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薔薇の疑惑(その1)

【M&J's SIDE】


 穀物倉の床には蝋石ろうせきで直径二フィートほどの小さい魔方陣が描き込まれている。ジェイクは屈みこみ、半分ほど消されてしまった魔方陣に指を走らせた。

 それはねずみだけではなく、害虫や穀物を主食にしている小動物の類を中へ入れないためのごく普通によくあるありふれた魔方陣だった。

 蝋石で描かれていても、それは魔法を帯びているために本来は軽く撫でただけですぐに消えてしまうようなやわなものではない。よほどきつい衝撃を与えなければ、そう簡単に消えるはずはなかった。それが半ば何か靴底のようなもので強引にこすり取られていた。わざとなのか、たまたま偶然だったのか。

 ジェイクは立ち上がり、その魔方陣のそばにある小麦の袋を仔細に調べ始めた。

 ここの穀物倉は綺麗に管理されていて棚にはそれぞれ数字がつけられており、管理帳にはその数字の小麦の袋が、どの村からいつ納められたものかが細かく書き込まれている。


 借りてきた管理帳と照らし合わせてみると、小麦の袋が魔方陣のそばの棚に収められたのは二ヶ月以上も前のことで、そこに袋を収めた際に間違って作男たちが魔方陣を消したとは考えにくい。

 まして、この場合の魔方陣は、収穫期の終わり、小麦が詰めこまれた後に描かれたはずだった。

「つまり誰かが故意に消したのか、あるいは、盗まれた袋がこの棚のもので盗人が消したのか」

 数が合わない小麦の袋がどの棚の分だったのか、は侯爵も知らなかった。

 ざっと見たところ、小麦の袋は天井まできっちりと積まれており、抜けがあるようには思えない。

「誰かに聞かなくちゃいけないな」

 ジェイクは、再びかがみこむと、上着の隠しから蝋石を取り出して床に新たな魔方陣を描き込んだ。

 ジェイクが綺麗に整った魔方陣を書き終わり立ち上がろうとしたとき、表戸で鍵を開ける音がした。

 この穀物倉は、外に大きな錠前がついていて、作男頭が持つ鍵がなければ入ることができない。ジェイクは鍵を借りずにやってきて、そのまま魔法で開錠し見咎められないように内側から再び魔法で施錠していたのだが、その穀物倉の入り口が乱暴に引き開けられ、誰かが中へ入ってくる気配がした。


「だから、言ってるじゃないか。俺はなんも知らねえ。知りたくもねぇよ」

 扉が閉じられると同時に誰かの声が聞こえ、ジェイクは立ち上がらずにそのまま棚の後ろに潜み、足元につけていた蒼白い魔法の灯りを静かに消した。

 もう一人のくぐもった声が何事かを言うたびに、最初の男が声高に否定している。

「俺じゃねぇってば。絶対違う。誰がやったか俺が知るわけがないだろう」

 何をそんなに躍起になって否定しているのか、質問が聞こえないだけにジェイクは苛立った。

 そっと棚の影から覗き込んでみるが、あいにく積み重ねられた小麦袋と棚の足に邪魔されて四本の黒っぽいブーツを履いた足がちらちらと垣間見えるだけで顔はまるで見えなかった。

『小麦泥棒の話か、それとも別の話か』


 ジェイクは右手をふっと伸ばして、指先から白い蜘蛛の糸ほどの細い光を紡ぎだした。

 光の糸はジェイクの指先から床の上をまるで蛇のようにひそやかに走り、垣間見える四本の足のうちの一本にくるりと巻きつき、それからさらに別のもう一本の足に絡みついた。

 やがて同じような言い訳に飽きたのか納得したのか、穀物倉庫の扉がまた引き開けられ、二人の人間が出て行く気配がした。扉がしっかりと閉められ、かすかに鍵が閉まる音がしている。

『ここの鍵を持っている男。作男頭なのだろうか?』

 天窓からの灯りだけがうっすらと入ってくる仄暗い穀物倉庫の中で、ジェイクはしばし物思いにふけった。


 ジェイクが穀物倉庫を出たのは、それからたっぷり小半時も経ってからだった。表に人の気配がないことを確かめてからゆっくりと魔法で表側の鍵を開け、すばやく身体を滑り出させる。

 すでに日もとっぷりと暮れ、あたりは真の闇に包まれていた。

 北側のこの辺りには倉庫や物置が何十棟かあるだけで、収穫期以外の今の季節、特に夕暮れ時から夜にかけてはほとんど人通りがなかった。

 鼻をつままれてもわからないほどの深い闇がジェイクをぴったりと押し包む。夜はまるで水のようにジェイクをすっかり覆い尽くし、その全身に重苦しく張り付いている。

 今宵は月も出ていない。

 昼間は天気がよかったのだが、夕暮れから少し雲が出てきたようで、空を見上げても星のかけらすら見当たらない。

 ジェイクは自分の気配を消し、闇と同化するようにゆっくりと歩きだした。

『この重苦しい闇の気配は、いったいなんだろう?』

 まとわりつく深く濃い闇が肺の中にまで入り込み、呼吸を押しとめようとしているようだった。魔法の灯りでも欲しいところだが、今はつける気にもならない。


 灯りをつけるとそれだけで何か闇に潜んでいるものが寄ってきそうな、そんな嫌な感じがしていた。

 もともと顔のわりに度胸があって臆病なほうではないのだが、それでもむやみに闇を刺激し、形のないさだかでないものを呼び起こすこともあるまい。

 目がなれてくれば、とりあえず道筋と障害物だけはわかるし、もともと視力は悪いほうではない。

 草を踏むかすかな足音すらもたてないように気を使いながら、彼は本館へ続く小道をひたすら歩きつづけた。

 そろそろ本館では、マリオンと侯爵、ロザリンが晩餐の食卓について歓談している頃合だろう。

 ジェイクも侯爵に声をかけられたのだが、丁重に断りを入れていた。

『マリオンとはそんなに親しくもないし、そもそも城付きの魔術師には正式な晩餐は荷が重い』

 渋い顔でそう答えたジェイクの言葉に侯爵は首をひねった。

「マリオン殿も嫌がるだろうか?」

「貴族出身のマリオンなら、私なぞと違ってどんな作法でもこなすでしょう。何も心配はありませんよ」


 ジェイクが肩をすくめると、どうやらその噂を知らなかった侯爵が目を丸くした。

「おや? そうだったのかね? それは知らなんだ。どうりでどこか品がいいと思っていたよ」

 侯爵の言葉にジェイクは口元を歪ませただけで、意見を差し挟むのは控えることにした。

 満足げな侯爵は、すぐさま晩餐の仕度を命じるために家令を呼び、それをしおにジェイクは部屋を辞してきたのだ。

「うまくやってるかな? 彼は」

 ジェイクは煌々と灯りの灯る本館を見やってぽつりとつぶやいた。

「とんちんかんなことを言ってなきゃいいけどね」

 ジェイクの口元に小さく笑みが浮かんだ。


 ************************


「いかがでしたかな? 今日の料理のほうは」

 侯爵の問いに、マリオンがナプキンで口元を軽くおさえて、にっこり笑った。

「ええ、大変美味しかったです。非常に優秀な料理人をお持ちですね。羨ましいことです」

 マリオンの答えに侯爵も満足そうにうなずいた。

「ええ、うちの料理人はなかなか評判がいいようで、私も気に入っておりますよ」

 そういいながら侯爵は、葡萄酒をゆっくりと口に含んだ。もうかなりの量の酒を飲んでいたが、ほとんど酔いは回っていないように見える。それはマリオンについても同じことがいえた。

「ねぇ、マリオン様。今度お書きになるご本は、どのようなものになりますの?」

 ロザリンが小首をかしげてマリオンのほうに向いた。

 食事の間中、二人が領地の話や他の国との貿易のことだの小難しい話ばかりするので、ずっと口を閉ざしていたのだが、ようやく話が途切れたのを好期とみてロザリンはその話を持ち出した。

 得たり、とばかりにマリオンは、ロザリンに自分が今までに書いた本のことやこれから書く話をし始めた。


『そもそも、この話をするために肩のこりそうなこんな晩餐に出てやってるんだからな』

 と、心の中でひとりごちながら、星の落ちた丘の話や人喰い井戸の話を面白おかしく好奇心に目を輝かせているロザリンに話して聞かせる。

「まぁ、星って地上に落ちたりするんですの? それに」

 と、ロザリンはさも怖そうな表情を浮かべ、頬に手を当てた。

「人喰い井戸ってなんですの? とっても怖いお話なんですのね?」

『そんなもの、怖くも何ともないくせに』

 心の中で苦笑しながら、彼は真面目な顔で話を続けた。

「どうやらね、ハロウ村というところにその井戸はあるんですが、夜中に近所の女の子を獲って喰った、という噂があるようなんです。

 この前の夜会のときにお聞きしましたよね? サモンデュール御領地内の若い女性の行方不明事件を。あの話のことみたいですね」

 そこまで言ったとき、それまで無言だった侯爵の右手の人差し指がぴくりと震えたのを、マリオンは見逃さなかった。


「夜会のときにモーリスがお話ししたあのお話? まぁ、本当?」

 それにはロザリンも真に驚いた顔をした。

「もちろん、人買いか誰かにさらわれただけなんでしょうが、――とはいえそれはそれで問題ですけれど――話というものは尾ひれがつくものですね」

「ハロウ村に、お行きになるのですかな?」

 唐突に侯爵が少しかすれた声をあげた。

「ええ、そのつもりです。噂だけでは、本にできませんし、近所の人にいろいろ話も聞いてみたいこともありますしね」

 それからマリオンは、にこにこと無邪気な笑みを浮かべて侯爵を見た。

「うまくいけば、御領地内で起きている行方不明事件を、僕が解決できるかもしれませんね」

「まあ、素敵だわ。そうなればよろしいですわね。ね、お父様?」

 手を叩き嬉しげに同意するロザリンの言葉に、侯爵はうなずいて見せたが、その顔色はさえなかった。

「だが、あまりご無理なさってもいけないことでしょう。危険なことはありませんかな?」

『うまく餌に食いついたか?』

 心の中でつぶやきながら、侯爵の言葉に彼は重々しくうなずいた。


「そうですね。さらわれた娘たちが複数だということを考えれば、相手は手ごわいかもしれませんね。実は、他の娘たちも調べてみようと思っているんですよ」

「他の娘?」

「ええ、他にも何人かさらわれたと思しき娘たちがいますよね。その娘たちのことも調べてみようかと思っています。ここ何日かは僕は一人で、あちこち飛び回ることになるかもしれません」

「それはそれは、ご本をお書きになるということは、なかなか大変なことですな。ゆっくりなさってからでも遅くはありますまいに」

 侯爵の言葉にロザリンが深くうなずいた。

「本当ですわ。ゆっくりしてくださらないと、私、つまりませんわ。いろいろ楽しいお話が聞けるかと思って楽しみにしておりますのよ?」

 マリオンは少し上気したような顔でロザリンを見やった。

「僕の話なんて面白くありませんよ。いたって無粋な男ですから」

 ロザリンはにっこりと極上の微笑を惜しげもなく浮かべた。

「そんなこと、ありませんわ。今こうしてお話ししているだけでも私、とっても楽しんでますもの」

「ありがとうございます」

 マリオンは小さく微笑んで、はにかんだようにその金色の長い睫毛を伏せた。


『実際のところ、これくらいで照れるような男じゃ全然ないけどな』

 と、心の中でつぶやきながら、彼はゆっくりとロザリンに視線を向けた。

「僕もロザリン姫とはゆっくりお話ししてみたかったんです」

「まぁ、嬉しい!」

 今度はロザリンの頬が薔薇色に上気した。

『面白いようにひっかかるな』

 彼は心の中で密かにほくそえんだ。


「そういえば、あの婚約者の、フェリシア殿はいかがお過ごしですかな?」

 二人を見るともなく見ていた侯爵がいきなりそう切り出すと、そのなにげない問いによってまるで静かな湖面に大きな石を投げ入れたようなざわめきが部屋の中に起こったような気がした。動揺の輪は、ロザリンから起こっている。だが、彼女はそれを表には出していないつもりであろう。

 その動揺が手にとるようにわかってはいたが、それに気づかぬふりをして、マリオンは侯爵のほうを向き、気乗りのしない表情を浮かべ肩をすくめて見せた。

「フェリシアですか? ええ、相変わらずですよ。近くの町で治療院を開いているので、いろいろ忙しくしているようです」

「ほう? 治療院を・・・・・・。それはまたえらく美しい治療師殿で、繁盛ですな」

「お父様ったら。治療院は繁盛する、でよろしいのかしら?」

 可愛らしく睨むロザリンの言葉に侯爵は乾いた笑い声をあげた。

「おお、これはしまった。失礼なことを申し上げました。治療院は繁盛とは言わないでしょうな。しかし、お忙しいのではなかなかご一緒にご旅行というわけにもいきませんでしょう。残念なことですな」


『その残念、は誰が残念なのかな?』

 心の中で皮肉を言いながらも、マリオンはにこやかな顔を崩さない。

「そうでもありません。一人のほうが気楽なこともありますし。特にこれから僕がやろうとしていることに、彼女が特別役立つとも思えませんしね」

 侯爵は残っていた葡萄酒を一気にあおり、酔いが回ってすわり始めた鋭い目でマリオンをみやった。

「まぁ、どのみち気をつけるに越したことはありませんぞ。私の領地内で何かあって、美しい婚約者殿を哀しませたとあっては、どうにも立つ瀬がありませんからな」

「ええ、わかりました。充分、気をつけますよ」

 マリオンは明るい声で軽く答えながら、

『せいぜい、こっちを追ってくれ。そうすれば、あっちは仕事がやりやすくなるはずさ』

 と、心の中でひとりごちた。


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