11.「使うのがもったいない」の罠。眠っていたハンカチと、自分を大切にする魔法
律の部屋での二回目のレッスンを終えた、翌日の日曜日。
春香は自分の部屋で、また別の引き出しと向き合っていた。
昨日の律の変化は、春香にとっても大きな刺激になっていた。
彼が自らゴミを捨て、郵便物の仕分けを習慣にし、ダイニングテーブルの山を消滅させたこと。そして何より、私のために二種類の缶コーヒーを用意して待っていてくれたこと。
その不器用で誠実な変化を思い出すたび、春香の胸の奥がじんわりと温かくなる。
「私も、負けてられないな」
呟きながら、チェストの一番下の深い引き出しを引っ張り出した。
そこに入っていたのは、綺麗に包装されたままの箱や、リボンのついた小袋だった。
取り出してみると、ブランドのロゴが入った、平べったい箱だった。リボンがかかっているものもある。蓋を開けると、綺麗に畳まれたハンカチが入っていた。白地に花柄の刺繍。薄いブルーのストライプ。シンプルだけれども良いものだと分かるもの。
「こんなのあったっけ……」
どれも可愛くて、質が良くて、見ているだけで嬉しくなるようなものばかり。
なのに、春香はそれを一度も使っていなかった。記憶を辿ると、少しずつ思い出してきた。友人の結婚式の内祝い。誕生日のプレゼント。何かのお礼。もらうたびに「綺麗だな」と思って、大事にしまい込んでいた。
全部で、六枚あった。
*
「めもすた、これ……どうしよう」
ローテーブル向かって聞くと、銀色のリングが光った。
『綺麗なハンカチですね。いつからしまっていますか?』
「一番古いので……三年くらい前かな。もらった瞬間は、すごく嬉しかったんだけど」
『なぜ使わなかったんですか?』
「使うのががもったいなくて。いつか使おうと思って」
『いつかは、来ましたか?』
春香は少し考えた。
「……来てた、けど、結局使わないまま、だった」
『今日は、その”いつか”でしょうか?』
「違うと思う」
『では、明日の月曜日は?』
「違う……あ」
春香は手の中のハンカチを見た。
「いつかを待ってたら、永遠に使わないってこと?」
めもすたが静かに言った。
『モノは、使ってこそ価値があります』
その言葉が、すとんと胸に落ちた。
『「使うのがもったいない」というのは、未来への不安ですね。「もらった時のままにしておきたい」というのは過去への執着です。……春香さん、あなたの基準は何でしたか?』
「……今の自分」
『そうです。今のあなたが、その素敵なハンカチを使って、嬉しい気持ちになること。それが、モノにとっても一番幸せなことなんです』
春香はしばらく、手の中のハンカチを見つめた。今の私を、喜ばせる。
いつか来る自分のためにはこんなに素敵なものを残しているのに、今頑張っている自分には使い古したハンカチを使わせている。それって、なんだかすごく自分を粗末に扱っている気がする。
「……使おう」
声に出したら、なんだかすっきりした。
「でも、洗ってから使った方がいいよね」
『そうですね。一度水を通してから使いましょう』
春香は六枚全部を簡単に手洗いし、干した。
乾いたハンカチを手に取ると、ふわりと柔らかくて、良い匂いがした。
明日持っていくハンカチを一枚選んだ。白地に小さな花の刺繍が入ったもの。
「これにしよう」
折り畳んで、明日のかばんの中に入れた。
*
翌日の月曜日。
会社のトイレで手を洗った春香は、かばんからハンカチを取り出した。
「あ……」
濡れた手を包み込むと、いつも使っていたゴワゴワのハンカチとは全く違う、ふんわりと柔らかい感触。
鏡の前に立つ自分を見つめる。手元には、白いハンカチ。
「……ふふっ」
思わず、口元がほころんだ。
ただ手を拭いただけなのに、なんだかとても贅沢なことをしているような、満たされた気持ちになる。
誰も見ていない、ほんの数秒のこと。でも、上質なものを「今の自分」のために使うことで、日常の中に小さな幸せが生まれた。
『今の自分を、大切にする』って、こういうことなんだ。
春香はハンカチを丁寧に折りたたみ、ポケットにしまった。午後からの仕事も、なんだかいつもより頑張れそうな気がした。
*
帰宅して、声をかける。
「めもすた、ただいまー」
『おかえりなさい、春香さん』
「ハンカチ、使ってみた!」
『どうでしたか?』
「良かった。手を拭くたびに、なんかいい気分になった。引き出しの中に眠らせてたなんて、…もったいなかったな」
もったいなかった。
この言葉が、ちょっと前とは全然違う意味で出てきた。
しまい込んでいることの方が、もったいなかった。
*
火曜日、春香は部屋のあちらこちらにあった小物について確認してから
「小物の整理、一通り終わったよ」とめもすたに声をかけた。
『よくやりましたね』
「次は何?」
めもすたが少し間を置いてから言った。
『服は、どうですか?』
「服?」
…いっぱいあるのは分かっていた。クローゼットの中に入りきらない物が、衣装ケースの中に入っており更にその上に山に積んでいるのを見て見ぬふりをしてきた。
「……わかった。やってみる」
そう言いながら、春香は胸の奥に、重いものを感じた。
服の整理は、小物より難しそうだ。なんとなく、そう思った。
もらいものや、高かったもの。いつかのためにとっておいて、結局使わないまま何年も経ってしまう……皆さまもご経験があるのでは?
モノは使ってこそ価値があります。「今のなんでもない毎日を頑張っている自分」のために、良いモノを使ってあげること。それが自分を大切にする第一歩です。
少しでも「共感した!」「私もしまっているハンカチやタオルを使おうかな」と思っていただけましたら、ぜひページ下部の【☆☆☆☆☆】から応援評価とブックマークをお願いいたします! 皆様の応援が、執筆の励みになります!




