21.嘘つきの罪悪感と、もう逃げないための約束
電車に揺られながら、春香はずっと考えていた。
律の「また、一緒に食事に行きませんか」という声が、ずっと耳に残っている。
嬉しかった。本当に嬉しかった。でもそれと同じくらい、胸が痛かった。
今日、律は箱を開けた。十歳の日の傷を言葉にした。泣き、認め受け入れて、メダルを手放した。
あんなに深いところを見せてくれた律に——春香はまだ、嘘をついたままだ。
律のことを知れば知るほど惹かれていき、ずっとこのまま続けていたくて今の関係を崩したくないと思ってしまった。だから、打ち明ける機会はいくらでもあったのに、言えなかった。
自分の過去も、心の壁も、乗り越えられたと思っていた。けれども、全然乗り越えられていなかったんだということが、ここに来てまざまざと見せつけられた。
つい逃げてしまった。
「最低だな、私」
電車を降りマンションへ帰る途中誰もいない道で、つぶやいた。
*
「…ただいま」
家に帰ると、留守番をしていためもすたがローテーブルの端にいた。
『おかえりなさい。今日は藤北さんが箱を開けたんですね』
「……わかるの?」
『春香さんの顔を見ればわかります』
春香はベッドに倒れ込んだ。天井を見上げる。
「藤北さんが、また食事に行きませんかって言ってくれて。でも私、逃げてきた」
『なぜですか?』
「嘘をついたままだから。今日も、律さんが感謝してくれたことに、苦しくて」
めもすたは何も言わなかった。ただ聞いていた。
「藤北さんは今日、心の深いところを見せてくれたの。なのに私は、まだ隠してる。それがあまりにも、……なんか、ずるくて」
春香は目を閉じた。
律の横顔を思い出す。箱を開ける前の、緊張した背中。「一人では開けられないんです」と言ったときの声。泣いた後の、穏やかな顔。
あの人は、ちゃんと本当の自分を見せてくれた。
私は、まだ見せていない。
*
律の部屋のモニターが終了してから、五日が経った金曜日。
春香は、自宅のリビングのソファに座り、ぼんやりとテレビの画面を眺めていた。
視界に入る床には、もう脱ぎ散らかした服も、積み上がった雑誌もない。シンクに洗い物が山積みになっていることもない。
部屋は確かに整っていて、過ごしやすくなったはずなのに――心の中にはぽっかりと大きな穴が空いているようだった。
「……終わっちゃったんだな」
独り言が、綺麗になった部屋に虚しく響く。
テーブルの上でスマホが震えた。
画面に浮かび上がった『藤北律』という名前に、春香の心臓がトクリと跳ねる。
『こんばんは。夜分遅くにすみません』
そんな短いメッセージと共に、一枚の写真が送られてきた。
先日渡したイラストの夜バージョンのような写真。
温かいオレンジ色の間接照明が灯っている部屋には、一人掛けのソファ。サイドテーブルには、コーヒーカップと、読みかけの文庫本が置かれていた。
『家具が届いたので配置してみました。この週末はソファでゆっくり読書ができそうです。緑野さんが作ってくれたこの空間を、これからも大切にしていきます』
彼が今、自分自身を大切にしながら、穏やかな時間を過ごせていることが痛いほど伝わってくる。
「……よかった」
春香は顔をほころばせ、画面の写真をそっと指でなぞった。
あ、でも、なんて返事しよう。ついすぐ見てしまったので、既読がついたのは律にもわかっているはず。
春香はメッセージ入力欄を表示したまま、指を止めてしまった。
これまでは『素晴らしいですね!』『その調子で頑張りましょう』と、励ましの言葉を送ればよかった。
今はなんと返信すればいいか分からない。
考えあぐねて春香はスマートフォンを裏返しにして、テーブルに突っ伏した。
「どうしよう……」
『春香さんはどうしたいんですか?』
最近はただのメモ帳でいることが増え、こちらから呼びかけても返事をしない時間が増えていためもすたから、そんな言葉がかかった。
ひとりでぐるぐると回っていた思考の渦からようやく抜け出せそうな気配に嬉しくなる。
自分一人では解決できないから、出てきてくれたんだろうという甘えには見ないふりをした。
聞いてくれる?そう前置きをして春香は話し始めた。
「私は、本当は自分の部屋も片付けられなかった、ただの嘘つきなんだ。彼が私に向けてくれる感謝も、好意も、全部『緑野春香という片付けアドバイザー』に向けられたものだから。本当の私を知ったら、絶対、がっかりされる」
役割があったから、できていたのだ。あれは本当の自分ではない。
ありのままの自分を認め受け入れろ、その言葉をかけた春香自身が、ありのままの自分を見せることから逃げているという現状。
彼が過去と向き合い、真っ直ぐに立っているからこそ、自分のズルさが浮き彫りになって痛い…痛くてたまらない。
『春香さん』
めもすたが、春香の顔の前にそっと降り立った。
『春香さんは、藤北さんが見せてくれた弱さや、過去の傷を否定しましたか?』
「え? ……ううん、否定なんてしないよ。あんなに頑張ってたんだもん」
『では、藤北さんは春香さんの弱さを否定するような人ですか?』
「それは……」
春香の脳裏に、彼が見せた不器用で優しい笑顔が浮かぶ。
『春香さんはもう、ご自身の心の壁だったマグカップを手放せました。このお部屋も、ちゃんとご自身の力で整理できました。もう、壁で自分を守っていた頃の春香さんではありませんよ』
めもすたの言葉に、春香はゆっくりと顔を上げた。
部屋を見渡す。少し前までは誰も入れられなかった空間が、今はすっきりとしている。
自分の部屋、そして律の部屋を片付けながら、春香自身もまた、過去を清算し、成長してきたのだ。
「……そうだよね。私、逃げたままで終わらせちゃ駄目だよね。
……めもすた」
『はい』
「藤北さんに、本当のことを言いたい」
言葉にしたら、思ったより静かに出てきた。怖い。でも怖いより先に、言いたいという気持ちがあった。
『どんな本当のことですか?』
「片付けが得意なんかじゃなかったこと。副業のモニターも嘘だったこと。本当は、自分の部屋が汚部屋だったこと」
春香はスマホを手に取った。
「言ったら、どうなるんだろう」
『どうなると思いますか?』
「怒るかもしれない。信用してくれなくなるかもしれない……嫌われるかもしれない」
めもすたは少し間を置いてから言った。
『怖いですか』
「怖いよ。でも」
春香は律の部屋の写真を見た。
「このままの方が、嫌だ」
いつまでも逃げていたくない。彼との関係を前に進めるにしても、終わらせるにしても、まずは本当の自分を――嘘をついていたことを、告白しなければ。
春香はスマホを手に取り、深呼吸をした。
『こんばんは。写真ありがとうございます。とても素敵な部屋になりましたね』
『実はお伝えしたいことがあります。近いうちに、少しだけお時間をいただけませんか』
震える指で入力し、送信ボタンを押す。
既読は、すぐについた。
『わかりました。明日の午後、駅前のカフェでいかがですか?』
すぐに返ってきた律からのメッセージに、春香はぎゅっと目を閉じた。
明日の午後。
それが、私が嘘を脱ぎ捨てる日になる。
21話をお読みいただきありがとうございました。




