8.ゴミ出しデートと、光が差し込んだ部屋と、また来てほしいという言葉
宣言してしまった。
律の「よろしくお願いします」という言葉を受けながら、春香は内心ひやりとしていた。
絶対に、この部屋を帰ってきたくなる場所にしますから。
大きいことを言った。本当にできるかは正直分からない。でも——言いたかった、それは本当だ。
「それで、どこから始めましょうか。やっぱり、まずはこのテーブルの上のものから一気に……」
律が重いため息をつきながら、テーブルの上の「地層」に手を伸ばそうとする。
その顔には、「やりたくない」「面倒だ」というありありとした疲労の色が浮かんでいた。激務で判断エネルギーが枯渇している彼にとって、過去の書類の山に手をつけるのは、あまりにもハードルが高すぎる。
ちょっと前の自分と、まったく同じだ。
春香はそう思いながら、律を止めた。
「藤北さん。今あるその山には、触れなくていいです」
「……え?」
律が、拍子抜けしたような顔で春香を見た。
「触らない? でも、これが一番邪魔で……」
「一気にやろうとすると、途中で疲れて嫌になっちゃいますから。今日、藤北さんにやっていただくのは、もうすでにあるモノを片付けることじゃありません」
春香は、バッグの中でこっそりと見守ってくれているめもすたの言葉を思い出しながら、ゆっくりと伝えた。
「これ以上、山を積み上げないこと、です。
ちなみに、今日の郵便物ってどこにありますか?」
「…今日はポストを見ていませんね」
そう言われてズコっとこけそうになった。
たしかに休日の午前中にわざわざポストを見に行くことはあまりないかもしれない。
気を取り直して「じゃぁ見に行きましょう!」と提案した。
”今日届いた郵便物”がなければ、春香の片付けは始まらないのだ。
ゴミ出しがいつでも可能ということを聞き、ついでにとゴミ袋を持ってエレベーターに乗り込む。
藤北さんがちょっと持ちにくそうに3つとも持っていたので、1つ持つ。
”ゴミを仲良く持ってるなんて新婚さんみたい♪”と浮かれている場合ではないと分ってはいても心の中でにまにまが止まらない。
ゴミを出した後、ポストを確認する。
昨日一昨日と取らなかったそうで、チラシや封筒が溜まっていた。
部屋に持ち帰り、ダイニングテーブルに置こうとする藤北さんを
「重ねないでください」と慌てて制する。
きょとんとした彼に向かって
「今日片付けるのは、それなので」
手に持っている郵便物を指さした。
ますます?が浮かんでいそうな顔になった彼に続けて
「今日の郵便物だけ、今日のうちに処理する。まずその習慣から始めます。もう出来てしまっている状態を片付けるより、荷物を増やさない方が先なんです」
「……理由を聞いてもいいですか」
「今日届いたものは、処理しやすいんです。判断に必要なエネルギーが、古いものとは全然違います」
律が静かにうなずいた。
「あと」と春香は続けた。「後回しにすると、二度手間になります。今やる方が、絶対にお得なんです」
「……仕事でも、同じですね」
春香は驚いた。一度聞いただけで、自分の経験に当てはめて理解している。
「そうです。全部、同じです」
春香は、持参したトートバッグから紙袋と空のファイルボックス二つを取り出し、床の空いていたスペースに並べた。そして、持参したふせんを貼り付ける。
「書類の行き先は三つだけです。一つ目は、いらない紙を入れる『捨てる(紙袋)』。二つ目は、絶対に取っておく『重要書類』。そして三つ目が……『しばらく保管』です」
「しばらく、保管……?」
律が不思議そうにふせんの文字を読んだ。
「はい。今すぐ捨てる勇気はないけど、ずっと取っておくほどでもないもの。迷ったら、全部この『しばらく保管』に入れていいんです。捨てるか残すかの二択だと手が止まっちゃいますから。完璧に決めなくていいんです」
「……そんな、中途半端でいいんですか?」
「いいんです! じゃあ、さっそくやってみましょう!」
*
すると律は確認をすることもせず、チラシを全て紙袋の”捨てる”へ入れる。
思い切りがよすぎて、思わず「確認しなくてもいいんですか」と聞いてしまった。
「必要な情報は自分で取りにいきますから」
確かにこの数日間、春香が取って置いたチラシはほんの数枚だ。しかも重要書類は一枚もなく、多分見ないだろうなと思いつつ一応”しばらく保管”に入れた感じだ。
…流石仕事ができる人は違う……見習おう、と春香は思った。
残った封書は3通。
1通目。律が封を切って、中身を取り出す。不動産の案内だった。不要と判断し捨てるへ。
住所の表記がある封筒の処分に困っている様子だったので、破いてゴミ袋に入れることを伝える。
2通目。クレジットカードの明細だった。金額を確認して、律の目が少し止まった。
「使った記憶がないものが入っているような……」
「気になるなら、ちゃんと確認した方がいいです。後でまとめてやろうとすると、二度手間になるので」
律がその場でカード会社のアプリを開いて確認した。一分ほどで「問題なかったです」と言った。
「じゃあ捨てて大丈夫です。個人情報の塊なのでこれも破いてゴミ袋行きです」
律が明細をビリビリと破いた。紙が裂ける、乾いた音が薄暗い部屋に響いた。
3通目。区からの健康診断の案内だった。
「会社の健康診断を受けるので、不要ですね」
中身を紙袋に入れ、封筒は破く。
「終わりましたね」
そう春香が声をかけると、
「あっけないですね」と律が答えた。
「そう、あっけないんです」
律の口元が、わずかにゆるんだ。春香も、少しだけ笑った。
それが今日初めての、二人の間の笑いだった。
*
律がダイニングテーブルの山を見た。そして静かに言った。
「こんなに来ていたのか」
「え?」
「郵便物。毎日ポストから取り出してはいたんですが、中を開けるのが面倒になった期間があって。それでもたいして困らなかったんで、どんどん積み上げてて。いつの間にかこんな状態になっていたんです」
その言葉が、春香の胸に落ちた。
「見るのが怖くなるんですよね」
口から出た言葉は、自分の体験から出てきた言葉だった。
「開けようとするたびに、何が入っているかわからない不安とか、対応しなきゃいけないことがあったらどうしようとか、そういう気持ちが先に来て。だから見ないようにする。それが積み重なって山になる。そうすると余計に見たくなくなる」
春香の言葉に、律が顔を上げた。
いつも涼しげな目が、少しだけ見開かれている。
「……緑野さんも、ですか?」
しまった、と春香は内心で焦った。
片付けのプロを名乗っているのに、片付けられない人間の心理に共感しすぎた。
「あ、ええと……! ……以前は私も片付け苦手だったんです。だから、よくわかるんです」
つい先日のことを”以前”とだいぶ前のように誤魔化して答える。
律は「そうですか」と言って、また山を見た。
「こうなったのは、自分がだらしないからだと思っていました」
「違います」と春香は言った。「毎日仕事で判断して、帰ってきたときには脳が疲れ切っちゃってるんです。そういう状態だと、『後で』って先送りをしたくなっちゃうんですよ。だらしないんじゃなくて、脳が自分を守ろうとしているんです」
律が黙った。
長い沈黙だった。春香は余分なことを言わずに、待った。
「……そんなふうに考えたことは、なかった」
律の声は、いつもより低かった。独り言みたいな言い方だった。
*
「少し、カーテンを開けてもいいですか」
春香は言った。
「どうぞ」
春香は窓に近づいた。厚い遮光カーテンに手をかけて、引く。
ざ、という布の音がして、光が入ってきた。
土曜日の昼前の光が、薄暗かった部屋に差し込んだ。
全部が、よりはっきりと見えた。散らかりも、埃も。でも——光の中の部屋は、暗いときより少しだけ、息がしやすかった。
「……明るいですね」
律が、光の中で部屋を見渡しながら言った。当たり前のことを言っているのに、その声には少しだけ驚きが混じっていた。
「いつも閉めているんですか」
「ええ、開けようと思ったことが、あまりなかったです」
春香は光の中に立って、部屋を見た。
散らかっている。でも、この部屋には窓がある。光が入る。それだけで、全然違う。
彼には”わたしはラッキーな人間だ”という魔法の言葉も、”できた”という自分を認める言葉もまだ早い気がした。
だから今回は伝えないでおこう。
*
「今日はここまでにしましょうか」
春香が言うと、律が「これは片付けなくていいんですか」とテーブルに積み重なっている書類を指した。
「今日の分は終わりました。最初に言った通り焦って全部やろうとすると、続かなくなりますよ」
「……わかりました」
律は引き下がった。完璧主義の律にとって、「今日はここまで」という区切りは、どこか物足りないかもしれない。でも素直に従った。
「まずは一週間、今日届いたものを、今日のうちにやる習慣をつけましょう」
よし、初日のレッスンとしては完璧だ。
春香はホッと胸をなでおろし、腕時計を見た。
長居して彼を疲れさせてもいけない。今日は「できた」という感覚だけを残して帰るのがベストだ。
「ではまた」と締めようとすると
「えっ、もう……ですか?」
律が、少しだけ名残惜しそうな声を出した。
「はい! じゃあ、私はこれで……」
春香は明るく笑い、自分のトートバッグを肩にかけた。
駅まで送っていくという律の言葉に「せっかくの休日なので、ゆっくりお休みしてください」と断り、玄関に向かって歩き出した春香の背中に、律の声がかけられた。
「あの、緑野さん」
「はい?」
春香が振り返ると、律は玄関の薄暗い照明の下で、少しだけ居心地が悪そうに視線を彷徨わせていた。
そして、会社で聞くような理路整然としたトーンではなく、どこか心細さを滲ませた、少しだけ柔らかい声で言った。
「……また、来てもらえますか?」
ドクン。
春香の心臓が、大きく跳ねた。
「……はい! もちろんです!」
笑顔でそう返し、春香は律のマンションを後にした。
重厚なガラス扉が閉まり、外の眩しい陽光に包まれた瞬間、春香はその場にしゃがみ込みそうになるのを必死でこらえた。
「ま、また来てもらえますか、だって……!」
バッグの中で、めもすたが嬉しそうに揺れた気がした。
ついに二人の初めての「共同作業」です!
ゴミ出しで新婚さんのような気分になってしまう春香と、「だらしないわけじゃない」という言葉に救われた律。
少し、閉ざされていた彼の部屋(心)に光が差し込み始めました。
次回は第9話。
「今日の郵便物」の処理を覚えた律は、一週間この習慣を続けられるのでしょうか?
そして、次なるステップへ……!
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