6.「どうぞ」と言える部屋。私がずっと欲しかった景色と、一枚の魔法の絵
棚の上も、玄関も、散らかっている紙は見当たらない。
「……なんか、部屋の空気が違う」
床にはまだ脱ぎ捨てた服があるし、部屋のあちこちには物が積みあがっていて、クローゼットの中は混沌としている。完璧には程遠い。それでも、紙が発していた「未処理のノイズ」が消えただけで、呼吸がしやすくなった。
『お疲れ様でした、春香さん』
ローテーブルの上で、めもすたがパチパチと短い手を叩いた。
「うん! なんか、片付けってすごいかも。あんな状態だった私でも、一週間ちょいでここまでできるようになったんだもん」
『実は、書類の片付けというのは、一番頭を使う難しいステップなんです』
「えっ、そうなの? 最初だったから、てっきり一番簡単な基礎なのかと……」
『基礎であり、最難関です。なぜなら、一枚一枚の紙に「情報」が詰まっていて、捨てるかどうかの判断エネルギーが一番高いからです』
めもすたは、春香の顔を真っ直ぐに見つめた。
『だからこそ、書類を片付けられるようになれば、あとはすべて応用でできるんです。服やずっと取ってあるものも、この判断力の応用でしかありません』
「すべて応用……! じゃあ、私、この部屋全部綺麗にできるってこと!?
次は何をするの。服?食器?」
『その前に、一つやってほしいことがあります』
「何?」
『ゴールを作ること、です』
春香が小首を傾げた。
『片付けは、ただ不要なものを捨てるという作業を続けるだけでは、いつか息切れしてしまいます。マラソンと同じで、目指すゴールを設定しないと、どこに向かって走っているのか分からないからです』
「目指す、ゴール……理想の部屋、ってこと?」
『はい。今夜は、春香さんの理想の部屋を教えてください』
春香は少し考えた。
「理想の部屋、か……。考えたことなかったなー」
『今まで「片付けなきゃ」とは思っていましたか?』
「毎日思ってた」
『「こういう部屋にしたい」とは?』
「……思ってなかった」
めもすたが静かにうなずいた。
『なきゃいけない、は義務です。したい、は願いです。義務は疲れますが、願いは力になります』
春香はテーブルの上に視線を落とした。何もないローテーブル。
ここを片付けようと思ったのは、めもすたに言われたからだ。藤北の部屋に行く前に少しでも学んでおきたかったからだ。でも「こういうテーブルにしたい」と思ったことは——あっただろうか。
「……わからない。どうやって考えればいい?」
『目を閉じてみてください』
春香はめもすたを見た。「目を閉じる?」
『はい。仕事から帰ってきた夜を、想像してみてください。玄関のドアを開けた瞬間から』
春香は少しためらってから、目を閉じた。
*
どんな部屋に、帰りたいか。
暗い視界の中で、春香は想像する。
疲れた体でドアを開ける。その瞬間——何かが、鼻に届く。
「……なんか、いい匂いがする」
『どんな匂いですか?』
「柑橘系の、アロマみたいな。オレンジとか、そういう感じの」
ふわりとした香りが、頭の中に広がる。「おかえり」と言われているみたいな、そんな匂い。
『玄関はどうですか』
「靴が、散らかってない。ちゃんと揃ってる」
パンプスを脱いで、揃えて置く。それだけのことが、なぜか気持ちいい。
ぽつり、ぽつりと、春香は頭の中に浮かんだ景色を言葉にし始めた。
「床に物が落ちてない。物の間を縫わなくで歩ける」
『進むと?』
「ソファが……見える。その上にはーー」
春香の口が、少しずつ笑んでいく。
「服が置いてない。雑誌も置いてない。でも——くしゃっと丸めたブランケットが一枚だけある」
『それは、なぜですか?』
「完璧に整いすぎていると、なんか落ち着かないから。畳んでないものがあった方が、自分の部屋って感じがして」
春香は続ける。
「カバンを、定位置に置く。そういう場所がある。どこに置くか迷わない」
『床は?』
「ラグが、気持ちいい。ふわふわした手触りのいいやつ。その上に、ペタンと座り込む」
春香はイメージの中で、ラグの上に座った。
「ローテーブルの上には、何もない」
言いながら、目の前の本物のテーブルを思い浮かべた。
今のテーブルの状態と、同じだ。
『そこにいると、どんな気持ちですか?』
春香は少し間を置いた。
「……外で張り詰めていたものが、するりと解けていく感じ。誰の目も気にしなくていい。素顔のままでいられる」
声が、少しだけ湿った。
「一番安全な場所、みたいな感じがする」
めもすたが『はい』と、静かに優しい相槌を打つ。
『もう一つ、聞いていいですか』
「うん」
『その部屋に、誰かが突然来たとしたら』
春香が、少し息を飲む。
「……慌てない」
その言葉が出てきたとき、春香は自分でも驚いた。
「慌てない。どうぞ、って言える。そういう部屋がずっと欲しかった」
目の奥が、熱くなった。
二年前に去った人のことを思った。半年以上付き合っても、「どうぞ」と言えなかった。
言えなかった理由は、片付けのせいだけじゃない。でも片付けが、言えない理由の一つだったことは確かだ。
「どうぞ、って言える部屋」
もう一度、繰り返した。
「それが……私が欲しい景色なのかもしれない」
*
『目を開けてください——ステキなお部屋ですね』
めもすたの声がした。
春香はゆっくりと目を開けた。
すると、春香の目の前で、信じられないことが起きていた。
めもすたの頭の銀色のリングが淡く光り、真っ白なメモ帳のページの一枚が、ふわりと自然に剥がれ落ちたのだ。
その一枚の紙は、空中で光の粒を帯びながら、少し大きくなり一枚の厚紙へと姿を変え、春香の前にひらりと落ちた。
「これ……!」
春香は息を呑んだ。
自分の前に落ちた画用紙。そこに描かれていたのは、水彩画のような温かいタッチの、部屋のイラストだった。
何も乗っていないローテーブル、ふわふわで柔らかそうなラグ、そしてソファの上には無造作に置かれた、一枚のブランケット。
部屋はスッキリと片付いており、奥にあるベッドは整えられている。
さっき、春香が目を閉じて思い描いた『理想の部屋』が、そのまま形になっていた。
『ゴールが見えれば、人は必ずそこへ向かって歩き出せます』
「めもすた……ありがとう。私、絶対この部屋にする」
春香は、そのイラストを大切に持った。部屋を見回す。どこに貼ろう。ソファから見える場所がいい。帰ってきたときに目に入る場所がいい。
春香は壁の一角に向かった。帰宅して部屋に入った瞬間、視界に入る場所だ。引き出しからマスキングテープを探し出して、四隅に小さく切って貼る。
そして、部屋のどこからでも目に入る壁に、貼り付けた。一歩下がって、見る。
白い壁に、小さな絵が貼ってある。
春香の理想の部屋が、今、自分の部屋の壁にある。
めもすたが静かに言った。
『春香さん。書類の整理を始めたとき、テーブルの山がなくなると思っていましたか?』
春香は少し考えた。
「……思ってなかった。どうせ無理、と思ってた」
『でも、なくなりました』
「……そうだね」
『壁のあの部屋も、同じです』
春香は絵を見た。
白い壁に貼られた、小さな絵。
柑橘系のアロマの香りがしそうな部屋。
ブランケットが一枚だけ乗ったソファ。
どうぞ、と言える場所。
「うん——なんか、なれる気がする」
まだ遠い。全然遠い。でも——方向は見えた。
春香は、壁のイラストに向けて、微笑んだ。
*
翌朝。
土曜日の朝日は、容赦なく春香の部屋を照らし出していた。
「……うぅ」
春香はベッドの端に座り、両手で胃のあたりを押さえた。
昨日までの「できた」という達成感はどこへやら、胃の奥が痛い。
今日は、藤北律の部屋に行く日。
あの憧れの人のプライベートな領域に踏み込む日。
しかも、「片付けを副業にしようとしているプロの卵」という、とんでもない大嘘を抱えたままで。
「私はラッキーな人間だ……ラッキーな人間だ……」
念仏のように唱えてみるが、今日ばかりは魔法の言葉も効き目が薄い。
心臓がドッドッドッと嫌なリズムで鳴っている。手のひらは冷たくて、じっとりとした汗をかいていた。
『おはようございます、春香さん。緊張していますね』
テーブルの上から、めもすたの声がした。
今朝はメモ帳のままではなく、朝から動いているらしい。
「おはよう、めもすた。……やっぱり私には無理かもしれない。プロみたいな顔して行って、ボロが出たら……嫌われちゃうよ……っ」
めもすたは、ふわりと宙に浮き、ベッドに座る春香の膝にそっと降り立った。
『春香さん、壁のイラストを見てください』
言われるままに顔を上げると、昨日貼った「理想の部屋」のイラストが目に入った。
『春香さんはこの数日で、あのイラストに向かって一歩を踏み出しました。
プロのフリなんて、しなくていいんです。あなたが体験したことひとつひとつを、藤北さんに伝えてあげてください』
めもすたの言葉が、春香の胸の奥に、小さな灯りをともす。
そうだ。私はプロじゃない。
でも、あの巨大な書類の山を消した感動は、紛れもない本物だ。
「……うん」
春香は、小さく頷いた。
洗面台の鏡の前に立つ。
コンシーラーでクマを隠し、明るいコーラルピンクのチークを乗せる。
服は、清潔感のある白のブラウスと、動きやすいネイビーのテーパードパンツを選んだ。
「行こう……めもすた、今日はカバンの中で見守っててね」
『はい。ずっとそばにいますよ』
春香は、めもすたをそっとトートバッグの内ポケットにしまい、重い鉄の扉を開けた。
*
電車に揺られること三十分。
都心に近い、マンションが立ち並ぶ住宅街。
スマホの地図アプリが示す目的地に着いた春香は、その建物を前にしてゴクリと息を呑んだ。
黒を基調とした、スタイリッシュな高級デザイナーズマンション。
ここに、あの藤北律が住んでいる。
春香は自動ドアを抜け、シルバーに輝くオートロックの操作盤の前に立った。
鏡のように磨き上げられたパネルに、ガチガチに緊張した自分の顔が映っている。
部屋番号は、聞いてある。
あとは、テンキーの数字を押して、呼び出しボタンを押すだけ。
——『俺は、家では全然ちゃんとしてないんです。部屋、ひどいです』
飲み会で彼がこぼした言葉が蘇る。
助けになりたい、と思う。
一歩進んだ自分なら、なにか力になれるじゃないかと思う。
指先が、冷たい。
ボタンまで、あと数センチが、とてつもなく遠い。
『大丈夫です。春香さん』
バッグの中から、めもすたの声がした気がした。
春香は目を閉じ、ゆっくりと、深く息を吸い込んだ。肺の底まで空気を満たし、そして、ゆっくりと吐き出す。
目を開けた春香は、もう迷わなかった。
部屋番号を押し、「呼出」ボタンをしっかりと押し込んだ。
春香の緊張感が伝わってきたでしょうか。
そして次回は律の部屋に突入です!
扉の向こうで春香を待ち受けていた、藤北律の「本当の姿」とは……?
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