9.「もったいない」は過去への執着と未来への不安。今の自分を選ぶ魔法と、軽くなった引き出し
ガチャリと家のドアを閉めた瞬間、春香は「ふあぁぁ……」と長いため息をついた。そのまま座り込みたいのを堪え、靴を脱ぎ、ベットにダイブする。
藤北さんの部屋から帰ってきたばかりの体は、まるで鉛のように重かった。
(疲れた……!)
憧れの人の「完全なるオフの姿」を見てしまった興奮と、片付けるという目的のためだか部屋に入るという高揚感、プロのアドバイザーを演じ切らなければという極度の緊張感。その三つがどっと押し寄せてきて、エネルギーはすっかりゼロだ。
でも、耳の奥には玄関先で聞いた「また、来てもらえますか?」という彼の少し心細そうな声が残っていて、思い出すだけで胸がギュッと締め付けられる。
『お疲れ様でした、春香さん。見事な初レッスンでしたよ』
床に置いたトートバッグの中から、ふわりと浮き上がっためもすたが優しい声で労ってくれた。
「ありがとう、めもすた……。でも、やったのは『今日の郵便物』の処理だけ。あの巨大な山のほんの一部だよ。私、本当にあの部屋を片付けきれるのかな」
『大丈夫です。第一歩としては完璧でした。でも、あの山を崩し、部屋全体を救うためには、春香さん自身もレベルアップしていく必要があります』
「レベルアップ……」
『はい。明日の日曜日、新たなステップに進みましょうか』
「うん、お願い。私、もっとちゃんと片付けを知りたい。自分の部屋をなんとかしたいってものあるけど、彼を助けられるようになりたい」
*
そして、日曜日。
宣言通り、春香は自分の部屋の片付けに向き合っていた。
帰宅するたびに郵便物を処理する習慣は、すっかり根付いている。テーブルの上に新しい紙が積み上がることはもうない。
でも、視線を落とした先にあるチェストの引き出しやクローゼットや床のあちらこちらには、まだ見て見ぬ振りをしている「手をつけていない場所」がたくさんあった。
『捨てる、重要書類、しばらく保管。この三分類はもう身につきましたね。では、紙以外の物をやってみましょうか』
「どこをやればいいかな?」
『そうですね…引き出しにしましょう。文房具などの小物は、”捨てる”、”使うもの”、”しばらく保管”になります』
「よし、やるぞ!」と春香は勢いよく始めたものの、”しばらく保管”用に用意した箱の中にばかり入れていて、これはちょっとまずいんじゃないかと思い始める。
書類も最初はしばらく保管にどんどん入れていたのだが、これ取って置いても、もう二度と見ることはないよね!と分かってきて、だんだんと捨てるようになった。
が、文房具となるととたんに”しばらく保管”に入れたくなってしまう。そして、とうとう手が止まってしまった。
『どうしました?』
「なんだか……もったいない気がして、”しばらく保管”ばっかりに入れちゃう」
春香の正直な告白に、めもすたは穏やかに答えた。
『その「もったいない」という言葉の正体を、ちょっと紐解いてみましょうか』
「もったいないの、正体?」
『「もったいない」は、一つの感情じゃないんです。いくつかの感情が混ざっています』
「どういうこと?」
『高かったから、捨てるのがもったいない。いつか使うかもしれないから、今捨てたら後悔しそう。捨てて後で必要になったら困る——どれも「もったいない」という言葉でまとめられるけれど、中身は全部違います』
「高かったから。いつか使うかも。後で必要になったら——全部、言われてみれば違う感覚だ」
『そうです。そして、その感情を丁寧に見ていくと——「高かったから」は過去への執着です。「いつか使うかも」は未来への不安です。「後で必要になったら」も、未来への不安です』
「全部、過去か未来の話なんだ」
『はい。今のあなたの話ではない』
その言葉が、春香の胸にすとんと落ちた。
「じゃあ……今の自分に必要かどうか、で考えればいいってこと?」
『そうです。今の自分の生活に、これは必要ですか?という問いを持ちましょう』
今の自分の生活に、これは必要か?という問いを持つ
「うん、わかった」
『では、使っていないのに捨てられないものは、どれですか?』
めもすたの問いかけに、少し考えてから春香はしばらく保管の箱を指さす。
中には、何十本もペンが入っていた。ホテルのアメニティ、展示会でもらったノベルティ、可愛いからと衝動買いして数回しか使っていないカラーペン。
インクが出るかもわからないそれらが、箱の中でぎゅうぎゅうに詰まっていた。
『何年も使わなかったペンを、明日から急に使い始めますか?』
めもすたの問いは、鋭く、けれど優しかった。
ない。絶対にない。
この引き出しを開けるたびに「あぁ、こんなにあるのに使ってないな」という罪悪感だけを無意識に味わっていたのだ。そして、インクが切れて困ると結局使っていたものと同じのを買うので、引き出しの中のペンはずっと出番がない。
「……過去の執着と、未来の不安」
春香は呟き、ゴミ袋を手に取った。
そして、しばらく保管の箱の中のペンを掴むと、ゴミ袋の中へ落としていった。
「ありがとう、さようなら」
もらった時の嬉しかった気持ち。買った時のときめき。それだけを過去の思い出として受け取り、モノ自体は手放す。
”今の自分”が使っているものだけを残した引き出しは、驚くほどスッキリとして、開け閉めも軽くなった。
「……すごい」
春香は、少ししか入っていない引き出しの中の文房具を見て、ふうっと大きく息を吐いた。
いざ使おうとすると探すのに時間がかかっていたのに、一目で使いたいものが手に取れる。
過去でも未来でもなく、今の自分を基準にする。
このことが、春香にはとても大切に思えた。
*
「ねえ、めもすた」
『はい』
「藤北さんのお部屋にも、こういうものがあるよね、きっと」
『きっとあります』
そこで、ピコン、と電子音が響いた。スマホの画面が明るくなる。
『今届いた郵便物を分けました』
『チラシ5枚で、全て紙袋行きでした』
『今日は時間があったので、明らかにゴミであるペットボトルを捨てました』
画面に並ぶ、真面目なメッセージ。
送り主は「藤北律」となっている。
ちゃんと実践してくれたこと、わざわざ報告してくれたこと、更に自ら不要と思ったものを捨てたこと。その事実が、なんだかとてもくすぐったかった。
『お疲れ様です。その調子です!』
『ペットボトル、すごいチャレンジです!ただ無理されないでくださいね』
送信ボタンを押すと、自分の心まで、引き出しのように軽くなっていることに気がついた。
春香から言われたからでなく、律も動きだしている、そう感じた。
「また一歩、一緒に進めるといいな」LINEの文にそっと触れた。
昨日更新できませんでした…ストック切れてます(;^_^A
第9話は、春香自身のステップアップ回でした!
土曜日の出張レッスンでヘトヘトになった春香ですが、めもすたの教えで自分の部屋の「もったいない」と向き合います。
もったいないの正体は、過去への執着と未来への不安。片付けの基準は常に「今の自分」であること。この基準でモノをみると、片付けの判断はしやすくなります♪
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