 いや、美しくない、普通の存在だ、と思ったことすらないというほうが正しい。

 他の誰かが自分より美しいと思ったこともない。意識に改めてのぼせたことすらなかったのだ。

 そして、それは当然のことで永久不変の事実だと思っていた。

 彼女がネイサン・サモンデュールと結婚したのは、十八のときだった。

 十も年上の彼に王宮での舞踏会で見初められ、是非にと望まれたのだ。

 侯爵は、落ち着いていて堂々とした立派な青年だったし、領地も肥えた土地がほとんどで生活は豊か、王の覚えもめでたいということで彼女のほうでは断る理由はどこにもなかった。

 二人は祝福に包まれて結婚し、一年後にヘンリエッタは妊娠した。

 十月十日ほどは美貌を損なう不快な身体を我慢しなくてはならなかったが、それも時が解決してくれた。

 無事にロザリンが生まれたのだ。

 子供は父、ネイサンよりもヘンリエッタに良く似ていた。

 手放しで娘の誕生を喜ぶネイサンとは対照的に、ヘンリエッタはあまり娘に興味を持たなかった。

 ヘンリエッタには自分がやっと不快な状態から開放された、という喜びしかなかったのだ。


 出産した後も彼女の美貌は衰えることはなかった。

 むしろ、肌の輝きがまして妖艶な魅力が加わり、ますます美しくなったといえるだろう。

 侯爵は変わらず彼女を、そして彼女の美しさを愛していた。

 少なくとも十年前までは。

「お母様?」

 小さな手がヘンリエッタのドレスの裾を捉える。

「まぁ、ロザリン。うるさくしないでね。私はこれから夜のお出かけ用にドレスを選ばなくてはならないの」

 ロザリンが少し寂しそうな顔をするが、ヘンリエッタは娘に飛び切りの笑顔を向ける。

「いい子ね、可愛らしいロザリン。あなたにもわかるでしょう? お母様は綺麗でなければいけないのよ」

「はい、お母様。ロザリンも綺麗なお母様大好きですもの」

 聞き分けの良いロザリンは、いつも可愛らしい顔でうなずいた。

 ヘンリエッタはロザリンを抱きしめた。

 可愛らしいこと。

 このように可愛らしい子供なら私にも愛せるわ。


「さあ、ロザリン。乳母やとお庭の薔薇でも摘んでいらっしゃいな。今はとても綺麗だことよ」

 ヘンリエッタは、母親の顔になるとそう言って、城の南側に広がる美しい薔薇園を指さして見せた。

 今を盛りと色とりどりの薔薇が芳しい香りを放つその庭は、ヘンリエッタの希望で結婚したときに作られたもので、庭師たちによってよく手入れされている。

「はい、お母様。ロザリン、一番綺麗なお花は、お母様にお持ちします」

 可愛らしい声でロザリンが正しい答えをすると、ヘンリエッタはいつも満足げにうなずくのだ。

 それが親子の絆というもので、自分は幸せだ、とヘンリエッタは信じていた。

 ある日、いつものように手鏡を覗き込んでいたヘンリエッタは、白い滑らかなアラバスターのような自分の肌の上にかすかな黒い影を見つけた。

 それは、まだ、しみとも皺ともいえないようなかすかな翳りだったが、ヘンリエッタはそれが兆しだと知っていた。ついに自分の美貌に衰えがきたのだ。

 思わず立ち上がり、明るいほうへと身を移すと、手鏡をもっと近づけて見た。

 もうおしまいだ。全てが終わってしまう。

 ヘンリエッタは眩暈めまいを堪えるように椅子の背を強くつかんだ。

 いや、これは恐ろしい始まり、なのだ。これからもっと、もっとひどくなる。


 ヘンリエッタの脳裏には、自分の祖母の上品だが皺だらけの顔が浮かんでいた。

 枯れ木のようにやせた祖母は、いつも背筋のぴんと伸ばし夕食の席についていた。

 厳格な祖母が、その頃のヘンリエッタには誰よりも恐ろしい人に見えていた。

 常にヘンリエッタを監視しているような厳しく鋭い目、皺はよっているがきっちりと結ばれた口元。

 きりりと引き締まった顔つきは、見ようによっては、美しく老いているといえるだろうが、ヘンリエッタにはそうは思えなかった。

 ヘンリエッタは、彼女がずっとそのような顔で生きてきたのだと信じていた。

 しかし、ある日ヘンリエッタは、その祖母の可愛らしい少女時代の絵を実家の城で見つけてしまったのだ。

「この可愛らしい方はどなた?」

 父に尋ねると、父は少し苦笑して

「おばあ様だよ、ヘンリエッタ。とてもそうは見えないだろうがね」

 と答え、ヘンリエッタを驚愕させた。

 これはいったい誰なのか。祖母の若いころだという話が容易には信じられない。

 ヘンリエッタとは似ていないが、祖母の少女時代はふっくらとした頬に大きな目の愛らしい少女だったのだ。

 早くに亡くなってしまったが、自分の母も今生きていたら、あのような風貌になっていたのかもしれない。

 その考えは、ヘンリエッタに少なからず恐慌をもたらした。


「何故? おばあ様は・・・・・・」

 ヘンリエッタはそれ以上言葉を続けることができなかったが、父がその飲み込んだ質問に律儀に答えた。

「そりゃ、単に年をとったってことだろう。年は誰でも取るものだ」

 時が全てを奪ったのだ。

 可愛らしい少女の面影も、優しく美しい花のような母の顔も。

 この世の中に時の流れほど残酷なものはないと、ヘンリエッタは唇を噛んだ。

「どんな美しい花もやがては枯れるさ」

 そう言って無邪気に笑った父は、幼い娘の頭を長い間占めることになる恐怖には思い至らなかった。

『では、いつか、自分もああなってしまうのだ』

 その恐ろしい予感は、ずいぶんと長い間、ヘンリエッタから離れようとはしなかった。


 だからこそ、ヘンリエッタは、美しいおのれ自身を愛していた。

 慈しみ、大事に大事に護ってきたのだ。

 残酷で容赦のない時の流れから、少しでも逃れようと努力を怠らなかった。

 そのためならどんな犠牲をはらっても良いとさえ思っていた。

 それなのに、やはり捕まってしまったのだ。

 ああ、とヘンリエッタは嘆息した。

 おのれの肌と娘の肌を比べたとき、そこに明確な違いがある。

 ロザリンはまだ七歳で穢れを知らぬ天使のような子供で、ふっくらとした白い肌と煌く瞳、柔らかな金の髪を持っていた。

 それは父、ネイサンにとっては自慢であったが、ヘンリエッタにとっては自分に似ているだけにさらに脅威となったといえる。

 自分は衰える。だが、娘はこれからもっともっと美しくなるだろう。


 人は比べるだろう。似ているものは比べやすいのだ。

 その考えはヘンリエッタに深い絶望感をもたらした。

 そのうえ、自分は父母の本当の子供ですらない。

 それを初めてヘンリエッタが知ったのは、サモンデュールとの結婚が決まったときだった。

 嫁に行く娘に父が初めて明かした重大な秘密だった。

「お前はね、ヘンリエッタ。さる高貴なお方のお子なのだよ。その方は理由があって、どうしてもお前を育てることができなかった。だから私がお前を引き取ったのだ」

「お父様」

 ヘンリエッタは少なからぬ衝撃を受けた。

 堅牢だったはずの足元の土台が音を立ててもろく崩れていく気がした。


「だが、ヘンリエッタ。お前はいつまでも私たちの可愛い娘だ。こんな綺麗な娘に育ってくれて本当に嬉しいよ。お前の実のご両親もきっと喜んでくれていることだろう」

「わたくしはいったい誰の子供なのです? 実の両親とは、どこのどういう方なのですか」

 ヘンリエッタの問いに父はかぶりをふった。

「答えることはできないよ。これは墓まで持っていく私の生涯の秘密だ」

 その言葉どおり、何度問うても父はその答えを教えてはくれなかった。

 やがて父が亡くなり、ヘンリエッタは、とうとう自分がどこの何者なのかを知ることができなかった。

「わたくしには、血筋という後ろ盾すらないのだわ」

 もちろん、秘密は固く守られている。夫ですらそのことは知らないのだ。自分が口を閉ざしておけば、どこからも秘密が漏れることはあるまい。


 だが、自分が知っている。

 ヘンリエッタがどこの何者かわからぬものの血筋の子供だということを、己自身が知っている。

 それはヘンリエッタを弱くさせた。

 高貴な生まれと父は言ったが、それを頭から信じることができない。

 あるいは、父自身、知らなかったのかもしれない。

 あるいは・・・・・・。

 次々と嫌な妄想が浮かんでは消えた。

 実家もなくなってしまった今、ヘンリエッタを守るものは誰もいない。

 夫は居るが、所詮は他人だ。彼を自分の元へつなぎとめておかなければならないのだ。

 彼をずっとつなぎとめておけるのは、自分の美しい容姿のみ。

「わたくしにある武器といえば、この顔しかないのだわ」

 ヘンリエッタの歯車は少しずつ狂っていった。


 そして、今。

 ヘンリエッタは自分の美貌に翳りを見つけてしまった。

 いつかはこんな日が来るとは覚悟していたつもりだが、こんなに早くとは思ってもいなかった。

 これから年々、自分の美貌は衰えていくのだ。

 そして最後は、祖母のように枯れ木のような老婆になるのだ。

 まだ、二十代の花の盛りで、つややかに潤ったヘンリエッタの美しい肌は、他の者からすれば、うらやましい以外の何ものでもないはずなのだが、もはや彼女は自分の顔を見ることすら苦痛になっていた。

 怖かったのだ。

 自分があのように変化を遂げることも、それによって全てを失うことも。

 そして、それを鏡の上で改めて確認しなければならないことにヘンリエッタはおびえた。

 自分には何もない。いや、なくなってしまった、のだ。


「嫌っ!」

 ヘンリエッタは、夢中で持っていた手鏡を放りだした。

 がしゃんと音を立てて床の上で金色の細工を施した美しい鏡が割れた。

 美しい鏡が床で千々に砕ける様子を見たその瞬間、ヘンリエッタは鏡と同じように城の窓から身を投げようかという誘惑に駆られた。

 枯れ木のように徐々に衰えていくよりも、鏡のように砕け散ったほうがましかもしれない。

「奥方様」

 まるで計ったように戸口に現れた侍女が声をかけてきて、ヘンリエッタは我に返った。

 怖気けた様子でもなく侍女は、ずいと中へ入ってきた。

 彼女は最近雇われたばかりの侍女だった。

『確か、マーゴットという娘ではなかったかしら』

 特に美しいとはいえないが、くっきりとした顔立ちをしていてどこかに妖艶さを秘めたような少し崩れた魅力がある。町を歩けば、ほとんどの男が振り返りそうなそんな妖しい美しさを感じた。

 だが、ヘンリエッタは娘の顔のどこかに不快なものを感じた。

「誰も呼んでいないわ。おさがりなさいな」

「いいえ。用があるはずですわ」

 マーゴットはその少し厚い濡れたように光っている唇に、にやにやと形容できそうな下卑た笑いを浮かべた。

「失礼なことを。わたくしがないと言ったらないのです。おさがり」

 いらついたように声を荒げたヘンリエッタの側にすべるように音もなく近づくと、マーゴットはその顔を間近でまじまじと覗き込んできた。


「気になるでしょう? 目じりのしわ。それと鼻のあたりにはしみかしらね」

「ぶ、無礼な。お前はいったい何のつもりなの」

 あまりにも傍若無人なふるまいに、ヘンリエッタが怒ると、マーゴットは恐れ気もなく少し勝ち誇ったように笑った。

「気にならない? あなたの美しさが失われてしまうのに」

 痛いところをつかれた。

 そんなにめだつだろうか? ヘンリエッタは思わず身体を固くして、マーゴットから顔をそむけた。

「ねぇ、奥様? ずぅっと永遠に美しいままでいられる方法があるのに、わざわざ醜くなる必要なんてないよ。そう思わない?」

「そんな方法があるわけないでしょう。むやみに嘘をつくのはおやめなさい」

「そう、か。聞きたくないんだね。ざーんねんだこと」

 妙な節をつけてマーゴットは歌うようにそう言うと、大きく口を開けて笑った。

「そんなことができるわけないでしょう。魔女でもないのに」

 自分の言った言葉にヘンリエッタははっとした。

 魔女なら、あるいは、魔法ならこの美しさをそのまま持続することができるのだろうか。

「魔法でできるというの?」

 思わず、ヘンリエッタが聞き返すと、マーゴットは勝ち誇ったように唇の両端をくいっと上にあげた。

「ほらね? 聞きたいよね? 普通はそうだよ。女ならみんな若くて綺麗なままでいたいもんさ。あんたみたいに綺麗ならもっとそう思うだろう、違う?」

 蓮っ葉な口調に変わったマーゴットの言葉に少したじろぎながらも、ヘンリエッタは深くうなずいてしまっていた。


 甘い誘惑の言葉。

 その甘言に乗ってしまったのは、ヘンリエッタの弱さゆえだった。

 だが、すでにヘンリエッタはマーゴットの術中にはまってしまっている。

 もはや彼女を部屋から追い出すことすら頭になかった。

「ね、ほら見て」

 マーゴットは自分の豊かな胸元に無造作に手を突っ込み、下着の奥から黒い石を取り出し、ヘンリエッタの目の前にぶら下げて見せた。

 丁寧に黒い細ひもでくくられた半インチほどの大きさの真珠のような黒い塊はしかし、純粋で綺麗な輝きはもたなかった。

 黒玉ジェットとも黒曜石とも異なるそれは、宝石などとは異なる別の何かを持っているとヘンリエッタには思えた。

 それがいったいなんなのかはわからない。

 ただ、その黒い塊を身につけることはおろか、手にとることにすらヘンリエッタは嫌悪を覚えた。

「綺麗だろ」

 それを目の前にかざし、うっとりしているようなマーゴットの言葉に、逆にヘンリエッタは自分の直感に確信をもった。止めるまもなく言葉が口をついて出た。

けがれているわ」

 その言葉を口にしたとたん、ひたりと首筋に冷たい手をあてられたような嫌な感触に襲われて、ヘンリエッタは身体を震わせた。

 その様子に、にやっと赤く濡れたマーゴットの唇が弧を描く。

「意外と鋭いのね、あんた」

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