24.重い扉を開ける
春香が「よろしくお願いします」と涙ながらに頷くと、律はホッと息を吐き出し、心からの笑みを浮かべた。
少しの間、重ねた手から伝わるお互いの体温を確かめ合うように、静かで幸せな時間が流れる。やがて、律は名残惜しそうに春香の手を離し、紙袋を持ち直した。
そして、ふと思い出したように、真面目な顔で春香を見つめた。
「……緑野さん。一つ、我儘を言ってもいいでしょうか」
「はい。何ですか?」
「もし……もし可能なら。今からあなたの部屋に行ってもいいですか?」
――はっ?
春香の思考が、完全に停止した。
「このカップを、その……空いた場所に置くところを、見届けたくて。それから、これで一緒にコーヒーを飲めたら嬉しいな、と」
今から、私の部屋に? え、付き合うことになって、まだ数分しか経ってないのに⁉
男性から部屋に行きたいと言われることの意味が頭をよぎり、春香は完全に固まってしまった。
すると、春香の硬直した反応を見た律はハッとしたように大きく目を見開き、慌てて紙袋を持ったまま両手を振り否定した。
「いえ、違います、違います!」
がさがさと袋の中でカップが揺れる音で慌てて手を止める。
「あ、あのっ、決して変な意味じゃないんです! そういうつもりで言ったんじゃなくて……!」
律は普段の冷静な姿からは想像もつかないほど狼狽し、耳まで真っ赤にしていた。
「その……! さっきカフェで、緑野さんが『以前は汚部屋だった』と言っていたので。もしまだ片付けの途中で悩んでいたり、一人で困っているなら、今度は俺に手伝わせてほしいと思ったんです。……それに、あなたがどんな場所で暮らしているのか、知りたいんです」
この人は本当に、私の生活そのものを知ろうとしてくれているのだ。
春香は思わず「ふふっ」と吹き出してしまった。
「……ふふ、ありがとうございます。藤北さんらしいですね」
「笑わないでください。俺は至って真面目に……」
「ごめんなさい、嬉しかったんです。実は私の部屋、もう自分で頑張って綺麗にしたんですよ。でも……本当に散らかってないか、ぜひ確認しにいらしてください」
春香が応じると、律は心底ほっとしたように目尻を下げた。
「ここから私の最寄り駅まで、電車で三十分くらいかかりますけど、いいんですか?」
「もちろんです。三十分でも一時間でも、あなたの隣にいられるなら喜んで」
律のストレートな言葉に、今度は春香が顔を赤くする番だった。
二人は屋上庭園を後にし、駅の改札へと向かった。
*
春香の最寄り駅に降り立ち、日が落ちた静かな住宅街を二人並んで歩く。
街灯が二人の影を長く伸ばす中、律がふと、静かな声で尋ねた。
「そういえば……さっき、ご自身の部屋はもう綺麗にされたとおっしゃっていましたね」
「はい。なんとか頑張って、一応……」
「さきほど、ご友人に片付けを教わって実践したとお聞きしましたが……一人で片付けるのは、本当に並大抵の努力ではなかったはずです。緑野さんは、ご自分の部屋と向き合っている時、どんな風にその大変さを乗り越えたんですか?」
自分の苦労を思いやるような律の優しい問いかけに、春香は照れくさそうに笑い、それから目を伏せた。
「乗り越えただなんて、そんな格好いいものじゃないんです。本当に必死だっただけで……。その友人に一からやり方を教わって、最初はとにかく言われた通りに、必死に手を動かしていただけなんです。そうして自分の部屋でやってみて、なんとか少しずつ片付けられるようになって……それから藤北さんの部屋に行って、教わったことをそのまま実践していたんです」
春香は自嘲するように、小さく息を吐き出す。
「だから、本当にただ友人のやり方を真似していただけなんですよ。それなのに、さも自分の実力みたいに教えていただなんて……。思い出すだけでも本当に恥ずかしいです。ただの、真似事ですから」
「恥じることなんて、一つもありませんよ。……『学ぶ』という言葉の語源を、知っていますか?」
「え……?」
「もともとは『まねぶ』、つまり『真似をする』という言葉から来ているんです。お手本になる人の真似をすることは、何かを習得するための、最も正しくて大切な第一歩なんですよ」
「まねぶ……」
「ご友人の教えを、ご自身の部屋で実践し、しっかりと自分のものとして学んだ。……それを次に、緑野さんが俺に学ばせてくれたんです。
それに、俺が救われたのは、あなたが学んだ知識や経験のおかげだけじゃありません」
「え……?」
「ノウハウを真似るだけなら、他の誰かにだってできたかもしれない。でも、あなたは俺のありのままを認めてくれた。……それは、教わった技術なんかじゃない。他でもない緑野さん自身が本来持っている温かい気質であり、あなたの広く優しい心があったからです。
今の俺があるのは、あなたが自分の部屋と必死に戦って学んだ経験と……その、相手に寄り添える心のおかげです」
静かに道を歩きながら、春香の努力と彼女自身の心を肯定してくれる律の言葉に、春香は胸が温かくなる。
「……ありがとうございます」そう素直に受け止めることができた。
*
やがて、春香の住むマンションの前に到着した。
エレベーターで上がり、自分の部屋のドアの前に立つ。バッグから鍵を取り出した時、春香はふと、前の自分を思い出した。
誰も入れられない、入れたくないと、分厚い壁を作って引きこもっていたあの頃。
散らかっているからと誤魔化して、頑なに他人を拒絶してきた重たい扉。
けれど今の春香には、もうためらいはなかった。
「……どうぞ」
カチャリと鍵を開け、春香はとびきりの笑顔で振り返った。
「いらっしゃい、藤北さん」




