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25.ラッキーな嘘と、ふたつのマグカップ(最終話)

「お邪魔します」

 少し緊張した面持ちで靴を脱ぎ、律がゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。

 脱ぎ散らかされた服も、山積みの雑誌も、ごちゃごちゃした小物も、もうどこにもない。そこにあるのは、春香が今の自分を大切にするために作り上げた空間だった。

「……いい部屋ですね。とても居心地がいい、緑野さんらしい温かい場所です」

 部屋を見渡した律が、ふわりと目を細める。

 その真っ直ぐな褒め言葉に、春香は照れくささと誇らしさで胸がいっぱいになった。

「ありがとうございます。……あの、私、誰かを『どうぞ』って自分の部屋に招き入れるのが、ずっと夢だったんです」

「ああ、確かに以前言われていましたね?」

「はい。ずっと散らかっていて、絶対に誰も呼べないって諦めていたから。でも、今はこうして藤北さんを『どうぞ』って迎え入れることができて……夢が一つ、叶いました」

 春香がそう言うと、律は「光栄です」と目尻を下げた。

「さっそく、コーヒーを淹れますね。マグカップ、洗っちゃいます」

 春香は律から紙袋を受け取り、キッチンへ向かった。

 アイボリーとオリーブ色のふたつの陶器。スポンジで洗い、ふきんで水気を拭き取る。


 ふと、春香は洗いたてのカップを持ったまま、律の方を振り返った。

「すぐにコーヒーを淹れようと思うんですけど……一度、食器棚にしまってみます?」

 春香が悪戯っぽく尋ねると、律は真面目な顔で深く頷いた。

「はい。ぜひ、お願いします。その……空いたスペースが埋まるところを、ちゃんと見たいです」


 春香は一度深く息を吸ってから、食器棚の扉を開けた。

 さまざまな食器が並ぶ中、一番目立つ場所にぽっかりと空いている場所。

 そこへ、アイボリーのカップをコトリと置く。

 更に隣に、オリーブ色のカップを並べた。

「……ぴったりです」

 背後から近づいてきた律が、春香の肩越しに食器棚の中を覗き込み、嬉しそうに呟いた。

「はい。まるで、最初からここにあったみたいですね」

 空っぽだった春香の心の余白が、新しくて温かい思い出でしっかりと上書きされた瞬間だった。

 その景色を見つめた後、春香は「よし」と小さく気合を入れてカップを取り出した。

 お湯を沸かし、丁寧にドリップしたコーヒーを淹れた。


 ローテーブルの前に並んで座り、二人はそれぞれ新しいマグカップを両手で包み込んだ。

「美味しいです」

 一口飲んで、律がふうっと息を吐き出す。

「あなたの部屋で、あなたが淹れてくれたコーヒーを飲める日が来るなんて……想像もしていませんでした」

「私もです。つい数時間前には、カフェでガチガチに緊張してたのに」

 二人は顔を見合わせ、静かに笑い合う。

 すると、律がふと、ローテーブルの隅に置かれていたメモ帳に目を留めた。

「ん……? このメモ帳は?」

「それ、友人のメモ帳なんです。片付けを教えてくれた友人です」

 春香はメモ帳に視線を落とし、大切な宝物に触れるように指先で撫でた。

「私、その友人から片付け以外にも色々なことを教わったんです。たとえば……自分を卑下して落ち込みそうになった時は、『私はラッキーな人間だ』って声に出して言う、とか」

「ラッキーな人間、ですか」

「はい。……私自分のこと、だらしないってしょっちゅう言ってて。そんな時に教えてもらった魔法の言葉なんです」

春香は手の中のマグカップを見つめ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「実は……今は、嘘をついてラッキーだったんだなって思えるんです。嘘をつくことはいけない事だけれど、あの嘘をついたからこそ、自分の部屋と心を整えることができて……さらに、藤北さんと恋人にまでなれたんだって」

春香が顔を上げると、律は首を振った。

「それはただラッキーだっただけじゃない。緑野さんが逃げずに向き合って、自分の力で手に入れた結果です」

「……ありがとうございます。でも、たくさんの幸運もあったからこそ、こうなれたって思ってます。だから、今日決めたことがあるんです」

「決めたこと、ですか?」

「はい。私、これからちゃんと心理学やカウンセリングの勉強をして、本物の『片付けカウンセラー』になろうと思います」

 律は驚いたように息を飲んだ。春香は律をしっかりと見て言う。


「自分の部屋を片付け、藤北さんの部屋へ通ううちに、気づいたんです。モノと向き合うことは、その人の心の傷や、過去や未来と向き合うことなんだって。友人に教わったやり方を真似るだけじゃなくて、私自身の言葉と知識で、以前の私や藤北さんみたいに苦しんでいる人の心に寄り添えるようになりたい」

 春香は膝の上で、きゅっと拳を握った。

「だから、近いうちに、私の仕事にしたいんです」

 それは、汚部屋女子だった春香が自分の意思で見つけた、未来だった。


 律は春香の言葉を静かに聞き終えると、オリーブ色のカップをテーブルに置き、春香の小さな拳を自分の大きな手で包み込んだ。

「……素晴らしい夢だと思います。緑野さんなら、絶対に素敵なカウンセラーになれますよ」

「本当ですか……?」

「ええ。俺が保証します。何しろ、俺はあなたの言葉に救われた一番最初のクライアントですから」

 律は春香の目を覗き込み、微笑んだ。


「……緑野さん。いや、春香さん」

 初めて名前で呼ばれ、春香は驚く。

 すぐ目の前に律の真剣な瞳があった。

「改めて…俺の部屋と心を整えてくれてありがとう……本当に、ありがとう」

 律の大きな手が春香の頬へゆっくりと伸びてきて、ふわりと包み込んだ。その指先から、彼がどれほど春香を大切に思ってくれているのかが伝わってくる。温かい親指が、頬を撫でる。

「律、さん……」

 春香と目が合うと、律はそのまま春香の肩を引き寄せ、大きな腕で抱きしめた。

 壊れ物を扱うような、温かい抱擁だった。

 彼の清潔な匂いが、春香の全身を深い安心感で満たしていく。春香も腕を伸ばし、律のシャツをきゅっと握った。

 すると、律が春香の頭を優しく撫でた後、そっと自分から離した。


 見つめ合った二人の顔は、ほんの十数センチの距離にある。

 律の片手が再び春香の頬を撫で、顎に指がかかる。

 「春香さん」

 確かめるように名前を呼ばれ、春香は目を閉じた。

 ゆっくりと重ねられた唇は温かく、かすかにコーヒーのほろ苦くて甘い香りがした。



 心の壁をつくり、誰も内側に入れないようにしていた春香。

 他人のために生きるあまり、自分自身の生活を顧みなかった律。

 不器用で、傷だらけだった二人が、ようやく見つけた本当の居場所。



 テーブルの上には、二つのマグカップが寄り添うように並んでいる。

 片付いた部屋で、嘘のないありのままの自分で、大好きな人と生きていく。

 そんな特別で、なんでもない日常が、これから始まる。

最後までお読みいただき、本当に本当にありがとうございます。  

完結しましたが、今後できたら2、3話完結の小話を続けていけたらな~と思っています。

それを逃さないためにもぜひブックマークを(笑)!評価もいただけると嬉しいです♪


夜に活動報告に創作秘話(?)を書く予定です。

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