7.完璧エリートの汚部屋潜入! 嘘つきアドバイザー、本気で彼を救うと決める
ピンポーン、という電子音の後、少しだけ間があった。
『……はい』
「あ、あの! み、緑野です。今日はよろしくお願いします」
インターホン越しに聞こえた低い声に、少し上ずった声で答える。
『……お待ちしていました。どうぞ』
ガチャ、という電子音とともに、ガラス扉がスライドして開いた。
春香は小さく息を吐き、足を踏み入れた。
*
静かで滑らかなエレベーターが、律の住む階に到着する。
指定された部屋番号の前。
もう一度、深呼吸をする。
ピンポーン。
玄関チャイムを鳴らすと、すぐにドアの向こうで足音がして、ガチャリと扉が開いた。
「いらっしゃい、緑野さん。休みの日にわざわざすみません」
「あ、本日はよろしくお願いし……っ」
挨拶を返そうとした春香の言葉は、途中で見事に詰まった。
ドアの隙間から顔を出した人物を見て、春香は思わず目を丸くしてしまった。
そこに立っていたのは、確かに藤北律だった。
しかし、春香が見たことがある「藤北律」とは、まるで別人のようだった。
いつもシワひとつないスーツを着こなしている彼が、首元の少しヨレたグレーのTシャツに、スウェットパンツという姿だったからだ。
普段は綺麗にセットされ上げている黒髪は、下ろしているせいでいつもより若く見えた。けれど顔色はどこか冴えなく、目の下にはうっすらと疲労の影が浮かんでいる。
固まった春香に、律は自分の恰好を見直し、
「ああ……すみません。こんな格好で。家では、いつもこんな感じなんで」
律は少しバツが悪そうに、頭をかいた。
完璧なエリートの、完全なるオフの姿。
それは、驚くほど隙だらけで、どこか無防備に見えた。
そんな誰も知らないであろう姿を見ることができた喜びと、異性としては全く意識されていないであろうことを悟って嬉しさ半分悲しさ半分といったところ。
「い、いえ! 全然! むしろ、お休みの日に押しかけちゃってすみません……」
下心を隠しつつ、慌てて答える。
「とんでもないです。どうぞ、入ってください。……ただ、本当に足の踏み場もないので、気をつけてくださいね」
律がドアを大きく開け、春香を中へと促した。
春香は「お邪魔します」と一礼し、玄関に足を踏み入れる。
その瞬間、春香は部屋の空気が重いことに気がついた。
漂う埃と生活の匂い。何か食べ物の匂いと、長い間窓を開けていない部屋の、重たい停滞した空気。春香の部屋にも似た匂いがあった。でも種類が少し違う。もっと密度が高い感じがする。
「散らかっていて、すみません」
律が静かに言った。
「いえ」と春香は答えながら、部屋の奥を見た。
*
そして、春香は息を飲んだ。
外はよく晴れた土曜日の午前中だというのに、電気のみの明るさのせいで部屋の中は薄暗かった。
窓の遮光カーテンが、分厚く閉ざされたままになっているのだ。
そして暗い部屋の中に広がっていたのは、見事なまでの散らかりっぷりだった。
高級そうなウォールナットのダイニングテーブルの上には、開封すらされていない郵便物の封筒が、いくつものタワーを作っている。
床には、書類の山や本の山がいくつもある。背の高い収納棚が壁にいくつもあり圧迫感がすごい。その前には何段も積み重なっている段ボールの山。
ぎゅうぎゅうに押し込まれている本棚の前には入り切らなかった本が山になっている。
ソファにはクリーニングの袋がかかったままのスーツやYシャツが何枚も重なっていた。
更にコンビニ弁当の空き容器が詰め込まれた半透明のゴミ袋が、部屋の隅に3つほどあった。
彼は無造作に、足元あった書類の山を脇へよけ、春香が立つためのスペースを作った。
「言ったでしょう。人を呼べる状態じゃないって」
律は、自嘲するように、乾いた声で言った。
*
春香はショックを受けていた。
ただ単に「散らかっている」のとは違う。春香の部屋の散らかり方は「疲れて後回しにした結果」だった。
でも、この部屋は違う。
ここは、「生活すること」そのものを手放してしまっている痕跡のように見えた。
うまく言葉にできない。でも、確かにそう感じた。
「どこから見ても、ひどい状態ですよね。でも、これでもちょっとは片付けたんです」
その結果が部屋に積んであるゴミ袋なのであろう。
「どうせ俺なんて、仕事に行くために最低限動ければそれでいいんです。休みの日は寝てるだけだし……そんな生活を続けていたら何から手をつけたらいいのかわからなくなってて」
律のその諦めきった声に、春香の胸の奥が、チクリと痛んだ。
——『俺は、仕事の周りだけは整えてないと落ち着かないんです』
——『武装みたいなものです』
飲み会の席での彼の言葉がフラッシュバックする。
仕事の自分だけを完璧に保ち、それ以外の自分を切り捨てている。
他人の期待に応えるために無理をして明るく振る舞っていた春香とは違うベクトルで、彼もまた、自分自身をすり減らしているのだ。
『……春香さん』
その時、春香のトートバッグの中から、めもすたの静かな声が響いた。(もちろん、律には聞こえていない)
『この部屋の景色は、彼が自分をどう扱っているかの答えです』
彼が自分をどう扱っているかの答え。
春香は、その言葉をじっくりと噛み締めた。
完璧な鎧を脱いだ彼が、これほどまでに不器用で、自分を休ませる場所を持っていなかったなんて。
私と似ていて、でも似ていない彼が、こんな生活を続けていることが悲しかった。
ここから抜け出す力になりたい、そう思う。
春香は、バッグの持ち手をギュッと握りしめ、律の目を真っ直ぐに見据えた。
もう、嘘がバレるのが怖いとか、プロらしく振る舞わなきゃとか、そういうのはどうでもよかった。
「藤北さん」
「……はい」
「今日から、一緒に片付けましょう。絶対に、この部屋を帰ってきたくなる場所にしますから!」
春香の力強い宣言に、律は少しだけ目を丸くし、やがて、わずかに目元を和らげた。
「……よろしくお願いします」
二人の片付けが、ここから始まる。
ついに律の部屋へ!
完璧な仕事ぶりの裏で、自分自身の生活を完全に放棄していた律。
その痛々しいほどの「落差」を目の当たりにした春香は、ただの「嘘つき」から、彼を救うための「伴走者」へと意識を変えます。
次回はいよいよ、あの「毎日行う習慣」を律の部屋で実践します!
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