薔薇の疑惑(その2)
あてがわれた白薔薇の間に向かうために、回廊を抜け長い直線の廊下へ差し掛かったとき、マリオンの背にロザリンが声をかけた。
「マリオン様、お待ちになって。少し、お話がありますの」
ロザリンはそう言うと、白い手を振ってマリオンについていた侍女と自分の侍女を下がらせた。侍女たちは心得たようにお辞儀をすると、すばやくその場を立ち去った。
あたりにはもう他に人影はない。
ロザリンの小さく華奢な影が、マリオンのそば吸い寄せられた。
廊下には月のない夜のためにたくさんの燭台が取り付けられ、灯されている。
またたく無数の柔らかな光の中で二つの影が一つになる。
「マリオン様、お待ちしておりましたの、本当に」
彼の力強い腕に抱かれ、胸に顔を押し当てながら、ロザリンが甘い声でささやいた。
「僕もですよ、美しいロザリン姫。ずっとあの日から夢に見ていました。あなたを抱きしめることを」
彼の深く柔らかい声がロザリンの耳に心地よい。
「ああ・・・・・・。嬉しいわ」
「ロザリン・・・・・・」
顔をあげたロザリンが彼の瞳をひたと見つめた。美しい橄欖石のような緑の右目が彼女を見つめているが、左の目は金色の前髪に隠されて見えない。
その見えている右の瞳の中に、この前のパーティの時には欠片もなかった欲望のきらめきを見てとって、ロザリンは満足げに小さく甘い吐息をついた。
ロザリンが静かに目を閉じると、ほのかに赤い淫靡な唇に彼の唇が重なった。
『勝ったわ、あなた! 彼はもう私のものよ。二度と彼をあなたの元に返さないわ」
彼の腕の中で情熱的な口付けを交わしながらロザリンの頭の中にあるのは、黒い髪、黒い瞳のあの美しい魔女のことだけだった。
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「よう、魔術師殿。今から夕飯かい?」
ジェイクが裏戸から滑り込むと、どこからかだみ声が聞こえた。ジェイクは一瞬ぎくりと足を止めたが、すぐにそちらへ身体を向けた。
「ああ、そうだ。そっちはもう大分できあがってるようだな」
ひょいと奥の戸口から顔を出した赤ら顔の男が、自らその言葉を証明するようにエールの入った大きなジョッキを嬉しげに掲げて見せた。
『あのとき、門を開けてくれた男か』
男は午後に二人がこの城へ着いたときに、門を開けてくれた赤ら顔の大男だった。
交代時間がとっくに過ぎていると見え、もうすっかり陽気な酔っ払いと化していて、あのときの改まった口調は欠片も見当たらない。
「まぁ、こっちに来てあんたも一杯飲りなよ。うまい肉もあるし」
ジェイクはかすかにためらい、それから覚悟を決めたようにそちらへ歩き出した。
「じゃあ、一杯だけ貰おうか」
ジェイクが中へ入ると、やや広めのその部屋には、五、六人ほどが大きなテーブルを囲んで酒盛りをしているところだった。
木の頑丈そうなテーブルの上には、何かの塩漬け肉を炙ってナイフで削いだものやゆでた大ぶりのジャガイモ、ざっと炒めただけのきのこと豆、小さな川魚を燻製にしたものなどの荒っぽい料理が大量に並べられている。
「上つ方々の御料理などじゃねぇがよ。美味いぜ? まぁ、食いなよ」
「ああ、ありがとう」
ジェイクは礼を言って、一番入り口の近くにあった小さな木の椅子に腰をかけた。
すかさず、溢れんばかりにエールが注がれた大きなジョッキを渡される。
「いくらなんでも俺たちのエールが飲めねぇなんてこたないよな? あんたはいつ誘っても逃げられちまうからな」
ジョッキを渡してくれた男が、面白がっているような表情でそう言うと、ジェイクはそれには答えず、片手でジョッキを軽々と持ち上げ喉をそらして大きくあおった。
やがて、三分の二ほども一気に空けて平気な顔で口元をぬぐったジェイクに、辺りで様子をうかがっていた男たちがやんやの喝采を送った。
「なんだよ、やるじゃないか。うめぇだろ? これも食えよ」
気さくにそばにいた別の男がジェイクの肩を叩き、そぎとった大きな炙り肉をナイフに突き刺し、それごと手渡してよこした。
「悪いな、ありがとう」
礼を言ってナイフを受け取り、塩のきいた肉の端を噛み取りながら周りの顔を改めて見回す。
門番の男以外、見知った顔はないが、もちろん向こうはジェイクの顔を知っているだろう。
城付きの魔術師というものは、大方の場合、何もしなくてもよく目立つものだ。ジェイクの顔を知らない使用人がいるとは思えなかった。
さりげなく彼らの足元に注意するが、どこにも怪しいものは見えない。
さっき、小麦倉庫で話をしていた顔のわからない男たちに巻きつけた光の細い糸はどこにもなかった。
「そういえば、昼間、あんたと一緒にやってきたあの金髪の若い魔術師だけど」
赤ら顔の男が言い、ジェイクは苦笑した。見た目は若いといっても、実はマリオンのほうがジェイクよりずっと歳が上なのだ。
「彼がどうかしたか?」
ジェイクの問いに、大男が肩をすくめた。
「こんなこと、あんたに言ってもどうなんだろ? まずいかな?」
「おいおい、オリー。そこまで言ってやめるこたないだろう? 言っちまえよ」
向い側に座っていた男がけしかけると、オリーと呼ばれた赤ら顔の男は、うーんと唸りながら頭をぼりぼりとかいた。
「ま、正確に言えば、あの金髪のあんちゃんってよりも、護衛長のモーリスがってことだがよ」
意外な人物の名前に、ジェイクは無言のまま訝しげに目を細めた。
「なんだい? 我らが護衛長殿がついに何かやらかしたか?」
面白そうに隣に座っていた別の男がジェイクの代わりに茶々をいれた。どうやら、モーリスはあまり同僚たちに人気があるとはいいがたいようだ。
オリーはジェイクから目をそらし、躊躇うように言葉を濁らせた。
「あんたの友達に気をつけろっ言ってやったほうがいいかもな。なんだか、そのぅ、モーリスが目の仇にしてるようなんだよな」
オリーの言葉を聞くなり、げらげらと遠慮のない笑い声をあげて男たちがテーブルをばんばんと叩いた。
「夕方に姫様の護衛をはずされたって奴がぶうぶう言ってたのはそれか?!」
「それだ、それ。あの魔術師が城にいる間は護衛長はいらね、と言われたらしいぞ?」
「モーリスごときがあの魔術師のあんちゃんにかないっこないだろ? 何とかなると思ってるんなら、本物の阿呆だな、あいつ」
「あいつの部屋には鏡もねぇのか?」
「それより脳みそがねぇんだろうよ」
男たちのきつい寸評に、ジェイクは苦笑するしかない。
「それはロザリン姫のせいだな?」
ジェイクの言葉にオリーは肩をすくめ、すまなさそうな顔をして見せた。
「だから、あんたに言うのは、ちいっとばっか筋違いって気もするんだけど」
オリーの言葉に男たちが、にやにやと笑いながらもジェイクから目をそらし、それぞれ自分のジョッキの中を覗き込んだ。
どうやら、ジェイクとロザリンのことを知らぬ者はいないらしい。
いつも側にいるわけではない侯爵が知らないことだとしても、姫君に毎日細かに仕えている侍女や小間使いの少女たちのほうがそういうことには敏感だろう。人の口に戸は立てられぬという諺どおり、使用人たちの間で噂になっていても何も不思議なことはなかった。
「わかった、奴には気をつけるように伝えておく」
ジェイクは残っていたエールを一気に飲み干すと、立ち上がった。
「うまかった。また誘ってくれ」
そのまま、しなやかな身のこなしでマントを翻すと、止めるまもなくジェイクは風のようにすばやく部屋を出て行った。
「やっぱりまずかったかな?」
つぶやくオリーの小さな声は、再び大声で馬鹿話を続ける男たちの陽気な笑い声にかき消された。
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自分の部屋に戻るためにジェイクは、階段を上っていた。
ジェイクの部屋は、北側の三階にある。
途中でいくつか目に付いた兵士や使用人たちの詰め所などを人を探すふりをして覗いてみたが、あの光の細い糸を巻きつけた者はどこにもいない。
「全員、確かめたわけじゃないからな。それに・・・・・・」
穀物倉庫の鍵を持っている人物は限られる。肝心の作男頭の姿はどこにも見当たらなかったのだ。
『明日、残りの者たちを片っ端から確かめるしかないな』
それに重要人物、ラザラスにもあの後一度も遭遇していない。彼にはぜひとも会わねばならなかった。
「それに、あいつだ、あいつ」
ジェイクは唇を噛んだ。
ついさきほど、マリオンにあてがわれた部屋を覗いてみたのだが、すでに晩餐が終わって部屋に戻っているはずの彼はいない。
部屋つきの侍女に行方を尋ねたが、はかばかしい返事は戻って来なかった。
「たぶん、あのぅ、今夜はこちらにお戻りではないと思いますけど」
上目遣いに思わせぶりな顔をして彼女が答え、ジェイクの顔つきが厳しくなったところで慌てて目を伏せた。
怒りを押し殺して無言のまま、ジェイクは部屋を出た。どこに彼がいるのかは、はっきりわかっていた。
「あの馬鹿。あれほど言ったのに・・・・・・」
一番に傷つくのが誰なのか、果たして彼は知っているのだろうか? 偽りを身に纏ったままで、真実の愛を語れるはずはない。そのことで深く傷つくのは、誰でもない、彼自身なのだ。
途中の窓から見えるこの城の夜の庭に目を落とす。あちこちには小さな魔法のランタンが灯されてはいるが、月もない夜はどこかよそよそしく排他的で冷たげな印象を与える。
「まぁ、まぎれもなく自分は歓迎されざる者だからな」
それとも、迷い込んだ羊だろうか。これからやろうとしていることを考えれば、狼だと言われるのかもしれない。
ジェイクは自分のむき出しになっている左目を無意識に押さえた。かかっている魔法によって、それは今、力が押さえこまれている。
「先は長いな」
小さくため息をつくと、長身の黒い影は再びゆっくりと階段を昇りはじめた。




