3.汚部屋女子、初めて『できた』と言えた夜
マンションのエントランスに足を踏み入れると、オートロックの扉の横にある集合ポストが目に入る。
ダイヤルを回して扉を開けると、そこには今日も「紙」が投函されていた。
「チラシが二枚と……クレジットカードの明細、かな」
春香は、それらを無造作に掴み出した。
ガチャリ、と自宅のドアを開ける。
「ただいまー……っと。……私はラッキーな人間だ!」
誰もいない暗い玄関で、少しだけ声を張って言ってみた。
朝、起きがけに言ったときと同じように、ちょっと照れくさいけどなんとなく嬉しい。
部屋の電気をつけると、ローテーブルの上には昨日と変わらない書類の雪山がそびえ立っている。
そして、その頂上には。
『おかえりなさい、春香さん。いい言葉ですね』
銀色のリングが鈍く光る、十センチのメモ帳。
めもすたが、そこに立っていた。
「……やっぱり夢じゃなかった」
『夢ではありません』
「朝はただのメモ帳だったじゃない」
『春香さんが自分で歩き出している間は、わたしは必要ありませんから』
春香は鞄を床に置き、手に持っている今日届いた郵便物を見つめた。
これを鞄を下ろすついでにテーブルの「山」の上にポイと重ねる。それが春香の長年染み付いた帰宅ルーティンだった。
今日は、めもすたがいるのもあって、山の上に重ねるのをためらう。
そのため、ためらいを振り払うかのように今日あった出来事を話し出した。
実は誰かに聞いてもらいたくて、うずうずしていたのだ。
朝、駅まで信号に引っかからずに行けたこと、いつもすれ違うお散歩中のワンちゃんに尻尾を振ってもらえたこと、会社に着いた時エレベーターに待たずに乗れたこと、仕事がスムーズに進んで残業せずに帰れたこと……
一つ一つは小さなことだけれども、これだけラッキーと思うことが続くのは初めてで、もう一日中嬉しかったのだ。
めもすたはニコニコ顔で、うんうんと相槌を打ちながら聴いてくれる。
昨日の”はい”とは違い、親しみを感じる。
「今日、私は本当にラッキーな人間だったの!」
そこまで言って、春香はふーっと息をついた。
そして、口調が一変して真剣になる。
「めもすた。私、藤北さんの家の片付けに行かなきゃいけないの。モニターの約束、ごまかすのも限界があるし……プロのフリをするためにも、まずは自分の部屋のこの『山』をどうにかしなきゃ」
春香は、テーブルの上の地層を指差した。
「ここから片付けるんでしょ? ゴミ袋、何枚くらいいるかな。徹夜覚悟で全部仕分けないと……」
『いいえ』
めもすたは、ふわりと宙に浮き、春香の目の前までやってきた。
『今ある書類の山には、指一本触れなくていいです』
「……え?」
『今日やるのは、過去の山を崩すことではありません。これ以上、山を積み上げないこと。つまり、今日入ってきた紙を、今日のうちに処理する習慣をつけることです』
春香は目をぱちくりとさせた。
「そんなのでいいの? 徹夜で一気に片付けた方が、早くない?」
『一気にやろうとすると、どうなりますか?』
「うーん……途中で疲れて、まあいっかってなって、結局そのまま……」
『そうですよね。疲れた脳にとって、過去の山に手をつけるのはハードルが高すぎます。でも、今、春香さんの手の中にある紙はどうですか?』
春香は手元に視線を落とした。
ピザ屋のチラシ、マンションのネット回線の案内、そしてクレジットカードの明細。
『今日の紙なら、情報が新鮮です。パッと見るだけで、何が書いてあるか、取っておくべきかすぐわかりますよね? 判断に必要なエネルギーが、格段に少なくて済むんです』
「なるほど……。確かに、これならすぐわかるけど。でも、後でまとめてやれば同じじゃない?」
『後回しにすると、必ず二度手間になります』
「二度手間?」
『今やれば、その場で一回で終わります。でも後回しにすると——思い出すたびに脳のエネルギーが使われて、いざやるときにもう一度内容を確認して、ようやく処理する。時間もエネルギーも、今やるより多くかかります』
春香は「あっ」と声を出した。思い当たることがあったのだ。
「……たしかに後で返信しようとしたメールは、返信するときにもう一度読むから二度手間だよね。その場でさっさと返しておけばよかったのに、後でやらなきゃな~ってずっと思ってるし」
『未処理のものを思いだしたり目に入ったりするたびに、小さな「やらなきゃ」が脳に届く。家に帰っても疲れが取れない感じ、部屋にいるとなんとなく落ち着かない感じの正体は、散らかりそのものではなく、そのノイズであることが多いんです』
春香は立ったまま、部屋を見回した。
書類の山。床の服。棚の上の雑多なもの。全部が、じわじわと「やらなきゃ」を発し続けていたのか。言われてみれば——この部屋にいると、休んでいるはずなのにどこかずっと落ち着かない。それがずっと不思議だった。
「ノイズ、か」と春香は呟いた。
「わかった。じゃあ、これ、今やっちゃうね」
春香は、ゴミ箱の前に移動した。
まずはピザ屋のチラシと、ネット回線の案内。
「これは、いらない」
ポイ、とゴミ箱へ捨てる。カサッ、という軽い音が響く。
次に、クレジットカードの明細。
指先でピリピリと圧着部分を剥がす。
「ええと、今月の引き落とし額は……うん、問題なし。確認したから、これもいらない」
ビリッ、ビリッ、と破いて、ゴミ箱へ。
「……終わった」
時計を見る。
中身を確認して、捨てるまで。
かかった時間は、たったの一分もなかった。
春香はぽかんとした。あんなに気が重かったのに。やってみたらすぐ終わった。
『素晴らしいです、春香さん』
めもすたが、パチパチと小さな丸い手を叩いた。
「なんか……拍子抜け。いつもなら、これテーブルの上に置いちゃってたのに。たった一分で終わるなら、なんで今までやらなかったんだろう」
『それが、後回しの罠です。簡単なことほど、まとめてやろうと後回しにしてしまいがちですから』
めもすたは、春香の顔を見上げて、にっこりと笑った。
『あとやり終わったら、小さくでいいので「できた」と声に出してみてください。自分を認める言葉が、わたしはできるというセルフイメージを育てていきます』
「できた、か……」
春香は、空っぽになった自分の手のひらを見つめた。
そして、照れくさそうに、でも少しだけ口角を上げて呟いた。
「うん。……できた」
久しぶりに、自分の部屋の中で味わう小さな達成感。
テーブルの上の巨大な山は、一ミリも減っていない。でも、今日の分の紙がその上に乗らなかった。たったそれだけのことが、こんなにも心が軽くするなんて。
「これを、毎日やるの?」
『今日届いたものを、今日のうちに』
「なんか、ちょっとだけできそうな気がしてきた」
自分でも驚くほど、素直にそう思った。
なんだか、本当に変われるかもしれない。
この調子なら藤北さんの家に行っても、なんとかプロらしいアドバイスができるかも――。
ピコン。
その時、鞄の中でスマートフォンが短く鳴った。
春香はご機嫌な気分のままスマホを取り出し、画面を見る。
通知ポップアップに表示された名前に、ドクン、と心臓が跳ねた。
——【藤北律:お疲れ様です。モニターの件ですが、来週末の土曜日など、ご都合いかがでしょうか?】
「……」
春香の顔面から、サァァッと血の気が引いた。
「ら、らいしゅうまつ……?」
『どうしました? 春香さん』
「来週の土曜日って……あと、一週間とちょっとしかないじゃない!!」
できた、の余韻は一瞬で吹き飛んだ。
片付けのプロのフリをして、あの藤北さんの部屋に乗り込むまで、たった数日!?
手の中に握りしめたスマホが、ずっしりと重く感じられた。
「今日の紙は今日処理する」! 実生活でも使えるめもすたの知恵、いかがでしたでしょうか?
そして無情にも迫る「律の部屋訪問」のタイムリミット! 次回、春香は自分の部屋の書類でさらなる「片付けの武器」を手に入れます。
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