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20.片付けモニターの「卒業」

 静かな部屋の中、律の震えが少しずつ落ち着いていくのを待ち、春香はゆっくりと口を開いた。

「……藤北さん。私の開けたくなかった箱の話をしてもいいですか」

 律が頷くのを見てから、春香は話し始めた。


「中には、ペアのマグカップが入っていました。昔付き合っていた人と買ったものです。私は部屋が汚いという理由で、彼を部屋に入れることが出来ませんでした。だから、そのマグカップは一度も使われていません。ずっと食器棚の奥に押し込めていたのですが片付けのため、箱を開けました。


それと向かい合った時、気づいたんです。私は、ありのままの自分を見せてがっかりされるのが怖くて、部屋の汚さを理由にして、心の中に誰も入れないための『壁』を作っていたんだって」


 律は顔を覆っていた手を下ろし、少し赤くなった目で春香を見た。

「緑野さんの、心の壁……」

「はい。モノと向き合うことは、自分の弱さや隠していた感情と向き合うことでした。でも、箱を開けて、その時の自分の弱さを認めて許して手放した時……ようやく心が軽くなって、前に進めたんです」


 春香は、律の手の中にあるメダルと箱の中に視線を送った。

「藤北さんのこの箱も、きっと何かを伝えたがっているはずです……」


 律は箱の中の銀メダルや写真、そして古びた表彰状を一つ一つ、丁寧に見つめ直した。

 春香の言葉を聞いた今、それらは全く違う意味を持って彼に語りかけるのではなかろうか。


「……緑野さんの言った通りでした」

 やがて、律は静かに息を吐き出した。


「このメダルは、”使える人間であらなければ”という価値観を植え付けました。でも、人のために精一杯努力することも教えてくれたんです。…ただ、自分を顧みないでそれをしろとは、誰も言っていなかったのに、自分で勝手に思い込んでいたんだ。

そして……その思い込みを今、緑野さんと一緒に取り払い、

『他人のためにだけでなく、自分のための人生を生きてもいいのだ』そう伝えるためにいてくれたんだと思います」

 律の口調は、長年の重荷を下ろしたように軽やかで、澄んでいた。


 律は立ち上がると、部屋の隅からゴミ袋を持ってきた。

 そして、もう役割を終えたゴミとして正しく分類し、袋の中へ一つずつ収めていく。その手つきは優しく、手放す彼の顔にはもう何の迷いもなかった。

「……あの十歳の日からの俺の努力や想いは、無駄じゃなかった。でも、もう、このメダルも呪いも、俺には必要ありません」

 ゴミ袋の口をしっかりと結んだ。



 律の部屋の片付けは、もうほとんど終わってしまった。残るは部屋の隅にある荷物といくつかの段ボールくらい。

 本やゴミの山がなくなり十分なスペースがあるフローリングと、整然と並んだ本棚が、この部屋が本来持っていた広さと明るさを取り戻させていた。


「一息、つきませんか。コーヒーを淹れるので、少し待っていてください」

 先日ずっと前に買っていたミルが台所から発掘されたんです、そう言いながら律はすっきりと整頓されたキッチンに立ち、豆から挽いて、ゆっくりとお湯を注ぎ始めた。


 実は少し前から、律は片付けを通じて自分を丁寧に扱うことを分かっていたんだろう。

 だからメダルをすぐに手放すこともできたんだろうな、その仕草を見ていて、春香は思う。


 やがて、二つのカップを乗せたトレイを持って、律が戻ってきた。

 テーブルを挟んで向かい合い、コーヒーを一口飲むと、律は深く、長く、息を吐き出した。

「……本当に、息ができます」

 律は部屋を見渡し、心からの笑顔を見せた。


「緑野さんのおかげで、自分のために時間を使っていいのだと思えました。この部屋は、俺にとっての新しいスタート地点です。あなたが俺を急かさず、否定せずに寄り添ってくれたから、俺は過去を認められたんです」

 律は姿勢を正し、春香に向かって深々と頭を下げた。

「……本当に、ありがとうございました」


 真っ直ぐな感謝の言葉。

 アドバイザーとして、これ以上ないほどの最高の賛辞だった。

 本来なら喜ぶべき瞬間なのに、春香は胸の奥がギリギリと締め付けられるのを感じた。

「どういたしまして。あとは、ご自分でもう出来そうですね。

……これで、藤北さんのお部屋のお片付けは、『卒業』です。

モニターとして、ご協力ありがとうございました」

 春香のその言葉が、静かな部屋に落ちた。


 わかっていたことだ。部屋が片付けば、モニターは終わる。

 もう、春香が「アドバイザー」としてこの部屋に来る理由は、何もない。

 彼の部屋を片付けることができた。仕事としては大成功だ。なのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。

 本当は、ただの汚部屋女子で、あなたに会いたくて嘘をつき続けていた、最低な人間だと自覚してしまったから。

 その事実が、今になって分厚い壁となって春香の前に立ちはだかっていた。

 彼が自分を感謝の念で見てくれればくれるほど、本当の自分との距離が遠くなっていく。


「それじゃあ、私はこれで失礼しますね。何かあれば、いつでもご連絡ください」

 春香は空になったカップを置き、逃げるように立ち上がった。

「緑野さん」

 背中を向ける春香を、律の声が呼び止める。

 振り返ると、真っ直ぐな瞳で春香を見つめていた。

「その……また、一緒に食事に行きませんか」

「え……」

「あなたがどんな人なのか、もっと知りたいんです……仕事や片付けを抜きで、お話ししたいです」

 それは、律からの明確な好意だった。

 飛び上がりたいほど嬉しいはずなのに、春香の心には重たい罪悪感が渦巻いた。


 まだ本当の自分を見せるのが怖い。

 片付けができるフリをしていたという嘘がばれるのが怖い。

 今日終わるなんて思ってもいなくて、覚悟が出来ていない。

 どうしよう、どうしよう、これ以上彼と一緒にいたら、きっとすべてが崩れてしまう。


「……ありがとうございます。でも」

 春香は曖昧に微笑んで、トートバッグを強く握りしめた。

「今日は……もう、帰ります。明日用事があり早いので」

「あ……引き止めてしまってすみません」

 駅まで送らせてほしいという声を断り、靴を履く。

「それじゃあ、失礼します」

「はい。……本当にお世話になりました」

 ドアが閉まる静かな音が、二人の関係の終わりを告げるように冷たく響いた。

 春香はマンションの廊下を、足早に歩き出した。

 心を満たしているのは、任務を終えた達成感ではなく、もう律に会えなくなるという悲しみと本当の自分を見せられないやるせなさだった。

20話お読みいただきありがとうございました

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