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薔薇の虜囚(その1)

【Felicia's SIDE】


 真っ黒な闇の底から意識が朦朧もうろうと立ち上がる。

 すぐに胸の奥が少し痛み、吐き気がこみ上げてきた。

 あたりの空気は乾いているが、どことなく不快な匂いがたち込めている気がする。

「ここはどこ?  」

 身体のあちこちが軋み、理不尽な痛みをうったえている。

 起き上がろうとしたとき、がしゃりと重い鎖の鳴る音にフェリシアはたじろいだ。

 右の手首に重く太い鎖が黒い蛇のように巻きついて、フェリシアの華奢な身体を床に繋ぎとめている。

 その鎖は狭い牢内をかろうじて端から端まで歩ける程度の長さしかなく、その先は床の大きな鉄の輪に留められていた。

「どういうこと? 何があったのだったかしら」

 重苦しい頭を押さえ、フェリシアはぼんやりと焦点のいまだ定まらぬ目であたりを見回した。あたりは冷たい石壁で囲まれていて、目の前には外界と自分を隔てる頑丈な鉄格子が見えている。

「彼のお城へ誰かが迎えにきたのよ。そう、そのあとだわ」

 ぼんやりとした顔でフェリシアはつぶやいた。


 エドモントと名乗る若い騎士が、サモンデュール侯爵の使いだといってやって来たのはいつだっただろう。記憶の中では一昨日、という気がしているが、どれだけの間、気を失っていたか定かではない。

 身体の痛みは、固い床に長い時間寝かされていたせいかもしれない。

 二人でマリオンの結界を抜け森の中を走り、ひたすらサモンデュールへ向けて馬を飛ばした。

 エドモントは細やかにフェリシアに気を使ってくれたが、彼女の気持ちははやるばかりでそれどころではなかった。休んでいる暇はない。馬のために最低限の休みをとっただけで、フェリシア自身は一睡もしないまま走り続けた。

 早く、侯爵の城へ着かなくてはならない。

 一刻も早く彼を楽にしてあげたい。ただそれだけが、彼女の願いだった。

 それが起こったのは、彼らの馬がサモンデュール侯爵の領地へ足を踏み入れてすぐのことだった。

 フェリシアの馬が何の前触れもなく、突然棒立ちになりすぐに激しいいななきとともに街道を暴走し始めたのだ。

 みるみるうちに、エドモントの何か叫ぶ声も遠くなっていく。


 フェリシアはただ馬から振り落とされないようにと馬の首にしがみついた。

 鋭く風を切る音が耳元で聞こえる。

 フェリシアは必死で馬をなだめるために声をかけた。マリオンの城から連れてきた馬だ。マリオン自身にきちんと躾をされた賢い馬は、彼だけでなくフェリシアにもよく馴れているはずだった。

 しかし、暴走は止まりそうもない。

 馬はまるで何かに引かれているようにまっすぐに目的を持って走り去ろうとしている。

 もはや、エドモントの声も聞こえない。

 やがて、馬がすっかり街道を外れ森の奥にその姿を隠した頃、フェリシアの意識も途切れてしまった。

 目覚めてみれば牢屋の中で、しかも身動きがままならぬように手鎖までかけられている。

 私のような女に鉄格子とこんな重い鎖なんて、とフェリシアは少し呆れて笑った。


 彼女自身、魔法はそれなりに使えるが、もちろんマリオンほどではない。しかも、数年前に白魔法で本格的に治療師を始めたとたん、攻撃魔法などを使う力は弱まっていた。白と黒は相反するものなのだ。

 それでも真剣に時間をかければ、これくらいの鎖を切れぬこともあるまいが、フェリシアの見たところあたりには他者の魔法が色濃く残っており、たぶん結界が張られているものと思われた。

 自分より魔力の強い他者の結界の中で魔法を使っても無駄である。

 フェリシアは重い音をさせながら鎖を限界までひっぱり、背を壁につけて座りなおした。

「必ず誰か様子を見に来るはずね。見てあげるわ、誰なのか」

 時間はたゆたうようにゆっくりと過ぎていく。

 大きなろうそくの灯りが何本か揺らめき、周りはそこそこ明るかったが、逆に今の時間が夜なのか朝なのかわからない。

 気が狂いそうになりながら、フェリシアはただ待った。

 ひたすらじっと待つしかなかった。


 **..**..**..**..**..**..**..**..**..**..**..**


 どれだけの時間がたったのだろう。

 ずいぶんと経ったような気もすれば、ろうそくの減り具合からしてさほどでもないような気もする。

 どちらにしても、フェリシアからすれば千年も待ちかねたような気持ちだった。

 突然、廊下の奥がほの明るくなり、大きくきしりながら重い扉が開く音がして、フェリシアは顔をはっとあげた。

 誰かがやってきたのだ。

 ひたひたと石床の上を歩む音と衣擦れの音がかすかに聞こえている。

 フェリシアはとっさに座ったまま顔を伏せ、ぐったりと身体の力を抜いた。

 やがて、足音はフェリシアの囚われた牢の前で止まった。


「娘よ、顔をあげよ」

 男とも女ともつかない低く暗い地の底を這うような声がフェリシアに命じた。

 その声は、フェリシアがわざと顔を伏せていることを十分に知っているようだった。

 フェリシアは殊更ゆっくりと顔を上げ、来訪者を睨みつけた。

 意外なことに来訪者は一人ではなかった。

 似たような黒い影がふたつ。

 どちらも黒のマントにフードを深く被っており、顔はすっかり陰になっている。そのおかげで表情はおろか顔自体もまるで見えず男女の区別すらつかない。

「あなたたちは誰なの? 何のために私をこんなところに閉じ込めているの?」

 来訪者は、そのフェリシアの問いを無視した。

 少し背の低いほうが、高いほうの影に向かって顎をあげた。

「いかがです?  この娘」

 背の高いほうのフードがかすかに肯定の印にうなずいた。

「今までの娘たちよりもさらに美形。しかも、長生きな魔女ときている。これほどあなた様に相応しい娘もありますまいよ」

 くっくと引き込むような陰気で不快な笑い声をあげる黒い影に、フェリシアは身震いした。

「あなたは、ラザラスとやらなの? とすれば、そちらは侯爵様? それにしてはおかしいわね」

 背の高いほうの影がフェリシアのほうを向き、フードをほんの少しだけ上げて見せた。


 フードの陰から白い整った顔がのぞいていたが、その瞳のあまりの冷たさに思わずフェリシアは小さな悲鳴をあげた。

 その白い顔はフェリシアも見覚えのあるものだったが、どこかが微妙に異なっていた。

「私の顔がそんなに怖いのか」

 仮面の口元から最初に聞こえたものと同じ、くぐもった男のものとも女のものともつかない声がフェリシアをなじるような口調で発せられた。

「あなたはロザリン姫なの?」

 震える声でフェリシアが訊ねると、答えるように白い顔がかすかに笑い声をあげフードを後ろへはねあげた。

 中からはロザリンのものと同じ、まばゆい蜂蜜色の金の髪が背の中ほどまでこぼれて落ちる。

 だが、灯りに照らされたその顔は、ロザリンのものではなかった。

 その来訪者はロザリンとよく似た白い仮面を被っていたのだ。


 フェリシアはひっと息を呑んだ。

「この程度でおびえるか、娘よ。では、これならどうか?」

 来訪者は仮面の下側に指をかけると、そのまま引き剥がすように上へ引き上げた。

 フェリシアは、悲鳴をあげないように左手で口を強く押さえた。

 仮面の下にあった顔は、醜く引きつれ爛れており、茶色くくすんだ肌のあちこちに赤い蚯蚓みみず腫れのような線が走っていた。

 かろうじて女性であるとわかるが、こうなる前の顔はどうだったかという予測は不可能なほどにすっかり変形している。

 腫れあがり垂れ下がったまぶたの下の血走った青い目が憎しみのこもった視線で、必死に悲鳴を堪えているフェリシアを睨みつけていた。

 首が白く美しい張りのある肌であることと、髪が豊かで美しい金色であることが余計に顔の異様さを浮き立たせている。また、ぴんと伸びた背筋も僅かに見える手の美しさも、あまりにも顔とは不釣合いであった。

 その顔は事故や病気などではなく、無理に急な変化をさせられたもののようにフェリシアには思えた。


「ど、どうして? あなたは」

 白い指が仮面をゆっくりと元に戻した。

「こんな醜い女なのかと?」

 ひび割れた声が自嘲の笑いをもらした。

 その笑い声にフェリシアは背筋に水をかけられたようにぞっとした。

 そこには、自嘲のほかに底なしの悪意と憎悪が込められている気がしたのだ。そして、それはフェリシア自身にも向けられている。

 そのためにきっと自分はここに囚われてしまっているのだ、とフェリシアは感じた。

「私は美しかった。ええ、誰もが認めるほどの美貌に恵まれていたわ」

 仮面の女は、くいっと顎をあげた。


のろいがあったのだ。私の美しさを羨み、嫉妬した女が私に呪いをかけたのだ」

 女は怒りに震えるように拳を握って振り上げた。

「呪いなら魔術師に頼めば破れるはずよ」

 フェリシアの言葉に白い仮面はかぶりを振った。

「この呪いは解けない。どんな魔術師でもこの呪いは解けない」

「解けない呪いなんてないわ。ないって私、マリオンに、尊敬している魔術師に聞いたわ」

 くすくすと小さく仮面の女が笑い声をあげた。


「マリオンってロザリンに夢中のあの魔術師のこと?  全然、たいした魔術師じゃないな。期待していたのに」

「ロザリンに夢中?  たいした魔術師じゃない?  何を言っているの?  違うわ。あなた間違ってる」

 必死で否定するフェリシアに仮面の女はどこか憐れむような口調になった。

「間違ってなどいない。あなたが否定したい気持ちもわからないではない。でも、あなたの婚約者殿は今もベッドでロザリンと蜜月中だよ」

「嘘よ。そんなの嘘だわ」

 フェリシアの絶叫が石牢内に共鳴する。前へ飛び出そうとした細い身体を手首の太い鎖が無情にも引き戻した。

「嘘よ。彼はそんなことしないわ、絶対によ」

 床にうつぶせに倒れ込みながらフェリシアはうめいた。


 否定してもし切れない部分があるのは事実だった。

 現に自分はそうなるのではないかと疑っていたのではないのか。フェリシアの目からひと筋の涙が伝って落ちた。

「困った娘だ、ロザリンも。あの子ももう少しまともかと思っていたのに、本当に次から次へと」

 うなだれていたフェリシアは涙に曇った目を上げた。

「あの子?  ロザリンは、あなたのなんなの?  まさか」

 くくく、と低くくぐもった含み笑いが仮面の口元から漏れた。

「ええ、ロザリンは私の娘。私の大事な一人娘よ」

「まさか、ヘンリエッタ?  あなたはサモンデュール侯爵夫人なの?」

 フェリシアの目が驚愕に大きく見開かれた。

 ロザリンの前にサモンデュールの薔薇とまで呼ばれた美しい人。

 彼女が人前に姿を現さなくなった理由とは、これだったのか。

 女は仮面を元に戻し、再びフードを深くかぶった。

「ええ、そう。私がヘンリエッタよ。もう誰もそうとは思わないでしょうけれどね」

「さぁ、もうよろしいでしょう。この娘に全てを話す必要などありますまい」

 もうひとつの影がヘンリエッタを促した。

「そう、いずれわかることだね。ラザラス、あとは頼んだわ。大事にしてちょうだい、この綺麗なお嬢さんを」

「待って。お願い、教えて」


 立ち去ろうとしたふたつの影はフェリシアの叫びに足を留め、ヘンリエッタの方の影がわずかに肩をひねって振り向いた。

「フェリシア、だったかしら。何を聞きたい?  あなたがこれから何をされるか、ということかしら?」

 フェリシアがかぶりを振り口を開く前に、ヘンリエッタはかすかに首をかしげ言葉を継いだ。

「それともあなたの浮気な婚約者のこと?」

 フェリシアは唇を噛んだ。だが、意地悪なこの人の言うことをすべて鵜呑みにはできない、と気を取り直した。

「彼は、マリオンは無事なの? あの話は、死にそうだっていう話は嘘だったの?」

 おや、とヘンリエッタは意外そうな声をあげた。

「その話?  言わなかったかしら。本当よ。でも、無事だそうだわ。ジェイクがどうにかしたらしいからね」

 ああ、とフェリシアは安堵の息を漏らした。


 ふっと仮面の中でヘンリエッタが笑いともため息ともつかない声を漏らした。

「可哀想ね、あなた。ロザリンに彼を盗られてしまうなんて。でも、これからあなたの身に起こることを考えれば、どっちみち婚約者はあなたから離れていくでしょうよ。今でもあとでもどちらでも一緒。諦めることね、彼のことも自分自身のことも」

「どういうことなの? 私をどうしようとしているの?」

 ヘンリエッタは顔を前に戻し、暗い声でまるで呪いのように告げた。

「知らないほうが幸せな時間が長くなる」

 はたり、とフェリシアは石の床に倒れ伏した。

 足音が遠のき、やがて重い扉の開く音とともにあたりは前のように静まり返った。

 だが、フェリシアの心はざわめいている。

 彼が無事ならばいい。彼が救われたなら、それでいいのだ。

 安堵の気持ちと裏腹に、ロザリンの美しい顔を思い出すと心が痛んだ。

 あの美しい人に自分がかなうはずはなかったのだ。


 知らず、フェリシアの口から小さな呻き声があがった。頬をまたひと筋、涙が流れていく。

「でも、本当なの?  ヘンリエッタのいうことを信じてしまっていいの?」

 彼の口から真実の言葉を聞かなくてはならない。彼の口から語られたなら、それがどんな裏切りでも自分は納得できるかもしれない。たとえそれで心が引き裂かれるほど痛んでも。

「そのためにはここを出なくちゃ」

 フェリシアは身を起こし、手の甲で乱暴に涙をぬぐった。

 フェリシアが捕らえられたことをマリオンが知っていれば、助けに来てくれるかもしれない。

 たとえ、心がもう自分の上になくなっていても、彼は弱いものを見捨てることはしない。絶対しない。 そういう人なのだ。

 しかし、この状態では彼はフェリシアが城を出たことすら知るすべはない。


 この結界の中で、果たしてマリオンに貰った守護石が使えるだろうか?

 フェリシアはいつも身に付けている胸の淡い薔薇色の石を握り締めた。

 彼女のために彼が選び、石を磨き、金と銀で綺麗な装飾をほどこし、念入りに守護の魔法をかけたものだ。

 彼らにフェリシアを傷つける気があったのなら、この石がきっと護ってくれていただろう。

 だが、今回、彼らにフェリシアを傷つける意志はなく、魔法は作用しなかった。

 マリオンが知ったら、「うーん、大失敗だな」というに違いない。

 その渋い顔のマリオンを思い浮かべて、フェリシアは小さな微笑を浮かべた。

「大丈夫よ。諦めないわ。私、ちゃんと自力でここから出てやるから」

 フェリシアは自分に言い聞かせるように声に出してそういうと、鎖を伸ばせるだけ伸ばして、牢の外の様子をうかがった。


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