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19.「使えない奴」という呪縛。彼が自分を顧みなくなった理由

「もちろん、今日じゃなくてもいいです。私も開けるのに数日かかったんで。

 時間が必要なのも、知っています。だから、今日は他のモノを片付けましょう」

 さらに重苦しい空気から彼を解放してあげたくて、春香は提案した。

「それとも今日はもうやめておきましょうか。今日は絵をお渡ししたかっただけなので」

 春香が一歩玄関の方へ足を踏み出した、その時だった。


「待ってください、緑野さん」


 背後から、呼び止める律の声が響いた。いつもより少し低く、どこか切羽詰まったような響きに、春香は足を止めて振り返った。

 律は下ろしたままの両手を強く握りしめ、縋るような眼差しで春香を見つめていた。


「勝手を言って申し訳ありません。でも……今日、この箱を開けたいんです。緑野さんがいてくれる、今、開けなければ……俺は一生、これを見ないふりをして押し込んだままにしてしまう」

 律は一度言葉を切り、喉を詰まらせるようにして視線を箱へと落とした。

「一人では……とても開けられそうにないんです。だから、不躾なお願いなのは百も承知ですが……俺がこれを開けるのに、立ち会っていただけませんか」


 彼が見せた、子供のような脆さと弱音。

 一人では過去の恐怖に負けてしまうから、一緒にいてほしい。そうやって自分を頼ってくれたことが、たまらなく愛おしく、そして嬉しかった。


「……はい。ここにいます」

春香は少し離れたところに立った。


「……すみません。ありがとうございます」

 律は小さく呼吸を整えると、震える指先をガムテープに引っ掛けた。ベリッ、ベリッという乾燥した音が静かな部屋に響き、幾重にも巻かれた分厚い封印が解かれていき…ついに箱が開いた。


 律は箱の中を、しばらく動かずに見ていた。

 春香には中身が見えなかった。でも律の背中が、少しだけ丸くなったのはわかった。

「……見てもいいですか」

 春香が聞くと、律が無言でうなずいた。

 春香は律の隣に座り箱の中を、覗き込んだ。


 黄ばみかけた表彰状が何枚かと、首にかけるメダルがいくつかと、大会のプログラム。揃いのユニフォームを着た子どもたちが写っている集合写真が数枚。


「子どもの時のものです。……これは地域のサッカークラブの、決勝戦でもらったメダル」

 律は箱の中から、小さな銀メダルをそっと手に取った。

「あの日のホイッスルの音を、今でも夢に見るんです」

 律の視線はメダルに落ちたまま、静かに、ぽつりぽつりと過去を語り始めた。


 *


 グラウンドに鳴り響いた無情なホイッスルが、律の耳にはひどく遠く、くぐもって聞こえた。

 地域の少年サッカークラブの決勝戦。同点のまま迎えた試合終了間際、律の目の前にボールが転がってきた。

 普段からコーチに「お前は、うちのチームの要だぞ」と期待をかけられ、この日のために誰よりもシュート練習を重ねてきた。シュートコースには敵の姿はなくゴールキーパーと一対一。これを決めればヒーローになれる。ベンチからも、保護者たちからも、熱狂的な歓声と期待の視線が一点に注がれていた。

 その過剰なまでの熱気と「絶対に自分が決めなければ」という重圧が、十歳の小さな身体を唐突に硬直させた。

 頭では分かっているのに、足が前に出ない。一瞬の躊躇い。焦って振り抜いた右足はボールの芯を捉えきれず、力弱く転がったボールは、キーパーの腕の中へとあっけなく吸い込まれていった。

 直後、試合終了の合図。

 自分のチームはPK戦で負け、二位となった。


 土埃の匂いが充満するグラウンド。整列して挨拶を終え、ベンチに戻る律の足どりは鉛のように重かった。うつむき、込み上げる涙をこらえるので必死だった。

 あの時、シュートが決まっていればPK戦にならずに勝てた、頭の中に何度も何度もあのシーンが繰り返される。


 「ごめんなさい」と、コーチに謝りたかった。いつも優しく、時に厳しく指導してくれた大好きなコーチに。

 ベンチの端でビブスを片付けていたコーチの背中に近づき、声をかけようと息を吸い込んだ時だった。


「あーあ……ここぞって時に、使えない奴だなあ」


 コーチは律が背後にいることに気づいていなかったのだろう。

 頭をガシガシと無造作に掻きむしりながら、誰に向けるでもないため息混じりの言葉だった。


 直後、気配を感じて振り返ったコーチは、律の姿に一瞬ギョッとした顔をしたが、すぐにいつもの快活な笑顔を取り繕った。

「気にするな、律! 今日はたまたま運が悪かっただけだ。次また頑張ろうな!」

 そう言ってポンと頭を撫でてくれた手は、いつもと同じように温かく、力強かった。


――ぼくは、ここぞという時に使えない奴なんだ。


 撫でられた頭の感触も、繕われた慰めの言葉も、律の心にはもう届かなかった。



 *


 律はゆっくりと顔を上げ、春香を見た。その瞳の奥には、十歳のその日からずっと凍りついたままの、怯えた小さな男の子がいた。

「悪気はなかったんだと思います。ついこぼしただけの、愚痴だった。……でも、俺の心は完全に冷え切っていました。あの落胆しきった背中と、冷ややかな声色が、どうしても頭から離れなかった。


どれだけ普段褒められても、頑張っても、結果を出せない人間には価値がない。役に立たない人間は、人をがっかりさせてしまう……そう、呪いのように刻み込まれた。

それからというもの結果を出している間だけ、自分はここにいていいと思えたんです。


そのうちに自分自身に時間や手間をかけるのが、どんどん面倒になって……他人の役に立たない『自分のための手間』は、すべて無駄なことに思えた。……だから、部屋が本やゴミで埋もれて息ができなくなっても、平気だったんです」


 過去と片付けなかった理由が繋がった。

 けれど自分を顧みない生活は限界だと、心が叫んでいたのだろう。

 だから、春香の言った言葉に反応してモニターを受けようと思ったのかもしれない。 


 春香はそっと手を伸ばし、律が握りしめている銀メダルに、自分の手を重ねた。

 春香の温かい手が、強張っていた律の指を優しく解いていく。


 春香は律の目を見て、はっきりと言い切った。

「藤北さんは、必死に努力し続けてきた、優しくて誠実な人です。

 もう、結果で自分を証明しなくても大丈夫ですよ。誰もあなたを見捨てたりしません。

 ……自分を認めて、いいんですよ」


 春香の優しい声が、長年律を縛り付けていた冷たい氷を、静かに溶かしていく。

 律は弾かれたように春香を見た。限界まで張り詰めていた糸がふつりと切れたように、すっと目を伏せる。


「……ずるいですね、緑野さんは」

 かすれた声でそう呟くと、律は片手で自分の両目をきつく覆った。

 声を上げることはなかったが、彼が必死に何かを堪えているのは明らかだった。やがて、目を覆った手のひらの隙間から、一滴、静かな雫が零れた。


「……すみません。こんなつもりじゃ、なかったんですが」

 感情を律しようとする震えた声。

 春香は何も言わず、ただ彼の隣に座り続けた。

 一人で戦い、傷ついてきた小さな男の子が、静かに過去の呪いを受け止める時間に、今はただ寄り添っていたかった。

19話、お読みいただきありがとうございます

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