12:愚者 VS 荷物持ち
僕が持てる限りの速度で駆け抜け、間一髪で間に合った。……本当にそうだろうか?
傷だらけのスライムの魔獣さんと、その目から流れる涙。そして、目の前で不機嫌そうに立っているマックさんを横目で捉える。
間に合ったんじゃない。遅すぎたんだ。 でも、まだ手遅れじゃない。
僕は屈み込んで二色のスライムを拾い上げると、両手でそれを回転させた。
「……ベラミ。お前……」
「すみません、マックさん。僕は、あなたがスライムの魔獣を殺すことを許可しません」
「……あぁそうかい。許可が必要な話なのかは知らねえが――邪魔をするなら容赦はしねえぞ、ベラミ」
言い放つなり、マックさんはマナを纏った速度で肉薄してきた。彼は剣を構え、黒い刀身を跳ね上げる。鋭い斬撃が僕の体を切り裂こうと迫る。刃はないはずなのに、想像を絶する速度と、未知の質量がそこにはあった。
『プラス』と『マイナス』。それが黒い剣の特性。
マナによる命令で、重量を増加させ、あるいは減少させる。
先日、僕は彼からこの剣の戦い方を見て学んだ。だから、対処法が分からないはずがない。
黒い影が目前に迫る。
「『プラス』」
「ふんっ!」
僕は二匹のスライム、「レッドグレイヴ」と「グリーンティフ」を盾にした。発動させた特性は『粘液』だ。これならば『プラス』の重圧であっても、一瞬で突破されることはない。衝撃を一時的に食い止めたその隙に、僕は短剣を抜き放ち、三振りを同時に投げつけた。
「『マイナス』」
マックさんは剣を引き戻して短剣を弾くと、スライムの死角から再び剣を振り抜こうとした。僕はすぐさまスライムを防御に回したが、今度は『プラス』の命令が聞こえない。彼は剣を引くと同時に、高速でサイドへと回り込んだ。
一点突破の爆発的な移動ではない。今の彼は全身にマナを循環させ、一瞬で全体のスピードを引き上げている。
当然、僕の反応が追いつくはずもない。
彼は剣を天に掲げ、一気に振り下ろした。
「『プラス』」
僕は限界まで後退し、カバンの中にいたもう一匹のスライム「ブルージェン」を膝で弾き出して防御させた。
『粘液』状態のブルージェムが黒い剣を止める。渾身の一撃だったがゆえに、彼は剣を引き戻す一瞬の隙を見せた。僕はその機会を逃さず、剣を振るって反撃に出る。もう片方の手では、背後に回り込ませていた『レッドグレイヴ』と『グリーンティフ』を掴む。
マックさんは素手で僕の剣を弾いた。体格差を活かし、拳で柄を叩きつけるようにして。
「くっ……!」
剣が手からこぼれ落ちる。同時に、彼は黒い剣の引き戻しに成功した。
『マイナス』。彼が追撃を仕掛けようとしたその瞬間、僕は『レッドグレイヴ』と『リーンティフ』を投げつけた――マナを注ぎ込み、『硬化』の特性を与えて。
「――っ!!!!」
ドォォォォォン!!!!
二色のスライムが彼の体に叩き込まれる。寸前で黒い剣が盾として間に合ったものの、凄まじい衝撃に彼は四、五メートルほど吹き飛ばされた。口端から血が滲む。レッドグレープとグリーントリーフは、僕の【愚者】の特性によって、持ち主である僕の手元へと戻ってきた。
「……はは……人を殺せるレベルの衝撃だな、おい。おまけに武器を呼び戻せるとは。どんなデタラメな術だよ」
「とりあえず【スライムの術】と名付けておきます」
「へぇ、面白そうじゃねえか」
マックさんは血を拭い、息を整えた。そして一人の剣士として、黒い剣を正しく構えた。……いや、「一人の剣士として」ではない。「本物の剣士」としてだ。
刀身からマナが吹き荒れる。マックさんはわずかに身を沈め、『マイナス』の状態で剣を振り抜いた。
「『剣気』!!!!」
速すぎる。
完全にかわすことは不可能だった。
剣気が僕の肩を切り裂き、鮮血が舞う。激痛が全身を貫いた。
「っ……!」
幸い、急所は避けることができた。僕は奥歯を噛み締め、三歩後退すると、三色のスライムをすべて投げつけた。マックさんはそれらを弾き飛ばし、周囲を旋回するスライムの弾幕を掻い潜って接近してくる。
守っているだけでは、すぐに動きを見切られる。そう判断した僕は、自らもマナを纏って突っ込んだ。マックさんと同じように。僕たちは互いの剣技、そして持てるすべての技術と武器をぶつけ合い、激しい交戦を繰り広げた。
剣技、魔法、武器が、戦闘の間中めまぐるしく入れ替わる。守勢に回っているのは、大部分が僕の方だ。
不用意な動きは即座に敗北へと繋がる。あの黒い剣――『プラス』の状態は、僕の生身など容易に粉砕できるからだ。たとえマナで防御していても抗うことはできず、もし直撃を食らえば、何が起きたのか理解する間もなく終わるだろう。
それが最も恐ろしい点だが、それだけではない。
あの剣以上に、上位冒険者であるマックさんという男そのものが異質だった。
剣に関する高ランクのギフト保持者に引けを取らない、知識と経験に裏打ちされた剣術。
攻めるためではなく、相手を阻害するために絶妙なタイミングで放たれる魔法。下級魔法ゆえに、その発動は極めて速い。
戦況を意のままに操るための剣技。そして最後には、この戦闘の指揮者であり切り札でもある、あの黒い剣が控えている。
中級にも満たない数多の技術が完璧に組み合わされ、中心にある黒い剣を支えている。そのすべてが、この男の戦い方を「上位冒険者」の名にふさわしいものへと昇華させていた。
いや、ふさわしい賛辞はそれだけではない。
「……っ!」
僕は追い詰められ、何度後退したか分からない。
同じゴールドランクの冒険者であっても、彼はさらにその上を行く。はっきり言って、プラチナランクだと言われても疑いようがない……!!
とんでもなく強い!
「それでもまだ防ぐか――『プラス』!!!」
「くっ!」
黒い剣が地面を穿ち、巨大な穴が開く。僕はその隙を突いて剣を振るったが、マックさんは初級の火炎魔法を至近距離で放ち、僕の体勢を崩した。そのまま彼は体を捻り、『マイナス』の状態で剣を振り抜く。
「『剣気』」
『マイナス』状態の黒い剣はあまりにも速い。重量がゼロになるだけではなく、まるで重さが「負」の値になり、さらに加速しているかのようだ。このふざけた剣は一体何なんだ。おまけに『マイナス』から繰り出される剣技は、本来の速度を遥かに凌駕している。
そうだ。この男が放つ『剣気』は、あの黒い剣によって、通常のものより圧倒的に速い。
もはや「上位剣技」と呼べるレベルに達している。
今度はかわせなかった。剣気が僕の胴体を直撃し、口から血が吹き飛ぶ。 僕は地面に倒れそうになり、手の中にいた三色のスライムたちが空中に投げ出された。
絶好の機会と見て、マックさんが踏み込んでくる。――僕がこの瞬間を待っていたとも知らずに。
三色のスライムたちが僕のもとへ戻ってくる。僕はあえて自分の剣に三匹を纏わせるように誘導し、後退しながら剣を構え、一気に振り下ろした。
「『断』!!」
「―はっ」
三色のスライムが光を放つ。それは、走り抜けるための技術を模倣した時と同じ――「爆発」と「循環」の命令を書き込んだ時の光。だが今回は、まだ僕が使うことすらできない中級剣技『断』を再現するために、計六つの命令を詰め込んだ。威力だけなら、それは上位級に匹敵する。
マナが少ないゆえに全身の強化を常に維持できず、要所要所で切り替える彼にとって、この一撃は肉体を容易に叩き潰す脅威となる。
右腕、いや、右半身の付け根から中級剣技によって切り裂かれた。噴水のように鮮血が舞う。彼は顔面蒼白になり、体勢を崩してその場に崩れ落ちた。
攻撃は右側に逸れ、胴体への直撃による決着には至らなかったが、反撃のチャンスだ。
僕は追撃のために剣を振り上げた。しかし――パキンッ! 剣はマックさんに届く前に粉々に砕け散った。
「……!」
この点を考慮していなかった。僕の使う剣技は通常とは違う。僕からスライムを通し、それから剣へと伝わる。そのため、剣はスライムからの負荷を直接受けることになる。
普通の剣では、耐えられなかったんだ。
「うおぉぉぉぉぉぉ!!!!」
マックさんが立ち上がり、剣を薙ぎ払った。
「『剣気』!!」
再び放たれた『マイナス』の剣技。しかし、今の彼の満身創痍な状態では、精度は極めて低い。次に来る攻撃を察知していた僕は、わずかに耳を掠める程度でそれを回避した。だが、それだけでは終わらない。
狂戦士のギフト――「狂乱」のように、傷つくほど強くなるかのような第二波が襲いかかる。いや、違う。
「荷物持ち」が瞬時に立ち上がり、鋭く踏み込んできた。スライムが僕に戻る間も、僕が何かを仕掛ける隙も与えない。彼は黒い剣を天高く掲げ、叩きつけた。
「『プラス』」
黒い剣が僕の左腕に直撃した。左腕はあり得ない方向へとねじれ、もはや腕の形を留めていない。それは、腕に張り付いたおぞましい肉塊のようだった。
「っ――がぁぁぁぁぁぁ!!!!」
痛い。痛い。生まれてから一度も感じたことのない激痛。
僕は地面をのたうち回り、黒い剣の重みに押し潰されて身動きが取れなくなった。
涙が溢れ出す。激痛をこらえるために唇を噛み締めた。同時に、対話者もまた傷の深さに耐えかねて地面に膝をつく。全身血まみれで、右腕からも血が流れ続けている。彼の瞳から光が消えかかるが――…..それは、ほんの一瞬のことだった。
再び瞳に光が戻り、意識が研ぎ澄まされる。まるで不要なものをすべて脳から削ぎ落としたかのように。僕とは比べものにならない膨大な経験を持つ、この男こそが上位冒険者。平凡なギフトを抱えながら、至高の領域に立つ者。
「……化け物かよ……」
マックさんは立ち上がり、途方もなく重い黒い剣を再び持ち上げようとした。しかし……。
「くっ……」
今の彼には、剣を持ち上げる力は残っていなかった。彼は不快そうに「チッ」と舌打ちをすると、僕に向かって手をかざした。
魔法でとどめを刺すつもりだ。しかし――。
「やめて!」
スライムの魔獣が彼に体当たりをした。ひどく傷つき、残りわずかな力を振り絞って彼に抵抗しようとしている。
幸いなことに、マックさん自身も深手を負っていた。彼はよろよろと後退しながら防戦に回り、魔獣スライムを排除する方法を探っている。
だめだ。そんなことは絶対に許さない。
三色のスライムが戻ってきた。僕はレッドグレイヴを掴み、特性を『鋭利』に書き換えた。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
そして、僕の動きを縛り付けていたものを切り離した。
僕は再び立ち上がった。体調は最悪だ。身体のバランスを保っていた腕を失ったことで、足取りがふらつく。それでも、僕は急いで二人のもとへ向かった。魔獣スライムの肩を引いて遠ざけ、残った方の手でスライムを掴んで投げつける。
意識が混濁していたせいだろうか。僕はスライムに特別な命令を出すことも、戦闘中ずっとやってきた「魔法からスライムを守る動き」をすることもできなかった。それが致命的なミスとなった。
マックさんが肩から僕にぶつかってきた。僕は地面に倒れ込む。
彼は初級魔法では僕の命を奪えないことを知っていた。だから、僕のもとへ戻ろうとする三色のスライムを指差した。
「『ファイヤー・ウィンド』」
二つの魔法が組み合わさった合体魔法が、同じ方向に飛んでいた三色のスライムを直撃した。そして、スライムたちは跡形もなく霧散した。……あぁ、これはまずいな。
なんていうか……もう、立ち上がるのもきつい。
僕たち二人が似たような状態だったせいか、互いの動きは極めて鈍くなっていた。今の状態なら、ゴブリン一匹にさえ二人とも勝てないだろう。……それはスライムの魔獣も同じだ。彼女は地面に座り込んで息を荒らげ、僕の方へ這ってこようとしている。
「……ベラミ、ここまでやるとは思わなかったぜ」
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「だが、俺の勝ちみたいだな」
マックさんは足を引きずりながら黒い剣のもとへ歩み寄り、それを拾おうとした。しかし……できなかった。
「……」
マナが足りない。今の彼の肉体では持ち上げられず、黒い剣に命令を下すのにもマナを消費する。……ということは、まだ負けていない。
僕は再び立ち上がろうとした。
「……はぁ……はぁ……っ……!」
なんとか膝をつくことができた。そこからさらにもう一度力を振り絞って、立ち上がる。瞳が夜空に浮かぶ月を捉えた。……いつの間にか暗くなっていたんだ。その上、雪が激しく降り始めている。
戦っていた時間はそれほど長くなかったはずだが、身体が冷気に包まれていることに全く気づかなかった。そして、さっきまで死ぬほどの激痛に襲われていたことも忘れていた。
痛みは感じない。ただ、冷たさだけを感じていた。
「はは……ははっ、なんだよそれ」
体がそんな風に動くわけがない。
どうやら、脳がおかしくなってしまったらしい。
僕はマックさんの方を向き、ふらふらと歩み寄った。彼は大きく溜息をついた。
「……『マイナス』」
……『マイナス』だって?
黒い剣が再び持ち上げられた。
一瞬、死神が彼と重なって見えた。
平凡なギフト、身長、容姿……すべてがひどく平凡なその男が、黒い剣を肩に担ぎ、瞳に光を宿して僕を見据えている。……地味な面のくせに、今この瞬間だけは、どうしようもなく格好良く見えた。
「……尊敬しちまうな、全く」
彼はマナが底を突いているはずなのに、まだあの剣を持ち、命令を下せるのか? あぁ、そうか。命令のためにマナを消費するのは『プラス』の時だけ。『マイナス』は、自分に引き戻す工程なんだ……なるほどな。
本当に素晴らしい剣だ。 体はボロボロ、スライムも使えない。……けれど、まだマナは残っている。
僕は手を伸ばし、魔法を叩き込む構えを取った。だが、視界が急に暗くなる ―それはどうでもいい。
「……『ファイヤー』」
複雑な多段魔法を組む余裕なんてない。今は、この一手で十分だ。目の前の男をもう一度地面に沈められれば、それでいい。
最後のマナを振り絞る―だが、黒い剣はマナを纏っていた。その剣は僕の魔法をかき消し、真っ直ぐに迫ってくる。僕は後退した。必死に下がりながら、安っぽい単発魔法を放ち続けるが、その度に剣に宿るマナに弾かれた。
そしてついに……僕のマナも空になった。
「……あぁ、まずいな、これは……」
マナが尽きれば、抗う術は何もない。
「……だめ……そんな……」
スライムの魔獣が絶望した瞳で僕を見つめ、涙ながらに声を上げた。僕は彼女から目を逸らし、ただ顔を伏せて現実を受け入れるために目を閉じた。
やがて、彼は僕の目の前で足を止めた。マナの残滓を宿した刃のない剣の先が、僕の胸元に触れた。
まだ、トドメは刺さない。
何か、言い残したいことでもあるのか?
「……理由が、あるんだろうな」
「……ええ」
「なら、先に話し合っておくべきだったな」
「……ははは、その通りですよ」
「全くだ。後悔先に立たず、ってか」
彼はそう言うと、胸に触れていた剣先の感触が消えた。顔を上げると、彼の瞳から光が失われていた。その体は、ゆっくりと仰向けに地面へと倒れ込んだ。
死体―まるでそう見えるほど、静かだった。
それは僕も、同じだ。
「……もう、限界だ……」 僕の体も同じように地面へと崩れ落ちた。スライムの魔獣の叫び声を、遠くに聞きながら――。




