破滅の薔薇(その1)
【J&M’s SIDE】
ジェイクが死体を発見するより一刻(2時間)ほど前、マリオンは遠出用に身支度を整えて、馬に乗っていた。
朝食もそこそこにハロウ村へ出かけることにしたのだ。
早朝からジェイクに忠告とやらを受けて以来、彼はすっかり不機嫌だった。
「なら、ロザリンと顔を合わせなければいいんだろう」
と、すっかり臍を曲げ、侯爵にも姫君にも顔を見せないまま、ハロウ村へ出かけることにしたのだ。
ジェイクと会った後、部屋へ戻り身支度を整えたその足で、彼は一階にある厨房へ顔を出し、料理頭や女中たちを恐縮させながら、パンやチーズ、葡萄酒などの食糧を袋に詰めさせた。
彼はそれを持つと今度は厩舎へ行き、
「ハロウ村へ秘密の用事で出かける。とても大事なことを見つけたようだ」
と、さんざん周りに吹聴してから出かけてきた。
「これでいいんだろう。ちゃんと役目は果たしているぞ」
マリオンはジェイクがいると思しき城の北側に向かってそうつぶやくと、穀物倉とは別の方向にある門を抜けて、ハロウ村への道筋をたどった。
朝とはいえ、すでに夏の太陽は大地に強い日差しを投げかけている。晴天といいきるには少し雲が多いが、今以上天気が悪くなりそうな気配はない。
からりと乾いたさわやかな風が吹き抜け、遠出をするには最適の日に見えた。
馬はマリオンの城から乗ってきた大きな毛艶のいい鹿毛で、馬房で一晩たっぷり休んできちんと手入れをしてもらったおかげで元気いっぱいだった。マリオンは特に急ぐそぶりも見せず、並足でゆっくりと馬を走らせている。
「特に急ぐ旅でもなし。ラザラスが僕の後を追えないと困るしな」
彼は唇を皮肉げな笑いの形にゆがめた。
ハロウ村へは、馬でとばして半日ほどかかる。今のような速度であれば、昼をだいぶ過ぎたあたりにしか行き着くまい。
今夜は誰かに交渉して泊めてもらうか、この季節ならばあるいは野宿でもかまわない。
柔らかな緑の香る澄んだ大気の中を馬で走るうちに彼の不機嫌の虫はどこかへ去り、今やのんびりとハロウ村への道行きを楽しみはじめていた。
異変に気がついたのは、城から三哩ほども離れた辺りからだった。
「おかしいな。誰かに見られている」
マリオンの右の首筋がちりちりと痺れ、警告を発している。
ハロウ村へ向かう道筋に人影はない。街道の左には、延々と畑が緑色に広がっている。
右には、馬で一飛びできそうなほどの細い小川が道なりに流れていて、その向こうには、やはり小川に沿って林が延々と続いている。
そこは森と呼ぶほどには樹木の数は多くない。時折、木々が途切れていて、その隙間からは左と同じような畑が続いているのが見えている。
気配はその木々の辺りからしている気がした。
「ラザラスにしては、殺気がはっきりとわかりすぎる」
マリオンは、緊張を悟られないように手綱を持つ手からゆっくりと力を抜いた。
「ラザラスでないのなら、モーリスか」
今朝聞いた警告を思い出し、マリオンはさりげなく胸元に手をやった。そこには護符が下がっている。それを少し神経質になでながら、彼はモーリスの顔色の悪い凡庸な顔を思い出していた。
モーリスは少年の頃から長い間、ロザリンのそば近くに仕えてきた。ほとんど幼馴染と言ってもよいくらい、彼は彼女の身近にいたと聞いている。
今から二十五年ほど前、侯爵の護衛官だったトマス・ホイーラが侯爵の侍女をしていた遠縁の娘と結婚し、生まれたのがモーリスだった。
その後、侯爵はヘンリエッタと結婚し、ロザリンが生まれた。モーリスとロザリンは七つほど歳が離れている。
ロザリンが二つになった頃、ヘンリエッタが同じ年頃の子供と遊ばせようと城に呼んだ子供たちのうちの一人がモーリスだった。
モーリスはこの可愛らしい侯爵の娘にすぐ夢中になった。
ロザリンはモーリスを兄のように慕い、モーリスも妹のように可愛がった。
幼い頃はそれでもよかった。たぶん、モーリスは幸せな日々を過ごしたことだろう。
やがて、年月が経ち、その美しい夢は儚く終わりを告げた。思春期を迎える頃、彼は男であることを理由にロザリンの元から離されたのだ。
まだ、幼かったロザリンは遊び相手がいなくなり残念がったが、それもつかのま、すぐに新しい遊びに夢中になって彼のことは特別に思い出しもしなくなった。
だが、彼は違っていた。
すでに彼の胸の中には美しく可愛らしい姫君が住んでいた。直接に顔を合わせる機会は少なくなっても、遠くから彼女を眺めることはできる。
歳と共に彼女はますます美しくなり、周囲の男たちの心を騒がせた。
モーリスはご多分に漏れず、彼女の比類なき美しさに憧れ、胸を焦がし熱く思い入れた一人で、傍に仕えている現在もその思いは変わらなかった。
しかし、モーリスにとっては不幸なことにロザリンの眼中に、彼はまったく入ったことはない。
努力に努力を重ね、若くして護衛長となり、よりいっそうロザリンの身近に仕えることになっても、ロザリンは『からかいがいのある護衛長』という目でしか彼を見たことがなかった。
ロザリンの理想の男性の基準から、モーリスは大きくかけ離れていたのだ。
もしも、一度でも思いが叶っていれば、どうなっていたのだろう。
マリオンは自嘲の笑いにかすかに口元をゆがめた。
「吹っ切れるならいいが、よりいっそう思いが募るだけで、もっと泥沼の方がありそうだな」
しかしただ一度だけ、モーリスが悩んだ挙句、理性を働かせ部署替えを願い出たことがあると聞いている。
憧れだけの決して手の届かない美しい夢からは離れたほうが、自分の将来のためにはよいと考えたのであろう。
彼とても、これからの長い人生を思えば、ずっとこのままでいいはずもない。平凡だが愛らしい誠実な女性と所帯を持って、跡取りの子供たちを作ったほうがよい。
『でも、モーリス。私にあなたは必要なのよ』
ロザリンはにっこり笑ってそう言い切った。
それがモーリスの限界だった。
姫君のたったその一言でモーリスの気力はくじけ、彼に全てを断念させた。無邪気に可愛らしげなあの微笑を浮かべ、残酷無情にそう言えるのは、彼女がサモンデュールの薔薇、ロザリンだからだ。
そう、必要だろう。
彼女にとって「私が好きなのね」と言って、からかう相手が必要だった。彼女には常に無条件の讃美者がいなければならなかった。
その相手はロザリンにとって『男性』ではない。
恋の相手ではありえないが、彼女を美しいと讃美してくれ、憧れて焦がれてくれる熱烈な『讃美者』だった。それは男でも女でも関係がない。
相手の気持ちもどうでもよい。自分が気持ちよければ、それでいいのだ。それ以外何も考えていない、残酷で無慈悲な美しい薔薇。
「だが、無理やり従わせたわけではない」
マリオンは遠くに視線を投げた。そこが、彼女の一番困ったところなのだ。
無理やりであれば、反論もあろう、反発もできよう。
だが、業腹なことにすべては自分で選んだことなのだ。たとえ彼女の色香に迷い、情に流されてしまったとしても誰に強制されたことでもない。
となれば、うまくいかないのは、自分のせい、いいや、誰か他の男のせい、と考える輩がいてもおかしくはないのかもしれない。
事実、モーリス自身がそう考えていると思われる節がある。彼の愛が報われないのは、すべて他の男たちのせいだった。
まして、どこの馬の骨とも知れない魔術師風情が続けて二人もロザリンの前に現れて、すました顔で姫君を蹂躙――モーリスから見れば――して去っていくなど、彼にすれば許しがたい狼藉であろう。
彼にとってロザリンはいわば聖女、踏みこんではならない神の領域に咲く薔薇に等しい。
魔術師どもなど殺してやりたい、と思ったとしても不思議ではない。
護衛官たちの間で、近頃の護衛長殿は言動がおかしい、と言われていたようだがそれも彼女のせいで追い詰められて、だとすれば、どこか憐れですらあった。
「とはいえ、おとなしく殺されてやるつもりは微塵もないがな」
マリオンは小さく不敵な笑みを浮かべ、顎をぐいっと上げた。
同時に手綱をしっかりとつかみ、鋭い掛け声をかけると馬の横腹を蹴った。
鹿毛の元気な馬は、それによって弾かれたように勢いよく飛び出し、ひそやかな追撃者を残し疾風のように街道を駆け抜けていった。
******
マリオンを乗せた馬は、そのまま街道をハググレーブ村とハロウ村への二股の分かれ道まで一気に突っ走った。
追っていた者がいたとしたら、これから先は姿を隠すのに苦労することだろう。ハロウ村へ抜けるほうの道筋は、両側に一本の木の影すら見えないようななだらかな丘陵で、片方は畑でもう一方は羊や牛を放牧するための草原になっているのだ。
柵はあるが、細い木の棒でしきられているだけの簡単なものでしかなく、人間が単独で行動する分にはいいが、馬に乗っていればその陰に姿を隠すことはできない。
「もしくは魔法を使えばできるかもしれんな」
と、マリオンはその丘をながめながら、馬の速度をゆるめた。
ラザラスなら魔法で姿を隠すことも可能であろうが、一介の剣士にしか過ぎないモーリスには到底無理であろう。
「それにこれがある限り、奴らには何もできまい」
マリオンは再び黒い皮紐の先につけられた胸の護符に手を当てた。
その護符は二インチほどの大きさの銀製のもので、六芒星と呼ばれる三角二つを逆向きに重ねた星のような形に細工されている。その中央部分には大きく艶やかな黒瑪瑙がはめこまれており、しっかりと守護の魔法がかけられていた。
マリオンは再び並足で馬をのんびりと走らせ始めた。
たかがモーリスなど恐るるに足らぬ、どこかにそういう考えがあった。自分の魔力を過信していたともいえるかもしれない。
そして、マリオンは道の端に仕掛けられた誰かの結界魔方陣に気がつかぬまま、ハロウ村への分かれ道へ馬を踏み入れていた。
全ての魔法を無効にする目的の結界の中での護符の効き目は、守護魔法をかけた魔術師と結界を張った魔術師のそれぞれの魔法器量に左右される。
魔法の気配を極力消し去り、マリオンの馬を何の疑問も抱かせず踏み入れさせたその魔法結界はかなり強力で、彼の持っていた護符の守護魔法を明らかに上回っていた。そのためしばらくの間、マリオンは自分が危険な領域に踏み込んだことに気がつかなかった。
結界から十歩ほど中へ踏みこんだとき、それは突然やってきた。
ざわりと背中に冷たい気配を感じる。
陽光が明るくあたりに降り落ちているはずなのに、自分の周囲には闇が固まったような影を感じて、マリオンは思わず手綱を強く引いた。
「しまった!」
同時に彼が乗っていた勘の良い鹿毛も何かの脅威を感じ、その場に棒立ちになり高く恐怖のいななきをあげた。
手綱を巧みに操り馬を回して来た道を戻ろうと試みたが、すでに退路は断たれていた。見渡す限り平板な、まるで絵の中にでも入り込んだような生気のない風景が広がっている。夜のように暗くはない。ただ、風景は澱んだ川底を覗き込むようにどんよりと曇っている。
たぶんここを一気に駆け抜けたとしても、結界の外へ出ることはできないだろう。
ぴったりと湿った空気が肌に張り付き、マリオンはぶるっと身震いをした。恐怖よりも気色の悪さが先に立つ。
「お前は誰だっ!」
叫んだ声も、ぶ厚くぼんやりとした透明感のない青灰色に塗りこめられた虚空へ吸い込まれていく。
「ラザラス! お前かっ!」
マリオンが叫ぶと、前方の濁った風景の中から突然にじみ出た影が笑った。笑い声は通常のようには響かず、ぼんやりとした風景の中に半ば飲み込まれていて振動だけがはっきりと伝わってくる。
「違う」
笑いを収めると風景と同じくくぐもった灰色の声が否定の言葉を投げ、マリオンは目を細めてそのやってきた影の正体を確かめようと瞳を凝らした。
やがて、一人の男がマリオンの視界に滲むように現れた。
いつもの護衛長の地味な服装で、だらんとおろした右手には、大きな剣を抜き身で下げている。
「貴様、モーリス!?」
マリオンのいぶかる口調にモーリスの唇の両端が持ち上がり、にやりと笑いを形作った。
あいかわらず剣を下げた右手は、やる気なさげに力を抜いて下へおろされたままだ。
『もしかして、あやつられているのか?』
マリオンは目を細め、さりげなくあたりの気配を探った。
何故、彼がここにいるのか。モーリスにこの魔法結界が張れたはずはなかった。彼だけでは、中へ入り込むことすら難しいだろう。モーリスだけでなく、必ず背後に魔術師がいるはずだった。
だが、絵のようにもったりとした空気を帯びた風景からは、他の気配をうまく感じることができなかった。マリオンの五感すべてがいつもより格段に鈍くなっている。
「死ぬがいい、金の髪の魔術師よ。おまえは、邪魔者だ」
モーリスがどんよりと曇った目にそれだけははっきりとした殺意を浮かべた。
あたりに慎重に気を配りながらもマリオンは片頬で不敵に笑った。
「お前に魔術師が殺せるのか。やれるならやってみろ」
その言葉が終わるか終わらないうちに、モーリスがふいに意味不明の大声をあげながら剣を振り上げ向かってきた。彼は目の焦点が合わないような顔のまま、めちゃくちゃにその大剣を振り回している。
狂気の混じったその凄まじい声と振る舞いに、マリオンの乗っていた馬が怯えたようないななきをあげた。
マリオンは馬をなだめると、そのままモーリスの横を抜けて走り出そうとした。
だが、空気が身体中に重くまとわりつき、馬はその場で足踏みをするばかりで走り出さない。
まるで、夢の中のように手足が思うように動かないのだ。このままでは、馬ごと斬られてしまう。
マリオンは手綱を捨て、馬から思い切りよく身体を投げ出すようにして飛び降りた。
地面に足がついたときにはすでに腰の剣を抜いている。
すかさず突っ込んできたモーリスのでたらめな一撃をその剣で受け、後ろへ飛び退る。
背の荷物がなくなって、怯えていた馬はすでに遠くへ走り去っていた。
「殺してやる。お前など、闇の底へ落ちてしまえ」
ぶつぶつと、まるで魔法の呪文のようにモーリスが同じような言葉を吐き続けている。
その間も剣を振るう手も止まらない。さほど膂力があるとも見えないが、動機は不純であっても護衛長にまで昇進した男だけあってモーリスの剣には早さと力強さがあった。
しかも、剣の振りがあまりにもでたらめすぎて、マリオンは剣筋を読むことができず逆に困惑していた。
「ちっ! まさに狂刃というやつだな」
闇雲に振られるその刃をかいくぐり、マリオンは舌打ちをした。
どこかで魔術師が自分を狙っているとしたら、モーリスの攻撃に右往左往しているときが一番効果的であろう。
結界の中では護符魔法もちゃんと効くとは思えない。
マリオンは頭の中で忙しく、モーリスをなんとかしておとなしくさせる術を考えた。
剣と剣がふれあい、くぐもった金属音を響かせる。マリオンが力でも技でもモーリスにかなわないはずはない。
しかし、今のモーリスは理性がない分だけ始末に終えない相手だった。
魔法を使えば一瞬ですむのだが、モーリスの動きはすばやいうえにしつこくてマリオンに呪文を唱える隙を与えなかった。
そのうえ、まるで川の中で流れに逆らっている時のように、空気に足をとられてすばやい動きがなかなかできない。
と、そのときだった。
びくんと雷にでも打たれたかのように突然モーリスの動きが止まった。
濁った目もどこかうつろな表情も振り上げた剣もそのままに、モーリスは固まってしまっている。
いささか息を切らしながら、モーリスの刃を受けていたマリオンは訝しげに、しかし、警戒は解かないまま彼を見やった。
もう一度びくんと大きくモーリスの身体が跳ねると、彼の大きな身体はそのままどうっと後ろ向きに倒れこんだ。
まるで操り人形の糸が踊りの途中で切れてしまったかのようだ。
「おい、どうした?」
マリオンが彼の思いがけない行動に一瞬だけ剣を下ろしかけたそのときだった。
風を切るするどい音とともに背後から黒い矢が放たれ、彼の背中の左側へ深く突き刺さり、胸へ抜けた。
その衝撃を受け、彼の胸で揺れていた護符の黒瑪瑙が千々にひび割れると、まるで黒い星のようにあたりに弾け飛んだ。
マリオンは自分の胸からいきなり生えたその凶悪な鏃の先端を、まるで信じられないものを見るような目で見下ろした。
同時に口の中に鉄の味が広がる。口からあふれた血がつうっと唇の端からあごへと流れ落ちていく。
力を失った彼の手からがらりと音を立てて剣が大地に落ち、まるでそれが合図だったかのようにあたりを取り巻いていた濁った結界が一気に消え失せた。
あとにはごく普通の明るい田園ののどかな風景と清々しい大気が広がっている。
だが、風景とは対照的にマリオンの身体の中には急速に闇が広がりつつある。矢から黒い魔法がじわじわと広がっており、闇に毒された彼の心臓が大きな音を立ててどくどくと不規則に打っている。
がくりと力なく膝が落ちるのが、彼自身にもわかった。わかっていてもどうすることもできない。
マリオンが最後の力を振り絞り、左の手首を弱々しく口元に当てると、袖の陰に隠れていた銀の腕輪がしゃらりと澄んだ音を立てた。腕輪の細い銀が幾重にも絡まりあった真ん中には明るい緑の石がはめ込まれている。
「マ・・・・・・リオン」
彼の口からかすかに自分自身の名前が漏れ、それを最後に彼の意識は霧の中へ深く沈み込んでいった。




