11:スライムの魔獣は、消えたくない。①
スライムの魔獣は歩き出した。道もなければ、行く先を示す矢印もない。ただ、心が望むままに南へと歩き続けた。そんな旅の途中だった。
「……ん?」
雪が舞い降り、彼女の頭に触れた。彼女は顔を上げ、手のひらで雪の欠片を受け止めると、かすかな微笑みを浮かべた。
「……そういえば」
そういえば。ベラミの前の「愚者」と初めて出会ったのも、その土地にその年初めての雪が降り積もった夜のことだった――。
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(スライムの魔獣視点)
我たちはどのようにして生まれたのか。それは、自分がどうやって誕生したのかを知らない人間の赤子と同じ。ただ彼らは、成長するにつれてそれを学び、自ら問いを立てるようになる。一方で、問いかける相手を持たない魔獣は、目覚めたその日から自らに問いを立てることができるのだ。
最初に映った光景は森だった。周囲には自分を凝視するモンスターたちがいたが、襲ってくる気配はなかった。
「……あぁ」
我は歩き出した。様々な場所を旅する中で、人間の存在を知り、この世界におけるモンスターと魔獣の役割を理解していった。そして、何もしていないうちから忌み嫌われるのは仕方のないことなのだと、最後にはそう思うようになった。
我たちの存在は、物語の次の章へ進むために人間が排除すべき「厄災」なのだ。
それこそが「魔獣」。
神は、そのために我たちを創った。それなのに、消えたくないという感情までもを我たちに与えた。
どんな形であれ、魔獣は生き延びようと足掻く。それは人間と変わらない。ゆえに、人類のための踏み台として死ぬのが役割だとしても、簡単には死を受け入れられないのだ。
もし神が実在し、それが人間が勝手に名付けた自然の別名ではないとしたら――神とは、どこまでも残酷で高貴な存在なのだろう。
終わりの時が来るまで続く、果てしない旅。自分はこういう生き方をするしかないのだと、ずっとそう思ってきた。
あの日、転機が訪れるまでは。一人の男に出会ったのだ。
木の上で栄養失調により死にかけていた、痩せこけた男。木の下には彼を殺そうと這い上がろうとするモンスターたちが群がっていた。……人間が、自分と同じような境遇にあるのを初めて見た瞬間だった。
我は、彼を助けることに決めた。
モンスターがひしめく区域から彼を連れ出し、洞窟へ運んで焚き火を熾してやった。
彼は二十歳前後の青年で、黒紫色の髪に小麦色の肌をしていた。身長は極めて高く、人間の平均よりも十数センチは上回っていただろう。しかし、その肩幅は狭く、栄養が足りていないのが見て取れた。……やがて彼は目を開け、ダイヤモンドのような瞳を露わにした。
「……お前」
「お前」だって? 人間ではないとはいえ、長く生きている魔獣には、それが人間にとって無礼な呼び方であることくらい分かる。
「魔獣なのか」
「うむ、魔獣だ」
「あぁそうか。ならいい。腹減った、何か食いもんあるか?」
「……え?」
パニックになることも、襲いかかってくることもなく、彼はそのまま寝転んで食べ物を要求した。
「我は怖くないのか?」
「怖がってほしいのかよ。教えてやるが、裏表のある人間に出くわすより、魔獣に会う方がマシだぜ」
この男は、相当な苦労をしてきたに違いない。そう思うと、憐れまずにはいられなかった――。
「憐れむんじゃねえぞ。大嫌いなんだ!」
「……分かった。少し待っていてくれ」
おかしな人間もいたものだと思いながら、我は魚を捕りに行って焼いてやった。
「まずいな、これ!!」
「……」
いきなり文句を言われた。
食べ終えた彼は、何も気にせず腹をかきながら寝転んでいる。私は膝を抱え、目の前の無礼な男の顔を眺めた。
「……こういう状況には慣れているようだな」
「ん? ああ、まあな。よくあるんだよ。行き倒れて誰かに助けられるなんてのは。へっ、神様ってのは本当にクソだな。他人の人生を勝手にぶち壊しといて、責任も取らねえ。そのくせ、脳内お花畑の連中を次から次へと寄こして助けやがる。まさか魔獣まで例外じゃないとはな」
あぁ、我は「脳内お花畑」になってしまったのか。
せっかく時間を割いて助けてやったというのに。
わずかに苛立ちが込み上げてきた。
「……」
「気に入らねえか? 嫌なら追い出しな。腹は膨れた、もうどこへでも歩いていけるさ」
「……人間、君は何のギフトを授かったのだ?」
「……」
その問いを発した瞬間、静寂がその場の空気を食い尽くした。
「……『愚者』だ」
……愚者。
そういうことだったのか。なぜ人間と対話ができるのか最初から不思議だったが、これで納得がいった。愚者。初めて出会う存在だ。
「名前は?」
「……ジャスパーだ」
「なるほど。『愚者ジャスパー』だな」
「フルネームで呼ぶんじゃねえよ。耳障りでイライラすんだよ」
なぜイライラするのだろう。
気になって尋ねてみたかったが、今はそれ以上に知りたいことがあった。
「愚者も、人間社会から疎外されているのか?」
それが我の疑問だった。疎外するための魔獣という存在がいるというのに、人間同士でも排除し合うというのか。
愚者ジャスパーは目を閉じ、吐き捨てるように言った。
「ああ、そうさ。最高にな。クソ野郎どもめ。こっちが普段からろくでもねえ振る舞いをしてるのは認めるが、この呪われたギフトを授かった途端に王族の地位を剥奪するなんて、やりすぎだろ。心の準備をさせる暇もねえ。おまけに何年も放浪生活に追いやりやがって。チッ、思い出すだけで腹が立つっわ!」
「王族の地位? 元々は高貴な身分だったのだな」
「大国の王子様だったんだぜ、俺様は。最高だろ? 生まれてから唯一持っていた長所だったってのに、その長所まで盗まれちまったんだ」
憐れな話だ。だが、彼は他人に憐れまれることを望んでいない。だから慰めの言葉をかけるつもりはなかった。
「だが、それは仕方のないことなのだろう。……人間もまた、自らの生き方を示す『ギフト』を持っている。愚者のギフトを授かったということは、愚か者として生きなければならない……。それは潔く受け入れなければならない役割なのだ」
「……お前、バカか?」
えっ。
ジャスパーが声を荒らげた。
「なんで俺様が、望んでもいねえ役割を演じなきゃならねえんだよ!!」
「だ、だが、ギフトがそうなら――」
「もし誰かが俺様をバカだと抜かしやがったら、その面をボコボコにしてやるよ! たとえ勝てなくても、一発叩き込んでやるだけで十分だ!」
ジャスパーはガバッと起き上がると、親指で自分を指した。
「この世界で、他人の役割を勝手に決められる奴なんて一人もいねえんだよ! たとえ神が実在したとしても、そいつはただの傍観者にすぎねえ! 脳みそに叩き込んでおけ、この魔獣め!!」
「……」
そうなのか?
我たちに何かをさせることを望む神など、いないというのか。
「……ならば、我たちは生きていても……いいのか?」
「あぁ? そんなもん知るかよ。自分自身に聞きな」
「死にたくない」
「ならそういうこった。もしお前を殺そうとする奴が現れたら、そいつはお前の役割を奪おうとしているってことだ。その時が来たら――拳を握って、そいつをぶん殴ってやれ!」
愚者ジャスパーは尊大な態度で言い放った。
「まあ、結局負けるんだけどな!」
「……ふっ、ふふ……ふふふふっ」
「何がおかしいんだよ、魔獣」
「ふふっ……何でもない。本当になんでもないのだ」
「ああ、ならいいけどよ」
心の声に従って生きる。良くも悪くも、そんなことは気に留めない。常に自分に満足し、自分を責めず、自分を許し、自分を称賛する。この男が見ている世界は、きっと鮮やかな色をしているに違いない。
あぁ……この男の生き方は、ひどく憎たらしい。――「羨ましい」という意味で。
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それが、あの「愚者」から学んだこと。……我たちは誰かに狩られるために、あるいは誰かの試練になるために存在しているのではない。生き続けるということは、死を待つことではない。なぜなら、それは我たちの役割ではない――我自身が望んだことでもないからだ。
……ゆえに、他人の思い通りに消えてやるつもりなど毛頭ない。
「……」
「……」
目の前に一人の男が立っていた。偶然ではない。明らかに待ち伏せをしていた。
標準的な背丈に、平凡な顔立ち。最大の特徴は両頬のそばかすと、腰に差した漆黒の剣だ。
「魔獣見つけた」
「……我を殺しに来たのか?」
「何を言っているのかさっぱり分からん」
魔獣は人間と意思疎通を図ることはできない。対話ができるのは勇者と愚者だけだ。……だが、どうでもいい。我は相手が何を言おうとしているのか理解している。だからこそ、我はその男に向かって真っ直ぐに走り出した。
「あぁ――?」
そして拳を握り、思い切り殴りつけた。
ドカッ!!
我のあまりにも弱々しい拳の衝撃で、男の顔がわずかに揺れた。しかし、その身体は微動だにしない。
目の前の男は、困惑と殺意に満ちた瞳でゆっくりとこちらを振り向いた。
「誰が死んでやるものか――人間」




