4.完璧じゃなくていい「捨てる・重要書類・しばらく保管」の魔法の三分類
翌朝、春香はベッドの中でスマホを握りしめていた。
画面には、昨夜届いたままのLINEが表示されている。
【藤北律:お疲れ様です。モニターの件ですが、来週末の土曜日など、ご都合いかがでしょうか?】
返信していない。昨夜は動転しながら夕飯を食べシャワーを浴び、ベッドでどうしようとゴロゴロしていて気づいたら寝落ちていた。
来週の土曜日
指で数える。あと十日しかない。
「……私はラッキーな人間だ」
布団の中で、蚊の鳴くような声で言う。
全然ラッキーじゃない気がするけど、言わない選択肢はない。
大きく息を吸って、返信を打つ。
『土曜日、大丈夫です。よろしくお願いします』
送信。
もう取り消せない。
やばいやばいやばい、どうしよう…と頭の中がぐるぐるしているが、一方でなんとかなるんじゃないかという気もしてくる。
ちら、と今朝も普通の文房具にしか見えないメモ帳を見やり、会社に行く準備を始めた。
*
その夜、会社から帰ってきた春香がポストを開けると、今日は郵便物が多かった。チラシが三枚、封筒が三通。
「今日は多いなぁ」
玄関を開けながらつぶやく。
『おかえりなさい』めもすたの声がした。
ローテーブルの一番上に、銀色のリングが光っている。
「ただいま」と春香は答えた。
もう驚かない。十センチのメモ帳がしゃべることに、三日で慣れた。慣れてしまった自分が少し心配だけど、今はそれより郵便物の方が問題だ。
「昨日は一分で終わったけど、今日はこんなにある」
手の中の封筒とチラシを見せる。
『昨日と同じです。一つずつ確認して、処理する。それだけです』
「それはそうなんだけど」
春香はテーブルの前に立って、一枚ずつ確認し始めた。チラシ一枚目、いらない。チラシ二枚目、やっぱりいらない。チラシ三枚目、いらない。
三枚まとめて持って、春香はゴミ箱に入れようとして——ふと、手が止まった。
「ねえ、これって燃えるゴミに捨てていいのかな」
『どうしましたか?』
「紙ゴミってさ、資源回収に出せるじゃない。うちの地区、紙袋に入れて出せるんだよね。なんかゴミ箱にチラシ捨てるの、もったいないというか、ちょっと心苦しくて」
実は今まで、ずっとそれが引っかかっていた。捨てようとするたびに「資源回収に出した方がいいかも」と思って、かといって専用の場所を作るのも面倒で、結局「後で考えよう」と山の上に乗せてきた。
『それなら、紙ゴミ用の紙袋を一つ用意しましょう。資源回収の日にそのまま出せます』
「紙袋に紙ゴミを入れて、紙袋ごと回収に出す、か。……それ、いいかも」
春香は部屋の一角にある紙袋やら箱やら段ボールやらが捨てられずに置きっぱなしになっている所から丈夫そうな紙袋を一枚引っ張り出した。
「これでいっか」
『十分です』
チラシを三枚、紙袋の中に入れた。ゴミ箱に捨てるときの、あの微妙な罪悪感がない。なんだかすっきりした。
「これ、どこに置いとけばいいの?」
『そうですね、帰ってきてすぐ手が届く場所に』
玄関の横の床に、紙袋を立てた。ポストから郵便物を取ってきたら、いらない紙はここに入れる。ただそれだけの動線だ。
「……わかりやすい」
*
「じゃあ、封筒はどうするの。これ、全部取っておくべきなのかな。でも、そうすると結局またテーブルの上に置いちゃうことになって……」
『春香さん、そんな時は「三分類」の出番です』
『すぐに判断できなかった紙は、三つに分けます。一つ目はちゃんと確認してやっぱり「捨てる」。二つ目は「重要書類」。そして三つ目が、「しばらく保管」です』
「しばらく保管?」
『捨てるか、残すか。その二択だと、どちらにするか迷って手が止まりやすくなります。「いつか使うかも」という思いがブレーキをかけるからです。でも、「しばらく置いておける場所」があるとわかっていると、判断がぐっと楽になるんです』
「……とりあえず、避難させていいってこと?」
『そうです。今すぐ完璧に白黒つけなくていい。その「優しい逃げ場」が、判断を軽くしてくれます』
封筒三通を持って、春香はめもすたに向き直った。
*
「実際、どうやって分けるの」
『まず一通ずつ開けて、中身を確認してみてください』
一通目。通販の領収書。確認して、取って置く必要なしと判断。紙ごみではあるものの個人情報が多いのでビリビリに破いてゴミ箱へ。
二通目。春香の手が止まった。保険会社からだ。「重要」という赤い印字がある。開けてみると、更新の案内と約款が入っていた。
「これ……どうするの。更新は自動更新のままでいいから手続きはいらないけど、捨てるの怖いし、でもどこに置けばいいかわからないし」
『重要書類です。契約関係のもの、保険、税金、年末調整で必要になるもの。これらは取っておく必要があります』
「ファイルに分けなくていいの?」
『分けられる人はいいんですが、無理に細かく分類しようとすると、面倒になって手が止まります。まず重要書類を一箇所にまとめる。何か探すときも「ここを探せばある」と分かっていれば、それで十分です』
春香は「あ」と声を出した。「私、ファイルを買ってきて完璧に整理しようとして、途中で嫌になってやめちゃったことある」
『よくあることです』
「ちゃんとやろうとして、ちゃんとできなくて、もういいやってなるやつ」
『完璧にやろうとしなくていいです。まず、重要書類が一箇所にある状態を作ることが先です』
春香は部屋を見回した。先ほど紙袋を引っ張り出した所のそばに畳まず放置されていた段ボール箱がある。通販で何かを買ったときのものだ。中には緩衝材だけが入っていた。
「空だ。じゃあこれ、重要書類入れにする」
緩衝材を捨て、保険の封筒を段ボール箱の中に入れた。重要書類入れ、完成。あっけないほど簡単だった。
三通目。マンションのゴミ捨てルールの変更のお知らせだった。来月から燃えるゴミの曜日が変わるらしい。
「これは……捨てたら忘れそうだけど、ずっと取っておくほどでもないし」
『では”しばらく保管”です』
春香はまた部屋を見回した。別の段ボールを壁際から持ってくる。
「これ使おう」
中を確認する。空。よし。
油性ペンをごちゃごちゃに文房具が詰め込まれた引き出しの中から見つけ出し、段ボールの側面に、
しばらく保管
と大きく書いた。ついでにさっき保険の封筒を入れた段ボールに
重要書類
と書きこむ。
「……なんか、それっぽくなってきた」
『立派な仕組みです』
ゴミ捨てルールのお知らせを、しばらく保管の箱に入れた。来月になって曜日を覚えたら捨てればいい。そう思ったら、すごく気が楽になった。
「……終わった」
時計を見る。今日は途中で紙袋を探したり、段ボール箱を引っ張り出したり、油性ペンを探していたりしたから、十五分くらいかかった。
でも今日だけで、紙を分ける仕組みができた。
「めもすた、これって毎日この三つに分けるの?」
『今日届いたものを、この三つのどこかに入れる。それだけです』
「なんか、仕組みができたら急に簡単になった気がする」
『そうです。判断する基準が決まると、判断が楽になります』
春香はテーブルの上を見た。山は相変わらずそこにあるけれど、今日の紙は山に加わっていない。
「ねえ、めもすた」
『はい』
「この分け方、わかったんだけど……あの山の中にも、しばらく保管とか重要書類とか混ざってるわけじゃない。それはいつ片付けるの?」
めもすたは少し間を置いてから答えた。
『今日の習慣が続いてきたら、自然に手をつけられるようになります。今日は、もう十分です』
「そうなの?」
『焦らなくていいです。あなたはもう、山を増やすのをやめ始めています。それだけで、確実に変わっています』
春香はもう一度山を見た。
確かに、昨日も今日も、山は高くなっていない。山の成長が、止まっている。それだけのことなのに、なんだか不思議な達成感があった。
*
そのとき、スマホの通知音が鳴る。
画面を見た瞬間、春香の鼓動が少し跳ねた。
【藤北律:ありがとうございます。土曜日、楽しみにしています】
楽しみにしています。
あの律が、そんな言葉を送ってきた。
嬉しい、でも怖い、胸の中がごちゃごちゃになる。楽しみにされているほど、嘘がばれたとき、どうすればいいか分からない。
「めもすた」
『はい』
「来週の土曜日までに、私……何ができるようになってればいい?」
めもすたはしばらく黙ってから、静かに言った。
『今日のことを、続けるだけで十分です』
「それだけ?」
『あなたはもう、今日入ってきた紙は今日処理することと、三つの分け方を知っています。それを藤北さんに伝えることができます』
「でも私、プロじゃないし」
『自分が体験したことは、人に伝えられます』
春香は紙袋と段ボール二つを見た。捨てるの紙袋、しばらく保管の段ボール、重要書類の段ボール。今日の夜、自分で作ったものだ。
「一分で終わった」という昨日の驚き。
「しばらく保管」という逃げ道の存在。
「細かく分けなくていい」という許可。
全部、自分が感じたことだ。
「……そっか。自分の体験なら、話せるかもしれない」
春香はスマホを見た。「楽しみにしています」という文字が、まだ画面に残っている。
テーブルの上の山を、また見る。今日の紙は、山に乗っていない。
「できた」
そっと、つぶやく。
今日も、できた。
「しばらく保管」という優しい逃げ道と、ズボラでもOKな「重要書類のとりあえず投げ込み」。
春香の部屋に、少しずつ片付けの仕組みができあがってきました!
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