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汚部屋女子が、片付けのプロのフリをして好きな人の部屋を片付けた話  作者: 鈴澤ゆき(めもすた)


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5/13

5.嘘から始まった片付けレッスン前夜。私が手に入れた「体験」という本物の武器

カタカタカタ、タンッ。


 オフィスに響く、キーボードを叩く音。複合機がウィーンと唸りながら紙を吐き出し、どこかで電話のコール音が鳴っている。

 Webマーケティング会社「ブライトループ」の営業企画部で、春香はパソコンの画面とにらめっこしていた。


「あ、緑野さん。ごめん、この前の会議の議事録のデータ、後でチャットに投げといてくれる?」

通りすがりに、別部署の先輩から声がかかる。


「あっ、はい! わかりましたー!」

春香はいつもの「明るく気の利くアシスタント」の笑顔で即答した。

 議事録のデータはすでに手元のフォルダにある。探して添付して送るだけ。時間にして、三分もかからない簡単な作業だ。


——『キリのいいところまでこの資料を作っちゃいたいから、送信は後でまとめてやろう』。


いつもの春香なら、間違いなくそう判断していた。


 五分で終わる用事、三分で返せるチャット。そういう「軽いもの」ほど、わざわざ今の作業を止めてまでやる必要はない。後でまとめてパパッとやった方が効率がいい。そう信じて疑わなかった。


しかし、マウスに手をかけた瞬間、春香の脳裏に、あの十センチの小さな案内人の穏やかな声が蘇った。


『軽いものほど、後回しにしてしまいがちですから』

一昨日、たった一分で郵便物の処理が終わった時にめもすたが言った言葉だ。


『後回しにすると、必ず二度手間になります。思い出すたびに脳のエネルギーが使われて、いざやるときにもう一度内容を確認する。時間もエネルギーも、今やるより多くかかります』


春香はハッとして、マウスを握り直した。


 そうだ。「後でチャットに投げる」と決めた瞬間、私の脳の片隅には【議事録を送る】というタスクの付箋がペタリと貼られることになる。


 それは、テーブルの上に置かれた未開封の封筒と同じ。


 目に見えなくても、確実に「やらなきゃ」というノイズを発し続け、夕方に向けて私の脳のエネルギーをじわじわと奪っていくのだ。


「……今、やっちゃおう」

春香は作成中の資料から一度目を離し、チャットツールを開いた。


 該当のデータを選び、ドラッグ&ドロップ。『お疲れ様です。先日の議事録データを送付いたします』と一文だけ添えて、送信ボタンをタンッと押す。


かかった時間は、わずか二分。思っていたよりも短い時間でできた。

たったそれだけのことなのに、頭の中から「やらなきゃいけないこと」が一つ、ふっと消えてなくなるのを感じた。


「なんか……頭が軽い」


春香はその日、同じことを何度も試した。


 一言で返せるメールは、読んだその瞬間に返す。すぐ終わる交通費の精算は、後回しにせずその場で入力する。軽いものを、溜めない。


すると、どうだろう。


 いつもなら「ガス欠」を起こして、判断力が泥のように濁る夕方。

「あれ……? 私、まだ全然元気だ」

 春香はパソコンの画面を見つめながら、小さく呟いた。


「春香ちゃん、なんか今日、顔色いいね」


隣の席の先輩、桐山朱里きりやまあかりが、コーヒーの入ったマグカップを片手に不思議そうに覗き込んできた。さばさばした姉御肌の大好きな先輩だ。


「いつもこの時間になると、魂抜けたみたいな顔してディスプレイ睨んでるのに。なんかいいことあった?」

「えっ! 魂抜けてましたか、私!?」

「抜けてた抜けてた。でも今日は、なんかスッキリしてるっていうか、余裕がある感じがする」


余裕。


 その言葉に、春香は大きく頷きたくなった。


テーブルの上の紙も、仕事の小さなタスクも、同じだったんだ。

一枚一枚は軽くても、それが積み重なると「未処理のノイズ」という重たい鉛に変わって、私の脳を押し潰していた。


 そのノイズがないだけで、夕方の空気がこんなにも澄んで感じられるなんて。


「朱里先輩、私、今日は定時で上がります!」

「おっ、いいね、また明日!」



 会社を定時で出た春香が向かったのは、駅前の大型100円ショップだった。

明るい蛍光灯の下、所狭しと並ぶ色とりどりのプラスチック製品や日用品。


 重要書類を入れているダンボール箱のことが、朝からずっと頭にあった。あのダンボール、でかすぎる。書類が数枚入っているだけなのに、箱が大きすぎて場所を取っている。それに、ダンボールのままだと、なんとなくまだ「仮」な感じがして、落ち着かない。


 昨日めもすたが「まず一箇所にまとめることが先」と言っていた。それはできた。次は、もう少しちゃんとした形にしたい。自分でそう思った。誰かに言われたわけじゃなく、自分から。

 それが、なんか嬉しかった。


 文具コーナーに向かいながら、春香は「ファイル」を探した。ファイルといっても種類がたくさんある。

 どれがいいんだろう。全部同じに見えて、全部違う。

 棚の前でしばらく眺めて、春香は縦置きできるボックスファイルを手に取った。


「これだ」

 ポンポン入れられて、でも探すときに大変そうじゃない。 

重要書類は毎日出し入れしないが、縦置きで立てておけば、重なって底の方を探すことなく取り出しやすい。


ファイルボックスを持ち、レジへと向かう足取りは、いつになく軽かった。


ポストを確認する。今日は郵便物はなかった。

アパートのドアを開け、電気をつけると、今日もローテーブルの上で、銀色のリングを光らせためもすたが待っていた。


『おかえりなさい、春香さん。なんだか今日は、足音が弾んでいましたね』

「ただいま。今日は100円ショップ行ってきた!」

 めもすたがローテーブルの端でこちらを見ている。春香は袋からファイルを取り出して見せた。

『縦置きのボックスファイルですね』

「重要書類、ダンボールのままだとなんか仮っぽくて。ちゃんとしたのに移したくなったの」

『自分でそう思ったんですね』

「うん、そう」

言いながら、春香は重要書類段ボールから昨日入れた保険の封筒を取り出し、それをファイルに立てて入れる。

「……全然違う」

ちゃんと重要書類な気がする。


「昨日作ったばかりだけど、この段ボールどうしよう」

『捨てていいですよ。もう役目を果たしました』

いつもだったら”せっかく作ったのにもったいない”と思ってなかなか潰せないところを、あっさりと不要だと思い、段ボールを畳む。

そして、資源回収の紙袋の横に立てかけた。次の資源回収の日に出そう。


『しばらく保管のダンボールは、どうします?』

「んーなんとなく、これからいっぱい入れそうだから、今のところ段ボールのままでいいかなって」

『そうですか』めもすたは頷いた。

  *

「今日は郵便物がなかったんだけど…」

ローテーブルの上の「地層」に目を向ける。


「ねえ、めもすた。あの山、そろそろ触った方がいい気がする」

 テーブルの上の書類の山を指差しながら、春香は言った。

ずっと山が気になっていた。ここ三日で、山を増やさない習慣はできた。でも山は、まだそのままだ。約束の日まであと九日。律の部屋に行く前に、書類整理についてもう少し体で知っておきたい。


『触ってみましょうか』とめもすたが言った。

「え、いいの? 急に許可が出た」

『やらなきゃいけないという気持ちでなく、自分でやりたいという気持ちが出てきたからです。仕組みも整ってきましたし、今ならできます』


 春香は山の前に立った。何ヶ月分の「後で」が積み重なっているんだろう。

「どこから触ればいいの」

『一番上から、一枚ずつです』

 一枚手に取る。ネットスーパーのチラシ。迷わず資源回収の紙袋へ。

 次の一枚。何かのイベントの案内。日付を確認すると、もう終わっていた。資源回収の紙袋へ。

 次の一枚。音楽教室の案内。紙袋へ。

 次の一枚。封筒。開けると、不動産の案内。紙袋へ。

 次の一枚。またチラシ。紙袋へ。

 次の一枚。水道代の明細。確認して、問題なし。住所があるので破いてゴミ箱へ。


 春香は手を動かしながら、めもすたに聞いた。

「古い書類って、判断しにくいって言ってたじゃない。でも今やってみたら、思ったより簡単な気がする」

『やり始めれば簡単だということは、何にでも通じることです。最初の一歩が一番大変で、やってみれば大したことないということは結構あるんですよ』

「ふぅん…………あ、これも紙ゴミだ。ほとんどが、紙ゴミっぽい…」

『山のままにしていても困らないということは、基本的にそこにあるものはほぼ不要なものなんです』

たしかにこの山の中から書類を探した記憶はあまりない。

思ったよりも時間がかからず、20枚ほど(厚さにして1センチぐらい)が処理できた。


「なんか……山が低くなった」

『そうですね』

「今まで、こんな感覚なかったよ。ずっと山を見て、どうせ無理って思ってた」

  *

翌日の金曜日の夜は、疲れきっていてその日ポストに入っていたものしか分別できなかった。


そして土曜日。会社が休みなので絶好の片付け日和だ。

チラシや、期限切れのお知らせは資源回収の紙袋へ、保険や契約関係のものは重要書類ファイルへ、すぐ判断できないものはしばらく保管のダンボールへ。

どんどん山が小さくなっていく。


下に行くほど古い。一年以上前のチラシが出てきたときは、思わず笑ってしまった。なぜこんなものをずっと取っておいたのか。判断なんて一秒もかからない。全部、資源回収の紙袋へ。


 テーブルの山が、ついに消えた。

 何もないテーブルを前に、春香はしばらく動けなかった。


「……テーブルの上、なにもない」

 声に出したら、涙が出そうになった。泣くほどのことじゃない。ただのテーブルだ。でも何ヶ月も——いや、もっとかもしれない——ずっとそこにあった山が、今はない。


 めもすたが静かに言った。

『何を感じていますか?』

「……広い。あと、なんか、信じられない感じ」


『いいですね。ちょっと休憩しましょうか』


春香はコーヒーを淹れて、ゆっくりする。

何もないテーブルの上にカップが置ける。

くつろげる場所が一つできた。


  *

 日曜日、春香は次の場所に取り掛かることにした。テーブルの次は、棚の上だ。

 棚の上にも書類が積んであった。テーブルほどではないけれど、いつのものかわからない紙が重なっている。それに、書類じゃないものも混ざっていた。使い切ったボールペン、どこのものかわからないネジ、何かの保証書、小銭、充電ケーブル。


「書類じゃないものが混ざってる」

『今は書類だけ触りましょう。書類以外のものは、一ヵ所にまとめておきましょう』

「テーマを決めて動くってこと?」

『そうです。書類が終わったら、次の機会に別のものを。一度に全部やろうとすると、判断が鈍ります』


保証書が何枚か。電子機器の保証書はまだ有効なものがある。しばらく保管へ。期限切れのものは捨てる。

古い旅行のパンフレット、これは——しばらく保管、でもないな。捨てよう。

今度は玄関の棚を開けてみた。ここにも紙が入っていた。マンションに入居したときの書類、何かの領収書、地域で発行している広報誌の古いもの。これも三分類で処理した。


そういえば、とクローゼットの棚を開けると、紙袋に入ったまま放置されていた書類の束が出てきた。

「うわ、こんなとこにも」

 中を確認すると、昔の保険契約の書類、使っていない通帳や何故か取ってあるレシートなど。通帳は重要書類ボックスへ。昔の保険契約の書類は個人情報があるのでビリビリに破いてゴミ箱へ。レシートは古すぎて印字が消えているものすらあった。


家の中のあちこちに、「後でやろう」が眠っていた。


  *

月曜日になった。今週の土曜日は藤北さんとの約束の日だ。

今週中にもう少し片付けておきたい。


「めもすた……部屋のあちこちに、まだ紙がある」

『【はぐれ書類】たちですね。テーブルの山に合流しそびれた紙です』

「【はぐれ書類】って!スライムみたい(笑) でもたしかに隠れてて見つけにくいかも」

キッチンのカウンターの端に置かれたままのスーパーのレシート、ベッド脇のサイドテーブルに乗っている読みかけの雑誌とクーポン券、バッグの中に放置されていたショップカード、財布の中のレシートなど。

 約束の日までの残りの数日間、春香は帰宅するたびに、この「はぐれ書類の捕獲」を続けた。

以前は風景になっていて気が付かなった、あちらこちらにある紙が気になって仕方ない。


 目についた紙を見つけては、三つの分類のどれかに分ける。

 キッチンのカウンターが片付いた。ベッド脇がすっきりした。

 

 そのたびに、「できた」と小さく声に出した。

そして、ついに約束の前日。金曜日の夜。

春香は部屋を見回した。


 テーブルの上は何もない。棚の上も、玄関の棚も、クローゼットの中も、紙は入っていない。重要書類ファイルは、棚の端に縦に立っている。しばらく保管のダンボールは、壁際にある。資源回収の紙袋は、もう五袋目だ。


 部屋全体の書類が、整理できた。

 完璧ではない。床の服はまだある。その他いろいろと手をつけていないものもいっぱいだ。でも書類に関しては、今どこに何があるかが、初めてわかる状態になった。


「めもすた、藤北さんの部屋に行くの、まだ怖いけど」

『はい』

「でも、前よりは、ましな気がする」

 めもすたが静かに言った。

『以前聴きましたが、テーブルの山がなくなったとき、何を感じましたか?』

「広い、って思った。信じられない、って」

『その感覚を、藤北さんに伝えることができます。体験した人間の言葉は、違います』


春香は重要書類ファイルを見た。自分で買って、自分で作った場所だ。

 自分が体験したこと。

 それは、確かに本物で、嘘ではない。

「……よし。できた」

 春香はつぶやいた。

仕事中の「後回しの罠」からの脱却、ファイルボックスの購入。

そしてついに、長年放置されていた「ローテーブルの書類の山」が消滅しました!

さらに「はぐれ書類」も掃討し、自信をつけた春香。


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