15.オムライスとプリン、甘いご褒美と縮まる距離
「もしよろしければ……この後、お礼に夕食をご馳走させていただけませんか?」
春香はバクバクいう心臓を抑え、慌てて首を横に振った。
「えっ⁉ いえいえ、私はあくまでモニターとしてやらせていただいている身なので、そんなお気遣いは……!」
ただでさえ嘘をついて上がり込んでいるのに、ご飯までご馳走になるわけにはいかない。
「そうおっしゃらずに。本当に、今日は助かりました。あの本の山を見るたびに、ずっと苦しかったんだと、さっき初めてわかったんです。それを言葉にする機会をくださったお礼をしたくて……だめでしょうか」
少し困ったように眉を下げる彼に、春香は「……わかりました」と頷くしかなかった。
*
律が案内したのは、マンションから歩いて七分ほどのところにある、こぢんまりとした洋食屋だった。
木の扉を押すと、カランコロンとドアベルが鳴る。白いエプロンをしたご主人が「いらっしゃい」と言った。
律がカウンター奥のテーブル席に案内してくれる。
「よく来るんですか?」
「近所なので、たまに。……実は、ここのオムライスが、すごく好きなんです」
律が少し照れくさそうに言った。そんな律を見て、春香の緊張はふっと解けた。
「じゃあ私も、オムライスにします」
「……ぜひ」
*
オムライスが運ばれてきた。
運ばれてきたオムライスは卵がとろとろで、その上からデミグラスソースがかかっている。湯気が立ち上って、バターと卵とソースの香りが混ざり合った、幸せな匂いがした。
「……おいしい」
思わず声が出た。
口の中に広がる温かさが、今日一日の疲れをほぐしてくれる感じがした。
「でしょう」と律が言う。その声が、少し誇らしそうだった。
春香は律の顔を見た。会議室の律でも、部屋の律でもない。オムライスを食べている律。それがなんというか、ずっと見ていたかった。
「藤北さん」
「はい」
「部屋に帰るのが、少しでも楽しくなりましたか?」
律がスプーンを止めた。少し考えてから、「……なりました」と言った。
「前は帰っても、どこにいればいいかわからない感じがしていたんですが」
「今は?」
「外から帰ってきた、という気がします。…少しだけ」
春香は胸の奥が温かくなった。
部屋を自分の帰る場所と認めつつある、そんな感じなのかなと思う。
「それは、よかったです」
春香はスプーンを動かしながら、ふと聞きたいことを思い出した。
「藤北さん、聞いてもいいですか」
「はい、どうぞ」
「会社で、誰からも頼りにされていい仕事をされておられるのに……どうして、あんなに本をたくさん買っていたんですか?」
律がスプーンを止めた。
春香は聞きすぎたかな、と思った。律は少しだけ視線を落として、伏し目がちになった。
「……俺は、昔は要領が悪くて、期待に応えられないことばかりで
——昔、ある人から言われたことがあって」
言うか言わまいか一瞬の溜めの後、律は言った。
「『お前は本当に使えないな』と」
春香は胸の奥に、鈍い痛みを感じた。
「その言葉が……ずっと、残っているんだと思います」律が続けた。
「だから、常に知識を入れて、誰かの役に立つ人間でいないと、また見放されて、自分の居場所がなくなってしまう気がして」
春香は律を見た。
——傷つきながらも必死に背伸びをして、ずっと戦ってきた人だと思った。
「使えない」と言われた日から、ひとりで戦い続けてきた人。仕事を完璧にこなしながらも、誰かに見放されないように、本を買い込む。自分の部屋が、心が、荒廃していっても気づけない、不器用な人。
春香は、どうしようもなく、この人のことが愛おしくなった。
ただの憧れでなく、お近づきになれたらいいなでもなく、守ってあげたい、そう思う。
そして、たぶん、この人の心の壁は相当厚い。
どうしたらこの人は、自分で自分を認められるのだろう。
今は、私の声は届かない、分かっていても言わずにはいられなかった。
「藤北さんは、十分です」
律が春香を見た。わけがわからない、そんな風に瞳が語っている。
「あ、ええっと、その…今のままの藤北さんが、もう全てで、全部推せるっていうか!そう、推しです!だからそんな無理はしなくってもいいんです。存在するだけで尊いんで!」
自分でも支離滅裂になっているなぁと頭の片隅では思いつつ、恋心を「推し」という言葉に置き換えて、慌てて言い繕った。
「…推し、ですか」
そう言った律の顔色は変わらなかったが、耳が赤くなっていた。
(うわぁ、やってしまった……! なんてこと言っちゃったんだろう)
お冷を一気に飲み干し、気まずくなりモクモクとオムライスを食べながら春香は心の中で盛大に頭を抱えた。
向かいでカチャ、とスプーンを置く音が響く。静寂が下りたテーブルには、いつの間にやら空になったオムライスのお皿が2枚。
律の顔をまともに見られず視線を泳がせていると、不意に彼が小さく吹き出すような音を立てた。
「ふっ………『推しです』なんて、初めて言われました」
恐る恐る顔を上げると、律は口元を片手で覆いながら、柔らかく笑っていた。耳はまだ少しだけ赤い。
「緑野さんは、本当に不思議な人ですね」
「えっ」
「あなたがそう言ってくれると、なんだか本当に……これまでの自分も、許されたような気持ちになります」
穏やかな声色に、春香の胸がトクンと鳴った。先ほどまでの張り詰めた空気が嘘のように、二人の間には温かな時間が流れている。
「緑野さん、お腹に余裕はありますか?」
「はい?大丈夫ですけど……」
*
律は追加で自家製カスタードプリンと飲み物を2人分頼んだ。
やがて運ばれてきたのは、ホイップクリームとさくらんぼが乗った、銀の器に入った昔ながらの固めプリンだ。律はそれをオムライスの時以上に目を輝かせ、とても幸せそうに口に運んでいる。
春香もひとさじ掬い、口に運ぶ。カラメルの苦みと、卵の甘さが混ざり合った、懐かしい味が舌に広がった。
和やかな空気の中、春香はコーヒーのカップを両手で包み込みながら、これからの片付けに思いを馳せた。
「床も広くなりましたし、これからもっと過ごしやすくなりますね」
「はい。おかげさまで」
「……藤北さんは最終的に、あの部屋をどんな風にしたいですか?」
春香がそう尋ねると、律はプリンを飲み込み、少し遠くを見るように視線を上げた。
「そうですね……静かに、息ができる部屋にしたい、です」
「静かに、息ができる?」
「休日の朝に、自分でコーヒーを淹れて、今日捨てずに残した小説をゆっくりと読むような部屋にしたいです。座り心地のいいソファを窓際に置いて。夜は天井の電気を消して、あたたかいオレンジ色の間接照明だけで過ごすような……そんな、深く呼吸ができる部屋に」
ゆっくりと紡がれる具体的な情景が、春香の頭の中にも鮮明な一枚の絵のように浮かび上がる。
「すごく素敵ですね。なんだか、私までその景色が見えるみたいです」
春香が微笑むと、律も「実現するといいのですが」と優しく微笑み返した。
「緑野さんは?」
「え?」
「緑野さんの部屋は、どんな部屋ですか?」
春香は少し驚いた。聞き返されると思っていなかった。
「私は……人が訪ねてきたとき『どうぞ』って言える部屋、です」
「いいですね、それ」 律が静かにうなずいた。
窓の外に夜の街が広がっている。ご主人が奥で鍋を洗っている音がする。
春香は、この時間がもう少し続けばいいと思った。
*
「駅まで送ります」
店を出ると、すっかり夜の空気だった。
駅へ向かう帰り道、並んで歩く二人の距離は、以前よりも近くなっていた。
楽しいデート回になるはずが思っていたより重くなってしまったので(汗)
14話で話の流れ上カットしたこぼれ話をば。
律:「でも、本をそのまま捨ててしまうのは……少し、忍びないですね。本に対して申し訳ないというか」
春香:「大丈夫です。燃えるゴミにはしません。リサイクルショップやフリマに出しましょう。藤北さんにとって役割を終えた本でも、今まさにその本を必要としている別の誰かがいます。次の人のところへ旅立たせてあげるんです」
律:「次の人のところへ……。なるほど、それなら手放せそうです」
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