11:スライムの魔獣は、消えたくない。②
スライムの魔獣は消えたくない。ただ、消えたくない。それだけだった。
上位冒険者が黒い剣を抜いた。形も刃もないその黒い剣が天に掲げられ、振り下ろされる。彼女は飛びのいて回避しようとした。おそらく、射程からは逃れられたはずだった。
しかし。 「『プラス』」 黒い剣が猛スピードで叩きつけられ、魔獣の右腕を直撃した。衝撃を受けた瞬間、腕はあり得ない方向にねじ曲がる。
謎の重みが増した一撃によって、彼女は一瞬にして片腕を失った。激痛が全身を駆け巡る。しかし、何が起きたのかを理解する暇も、悲鳴を上げることさえ許されなかった。
「――『マイナス』」
地面に沈んでいた黒い剣が止まった。そして彼女の腹部めがけて薙ぎ払われる。先ほどと同じ言葉と共に。
「――『プラス』」
ドスッ!!!! 肉を粉砕するほどの凄まじい衝撃が、魔獣の身体の真ん中に叩き込まれた。彼女の体は衝撃で地面を何度も跳ねながら吹き飛び、木に激しく激突した。
拳を振り出してから、わずか数秒。彼女の身体は想像を絶する苦痛に襲われ、片腕を失い、頭からは血が流れ、腹部は無惨に潰れていた。そして、受けたダメージの反動がじわじわと全身に広がり始めていた。
普通の人間なら、この一撃だけで確実に死に至るだろう。
「はぁ……はぁ……痛い……はは……痛すぎるよ……」
「魔獣にしてはタフだな」
彼女よりも数段格上の冒険者が歩み寄ってきた。黒い剣に「マイナス」と短く告げた後で。
魔獣はひどく傷ついた腹部を押さえ、よろよろと後ずさりして逃げようとした。そして背を向け、残った力を振り絞って走り出した。
「スライムを出して戦えよ、魔獣」
「……そうだな」
魔獣は手を掲げて色とりどりのスライムを召喚し、投げつけた。だが、それらはすべて簡単に弾き飛ばされ、あるいはかわされた。今度は冒険者の番だった。分が悪いと察した魔獣は、再び背を向けて全力で走り続ける。
それを見た冒険者は剣を天に掲げ、「マイナス」と唱えてからそれを投げつけた。「マイナス」による信じられないほどの速度で。
「――っ!」
魔獣に追いついた瞬間。
「『プラス』」
再び衝撃が魔獣を襲った。今度は背中の真ん中だ。彼女は雪が降りしきる地面に倒れ伏した。
……あぁ、もうここまでなのだろうか。
それでも彼女は、制御の利かなくなった身体を無理やり動かして、地面を這いずり続けた。身体から血が流れ出し、視界がかすみ始める。……溢れ出す涙のせいで、前方の景色はほとんど見えなかった。
死の間際、彼女の脳裏に唯一残されていたもの。
「……消え、たく……ない」
「何を言っているのかさっぱり分からん」
やがて、冒険者が彼女のもとへ辿り着いた。
「マイナス」と唱えて黒い剣を肩に担ぎ、消えたくないと願う魔獣の前に立ちはだかった。
「……どいて……」
「惨めな姿だな。……安心しろ、ここで殺すつもりはない。だが、大人しくしてもらうぞ。すぐにあんたを引き取りに来る。魔獣は人類のために捕らえられなければならないんだ」
「……」
「俺の言葉が理解できないのか? 仕方ないな、種族が違うのだから」
違う。魔獣はこの男の言葉をすべて理解している。理解していないのは、向こうの方なのだ。
「だが、この状況なら自分の立場は分かるだろう? 大人しくするか、死ぬか。二つに一つだ」
「……」
少なくとも、大人しくしていれば「消える」ことはない。けれど――それは他人に押し付けられた役割を受け入れることと変わらない。大人しく捕まり、全体のために利用され、時が来れば死んでいく。
そんな人生は……嫌だ。
「嫌だ……!」
魔獣は石を拾って投げつけた。冒険者は首を傾けてそれをかわすと、抵抗を止めさせるために彼女の体を蹴り飛ばした。
「ぐはっ!!!」
痛い……痛い……苦しい。……もう嫌だ。けれど……やはりできない。
あぁ……ははは……。彼女は依然として、近くにある石に手を伸ばして投げようとした。しかし、もう力が入らない。尖った石は彼女の顔の上に落ち、新たな傷を作っただけだった。
「……本当に、負けちゃったな。……君に言われた通り、パンチしてみたけど……やっぱりダメだったよ」
魔獣は目を閉じた。意識を飲み込もうとする闇に抗うことができず、過去の情景が再び蘇ってきた。
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それは、初めて出会ってから数時間後のことだった。
洞窟の前で、その「愚者」は傲慢な態度で腕を組み、魔獣がその傍らに立っていた。早朝の陽光が差し込み、旅を再開するにはこれ以上ないほどふさわしい雰囲気だった。
「おい、魔獣。お前、行く宛てはないのか?」
「……うむ。魔獣には住処などない。ただ彷徨うだけ」
「へっ、惨めなもんだな」
「愚者と大差はないと思う」
記憶の中の愚者はそれを聞くと鼻で笑い、魔獣の頭を力一杯かき回した。少し頭が痛くなるほどの強さで。
「嫌だ。やめてくれ」
「俺様に口答えするんじゃねえぞ。覚えておけ。それに、俺様には行く宛てくらいある。今回は北の方へ行ってみようと思ってんだ」
「……そうか」
「ああ。それで、どうする?」
「……どうする、とは?」
陽光が愚者の顔を照らし出した。黒紫色の髪と、そのダイヤモンドのような瞳は、この上なく美しく見えた。
愚者は魔獣に向かって笑いかけた。
「一緒に行くか?」
「……え?」
「行く宛てがないんだろう?」
「だが……我は魔獣だぞ」
「……それがどうしたってんだよ?」
愚者は何でもないことのように問い返した。それは、この男の本心からの言葉だった。
「行くのか行かないのか。聞きたいのはそれだけだ。行くなら短く『うむ』とだけ言え。長々と喋る気はねえんだ」
魔獣は、自分の心がわずかに温かくなるのを感じ、思わず答えた。
「うむ……!」
それから、数百年前の
愚者との冒険が始まった。たとえそれが終わりのある旅だったとしても、その時の感覚が色褪せることはなかった。それは、人間のような居場所がなくとも、前と同じように放浪を続けていたとしても、自分が自分の居場所を見つけたのだと感じさせてくれる歓喜だった。
それは自分の土地でも家でもなかった。自分という存在を認めてくれた人間、そして自分を人間と同じように受け入れてくれた仲間たちとの物語だった
「愚者」も、そして共に旅をした同時代の「勇者」も。
彼女は、この世界の他の命によって、生き続けることを許されたのだ。 生きる許可を得ることは、本来他人に乞うものではない。けれど……それでも……。自分以外の誰かの口から「生きていてもいいよ」と言われることは、何にも代えがたい喜びだった。世界の異端児である自分が、受け入れられた証なのだから。
蘇る数々の記憶が、彼女を前よりも強く「消えたくない」と思わせた。 絶対に、消えるわけにはいかない。――魔獣スライムは意識を取り戻し、ボロボロになりながらも立ち上がった。
「……はぁ、はぁ、はぁ……あぁ」
「……チッ、まだ立ち上がれるのか」
目の前の冒険者は大きくため息をつき、再び黒い剣を天に掲げた。
魔獣は目を見開いた。目を逸らすことも、逃げ出すこともしない。避けられないとしても避け、それから逃げるのだ。―黒い剣が再び襲いかかる。
彼女が逃げ切れるはずはなかった。彼女は弱く、「愚者」と同じで、「勇者」とは違う。
けれど……えっ。
風にたなびく黒髪が、彼女の目の前に現れた。あのダイヤモンドのような瞳も。あの時の「愚者」に似ているが、違う。目の前にいるのは、弱さを拒絶した「愚者」――「愚者ベラミ」なのだ。
ベラミはスライムを使って黒い剣の攻撃を止め、それを弾き返すと、彼女を庇うようにして冒険者の前に立ちはだかった。
「……遅くなってすみません」
ベラミは、悲しげで、けれど同時に嬉しそうな微笑みを浮かべて彼女を振り返った。
「助けに来ましたよ」
「……」
助けに来た? ……そうなのか。
それは……この時代でも、彼女は生き続けていいということだろうか?
やがて、彼女の目から再び涙が溢れ出した。けれどそれは悲しみや痛みではなく、歓喜からくる幸せの涙だった。
「あなたが死んでいなくて、本当に良かったです」
「うむ……!!」
またしても、魔獣は…… 。
我は、「愚者」に救われたのだ。




