22.嘘と理解
本日2話更新しています。
土曜日の午後。約束の五分前、春香は駅前の落ち着いたカフェの奥の席で、グラスの水滴を指でなぞりながら、早鐘のように打つ心臓の音を数えていた。
今日、彼にすべてを打ち明ける。片付けが得意だと言ったこと。副業のモニターという名目。自分の部屋もつい最近まで散らかり放題だったこと。
すべてを知ったら、彼はきっと軽蔑するだろう。「騙したのか」と怒って、席を立ってしまうかもしれない。
怖い。今からでも逃げ出したい。けれど、ここで逃げたら、一生自分を好きになれそうもない。
「緑野さん、お待たせしました」穏やかな声に顔を上げると、藤北律が立っていた。
律は、ネイビーの清潔感のあるシャツにシンプルなスラックスというリラックスした私服姿だった。
「あ……藤北さん。いえ、私も今来たところです」
律が向かいの席に座り、二人ともコーヒーを注文した。
しばらく、彼が新しく始めた読書の習慣や、部屋での過ごし方についての穏やかな会話が続いた。彼は心から楽しそうに話してくれた。
――今だ。今、言わなきゃ。
春香はテーブルの下で両手をきつく握り締め、彼が言葉を切ったタイミングで、ゆっくりと顔を上げた。
「藤北さん。……今日は、謝らなきゃいけないことがあって、時間を作っていただきました」
「謝ること、ですか?」
律は不思議そうに首を傾げた。
「はい。……今まで、ずっと藤北さんに嘘をついていました」
春香の震える声に、律の表情が真剣なものに変わる。
「私、片付け全然得意じゃないんです。……それどころか、少し前まで、私の部屋は足の踏み場もないくらいの『汚部屋』でした」
「……」
「人を部屋に入れられないくらい散らかっていて……。でも、藤北さんが困っているのを知って、つい『片付けが得意だ』とか『副業のモニターになってほしい』なんて嘘をついてしまいました。お片付けのアドバイスも、本当は全部友人から私に教えてもらったもので……私はただ、その受け売りをしてただけなんです」
一気に言い終えると、春香は深く頭を下げた。
目の前が涙で滲む。
「本当に、ごめんなさい。最低ですよね。私、ただの嘘つきで――」
「緑野さん、顔を上げてください」
静かな、けれどはっきりとした声が春香の言葉を遮った。
恐る恐る顔を上げると、律は怒っていなかった。軽蔑の目も向けていなかった。ただ、とても優しく、深い色の瞳で春香を見つめていた。
「薄々、気づいていましたよ」
「え……?」
春香は弾かれたように律を見た。彼は少しだけ困ったように、けれど温かく微笑んだ。
「あまりにも片付けられない人の心情が分かっていたので」
律はテーブルの上で、組んだ両手に視線を落とした。
「それでも、俺が弱音を吐き、過去のトラウマを打ち明けた時。あなたはあなた自身の言葉で、真っ直ぐに向き合ってくれた。」
律は再び春香を真っ直ぐに見据えた。
迷いのない、強い光を宿した瞳だった。
「元々片付けが得意じゃなかったから、なんだと言うんですか。嘘のモニターだったから、なんだと言うんですか。俺に寄り添い、片付けを一緒にしてくれたのは他の誰でもない、あなたです」
その言葉は、春香がずっと恐れていた”ありのままの自分を見せたら、がっかりされる”という思い込みを、いとも簡単に打ち砕いた。
「俺を救ってくれたのは、片付けの得意不得意じゃない。一緒に寄り添い、俺の痛みを理解してくれた、緑野さん自身の心です……俺にとって、あなたが特別な人だという事実は、何一つ変わりません」
過去の親友も、元カレも、踏み込めなかった春香の心の一番深いところを、彼は温かい言葉で肯定してくれた。春香のついた「嘘」の裏側にある怯えごと、すべてを受け入れてくれたのだ。
「藤北さん……っ」
春香の目から、堪えきれずに大粒の涙がこぼれ落ちた。
春香は両手で顔を覆った。
律は慌ててハンカチを差し出し、春香に渡した。
「……落ち着きましたか?」
しばらくして、赤くなった目をこする春香に、律が優しく尋ねる。
「はい……本当に、ごめんなさい。みっともないところ、見せちゃって」
「俺だって、この間泣いたばかりですから。お互い様です」
ふふ、と二人の間に笑い声がこぼれた。
もう、鎧を脱ぎ捨てた、等身大の「緑野春香」と「藤北律」だ。
すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干し、二人は連れ立ってカフェを出た。
外は、初夏の爽やかな風が吹いていた。ずっと背負っていた重い荷物を下ろした春香の足取りは、驚くほど軽かった。
「……なんだか、すごくスッキリしました」
「顔色、良くなりましたね」
隣を歩く律が、眩しそうに目を細めて笑う。
「せっかくの休日ですし……もしこの後、お時間が許すなら」
律は照れくさそうに、けれど真っ直ぐに春香を見て言った。
「近くの雑貨店に行きませんか」
「雑貨店、ですか?」
「はい。部屋が片付いて、少し新しいものを置く余裕ができたんです。緑野さんのセンスで、一緒に選んでもらえませんか」
その提案に、春香はふと、自分の部屋の食器棚のことを思い出した。
元カレとのペアマグカップを捨ててできた、余白。あそこに、何か新しいものを置くのはどうだろう。
「……はい! ぜひ、一緒に行きたいです」
春香は笑顔で頷いた。
22話をお読みいただきありがとうございました!25話で完結します!




