18.理想の部屋と、開けたくない段ボール箱
週末。春香はいつものように、律のマンションを訪れていた。
玄関を開けてリビングに通された瞬間、春香は思わず「わあ……!」と声を上げた。
部屋の空気が、まるで違う。
あんなに床を占領していた、雪崩を起こしそうだった本の山が、すっきりとなくなっていたのだ。残された本は本棚に整然と収まり、床にはもうほとんど物が無く、部屋の隅に雑多な物と段ボールが積んであるだけとなっていた。
「藤北さん、これ……!」
「驚きましたか?」
律は少し照れくさそうに、けれどどこか誇らしげに微笑んだ。
「実は、この一週間で自分で整理してみたんです。緑野さんに教わった通り、『今の自分に本当に必要なものか』と問いかけながら進めたら、案外スムーズに手放せました」
その言葉に、春香は胸が熱くなった。
本は、彼が身にまとっていた、重い鎧だ。それを、彼は春香の指示を待つことなく、自らの意志で脱ぎ捨てたのだ。
「すごいです、藤北さん。本当に、見違えるようです」
「緑野さんのおかげですよ。……それで、残りの片付けですが」
「あ、その前に。今日、藤北さんに渡したいものがあるんです」
春香は持参したトートバッグから、クリアファイルに入れた一枚の紙を取り出した。
「先日、洋食屋さんで『理想の部屋』のお話をしてくれましたよね。それを……絵にしてみたんです。友人に絵が得意なコがいて」
春香は、めもすたが描いたイラストを、そっと手渡した。
律は受け取った紙に視線を落とし――そのまま、息を飲んで固まった。
窓際に置かれた、座り心地の良さそうな一人掛けのソファ。サイドテーブルに乗ったコーヒーカップと小説。窓や律の今使っている本棚も描かれており、この部屋の絵だと一目で分かった。
「これ……」
律の指が、震えるようにイラストの表面をなぞる。
「俺の頭の中にあった、ぼんやりとした景色が、そのまま……」
「具現化してみた方が、ゴールがわかりやすいかなと思って。どうですか?」
「どう、なんて……素晴らしいです。こんなに具体的に見せられたら、絶対にこの部屋を実現させたくなりますね」
律は顔を上げ、これまでで一番明るく、晴れやかな笑顔を見せた。
「残りの片付けも、よろしくお願いします」
すっかりやる気に満ちた律と春香は、部屋の中を見渡した。
「リビングは本当に綺麗になりましたね。次は、お洋服の整理にしましょうか? クローゼットの中はいかがですか?」
春香が次に進もうと提案すると、律は少しだけ言葉に詰まり、気まずそうに視線を泳がせた。
「服、ですか。……実は、クローゼットは奥の寝室にありまして」
「あ」
春香は小さく声を漏らした。
一人暮らしの男性の寝室。片付けのためとはいえ、女性が入るのはハードルが高い。
「服に関しては、本と同じように自分でやってみようと思います。その…さすがに、緑野さんを寝室に入れるのは、…申し訳ないので」
律が耳の端を赤くして、小さく咳払いをする。春香も自分の顔が赤くなっているであろうことを自覚しつつ、慌てて答える。
「そ、そうですか! すみません、私の方こそ配慮が足りなくて。お洋服の整理は藤北さんにお任せします!」
少しだけ照れくさい、むず痒い空気が二人の間に流れる。
「……では、気を取り直して。リビングの残りの細々とした生活用品を定位置に収めていきましょうか」
春香がそう言って、再び部屋を見渡した時だ。
部屋の隅、積んである段ボールがいくつもある。その中で、ひとつだけガムテープで幾重にも、これでもかというほど厳重に封がされている古いものがあった。
「藤北さん、あの箱は……?」
春香が指差した瞬間、律の肩がビクッと跳ねた。
先ほどまでの晴れやかな笑顔が、さっと消え去る。顔には血の気がなくなり、彼の瞳が揺れた。
「……あれは」
律は箱に近づこうとしたが、その足取りはひどく重かった。箱の前に立つものの、手はだらりと下ろされたままで、ガムテープに触れることすらできない。
その横顔を見て、春香はハッとした。
(わかる……)
その表情。その強張った空気。
それはつい数日前、春香自身が、食器棚の奥から「元カレとのペアマグカップ」の箱を引っ張り出した時の感覚と、同じだったのだ。
あの箱の中には、きっと彼にとって、直視したくない過去や、重たい感情が詰まっている。彼自身を守るために、何重にもガムテープを巻いて、モノの山の奥底に封印していたのだろう。
無理に開けさせてはいけない。
春香はそっと律の隣に歩み寄り、箱を見つめたまま立ち尽くす彼に、優しく声をかけた。
「藤北さん。無理して、開けなくてもいいですよ」
「え……」
「すごく、開けたくないですよね。開けたら、見たくないものを直視しなきゃいけない気がして」
春香の言葉に、律は驚いたように目を見開いた。痛いところを突かれたというより、どうしてそこまでわかるのかと戸惑っているようだった。
春香は、自分の壁を思い出しながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……私も以前、どうしても開けたくない箱を開けたんです」
「緑野さんが、ですか?」
「はい。ずっと見ないふりをして、奥の奥に押し込んでいた箱です。開けたら、自分のダメなところや、逃げていた過去と向き合わなきゃいけなくなるから、怖くて」
春香は律を見上げて、ふわりと微笑んだ。
それは、傷つき、悩んできた一人の人間としての、不器用で温かい笑顔だった。
「だから、藤北さんが今、その箱を開けるのがどれだけ怖いか、わかる気がします。……準備ができるまで、一緒に待ちますよ」
静かな部屋に、春香の声が優しく響いた。
律は何も言わず、ただ震える瞳で春香を見、そして目の前の箱を、じっと見つめた。
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