10.書類の山が消えたテーブルと甘いカフェオレ
引き出しの中の文房具整理をしてから、春香は毎晩少しずつ、家中の小物たちと向き合ってきた。
引き出しのペンが片付いたら、次は別の引き出し。小物入れ、洗面台の棚、キッチンの引き出し。文房具、化粧品のサンプル、使い切っていない洗剤、どこかの店のポイントカード——全部、同じ問いで向き合った。
今の自分の生活に、これは必要か。
最初はペンと同じように手が止まることもあった。でも一つ片付けるたびに判断が少しずつ早くなって「今の自分を基準にする」という感覚が、体に馴染んできていた。
なんだ、私でもやればできるじゃないか。
そんな小さな自信が、春香の背中を少しだけ真っ直ぐにしてくれた。
*
そして迎えた二度目の土曜日。
春香はエレベーターのボタンを押しながら、先週と自分が違うことに気づいた。
(……指先が、冷たくない)
先週は、プロのアドバイザーを演じ切らなきゃというプレッシャーと、彼のプライベート空間に入る緊張で、指先が氷のように冷たくなっていたのに。今は不思議と、あの部屋に向かうのが楽しみでさえあった。
チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。
「いらっしゃい、緑野さん。どうぞ」
休日のリラックスした服装の律が、春香を招き入れる。
リビングに足を踏み入れた瞬間、春香はパッと顔を輝かせた。
「藤北さん、カーテン……!」
「あ、はい。……開いている方が、いい気がして」
少し照れくさそうに彼が言う。分厚い遮光カーテンが開けられ、初夏の明るい陽射しが部屋の中にたっぷりと注ぎ込んでいた。先週のどんよりと停滞していた空気とは、明らかに違う。
それだけで、春香はたまらなく嬉しくなった。
そして、光に照らされた部屋を見渡して、さらに驚いた。
「部屋が……だいぶ、すっきりしてますよね?」
部屋を見渡すと、先週と違うことがいくつかあった。
先週まで床のあちこちに転がっていた、明らかにゴミだと思われる空のペットボトルが綺麗になくなっている。
それだけではない。床を占拠していたいくつもの書類や本の山が、ひとつひとつは大きくなっているものの、「本」「書類」「服」といった具合に、種類ごとにまとめられていたのだ。
「あれから少し、自分でも動かしてみたんです。ただ、どう手をつけていいか分からなくて、とりあえずまとめただけで……」
「すごいです! ゴミを捨てて、種類ごとにまとめる。立派な片付けですよ!」
春香が心から絶賛すると、藤北さんは少しだけバツが悪そうに視線を逸らし、ダイニングテーブルの方へ歩いていった。
「それよりも、こっちです」
彼が指差したダイニングテーブルを見て、春香は三度目の驚きの声を上げた。
「えっ、テーブルの山が……低くなってる!?」
先週、テーブルを覆い尽くしていた巨大な郵便物の地層が、一回り小さくなっていたのだ。
「あれから毎日帰ってきてから『今日届いたもの』を開けるようにしたんです。そのついでに、テーブルから少しだけ同じように仕分けるようにして」
「少しだけ……」
「はい。緑野さんが『一気にやろうとすると嫌になる』と言っていたので。少しだけならすぐ終わる。そう思ったら、毎日続けられました」
律の言葉に、春香は胸が熱くなった。
私が伝えたことを、彼なりに噛み砕いて、毎日の生活の中に落とし込んでくれていたのだ。
「……完璧です。藤北さん、本当にすごいです」
「最初は、一番上の十枚くらいで疲れました。でもだんだんと、そこまで大変ではなくなって」
律がテーブルの山を見ながら続けた。
「判断に慣れてきた感じがします」
春香は「そうなんですよ」と言いたいのをこらえた。自分の体験と同じだ。最初は一枚一枚が重かった。でも続けるうちに、判断のスピードが上がってくる。
「残りは一緒にやりましょうか」
「お願いします」
*
二人でテーブルの前に並んで立った。
一枚ずつ、3分類で進めていく。捨てる、重要書類、しばらく保管。律の判断はかなり早かった。チラシやDMは迷わず紙袋へ。公共料金の明細は確認して捨てる。契約関係は重要書類のファイルへ。判断できないものはしばらく保管のファイルへ。春香が持ってきたものでは足らなかったため、律は自分でファイルを買い足していた。
春香は横で見ていながら、ほとんど声をかけなかった。律が自分で判断している。
「これは?」
律が一通の封筒を持って聞いた。差出人を確認すると、一年前の日付が入った保険会社からの書類だった。
「古い保険の書類ですね。今も同じ保険に入っていますか?」
「入っています。ただ新しい書類を見た気がするんですが…」
「ではしばらく保管に入れておきましょう」
「これは?」
「取扱説明書ですね。使うようなら重要書類でいいですよ。使わないなら捨てて大丈夫です」
一枚、また一枚。
作業が進むにつれて、テーブルの山が小さくなっていく。春香は黙って隣に立っていた。律がリズムに乗り始めている。止めたくなかった。
そして——山が、消えた。
テーブルの上に、何もなくなった。
律が、テーブルを見た。
しばらく、黙っていた。
「……消えましたね」
静かな声だった。
「消えました」と春香は言った。
「こんなに広かったんですね、このテーブル」
律がテーブルに手をそっと乗せた。埃と細かな屑が手に付いた。
「拭きましょう」
一度では拭き切らず、何度か布巾を洗い、磨く。
外からの光を受けて、木目がくっきりと浮かぶテーブルが現れた。
*
「来週からは、今日届いたものの整理を続けながら、部屋のあちこちにある紙も片付けていきましょう」
春香が言うと、律がうなずいた。
「床の書類の山とか、棚の上とか?」
「そうです。一気にやろうとしなくていいです。これまでと同じ毎日少しずつ、ついでにやる感じで」
「わかりました。やってみます」
律の返事に迷いがなかった。先週とは違う。一週間で、何かが変わっている。
「今日は、ここまでにしましょう」
「もう少しできますが」
「今日はここまでがちょうどいいです。テーブルの山が消えた日に、やりすぎない方がいいです」
律が「なぜですか」と聞いた。
「消えた感動を、ちゃんと感じてほしいから」
律がテーブルを見た。また、しばらく黙った。
「……そうですね」
*
「少し待ってもらえますか」
律が立ち上がって、キッチンへ向かった。
冷蔵庫が開く音。何かを取り出す音。戻ってきた律の手に、缶コーヒーが二本あった。
甘いカフェオレと、ブラックコーヒー。
「甘いのとブラック、どちらがよかったですか」
「甘いので」
「では」
律がカフェオレを春香の前に置いた。自分はブラックを手に取って、プルタブを開ける。かちん、という小さな音がした。
春香もカフェオレを開けた。甘い、コーヒーの匂いが広がる。
窓から光が入っている。広くなったテーブルの上に、缶コーヒーが二本並んでいる。それだけの景色なのに、春香には、それがとても大きなことに見えた。
私のために、飲み物を用意した律。
自分のことは後回しにしてきた人が、誰かのために何かを準備している。
「美味しいです。ありがとうございます」
「…片付けが終わると、こんな感じになるんですね」
「まだ途中ですよ」と春香は言った。「でも、変わりましたよね」
「……変わりました」
律の声は静かだった。何かを確かめるような、そんな声だった。
「来週が楽しみになってきました」
春香は少し驚いた。
楽しみ。律が、そう言った。
「私も楽しみです」
春香はカフェオレをもう一口飲んだ。甘い味が、疲れた体に染み渡る。
そっと律の横顔を横目で見た。窓の光を受けて、疲れた顔の中に、何か柔らかいものがある。
この人は、少しずつ変わっている。
そう思った瞬間、律がふと棚の方に目をやった。
背の高い収納棚の、一番奥の端。封をされた段ボール箱が一つ。他のものとは少し違う場所にあった。
律の視線が、そこで一瞬止まる。そして、目を逸らせた。
春香は何も聞かなかった。
聞けなかった、ではなく、聞かないと決めた。
触れられたくない、そう言っているような段ボール箱が静かに部屋の隅にあった。
第10話、いかがだったでしょうか。
ついに、ダイニングテーブルの山が完全に消滅しました!
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