13:いかなる時も、愚者は魔獣に慈悲を注ぐ①
闇が身体中を飲み込み、意識の深淵まで侵食していく。それが僕の想像していた「死」だった。けれど、現実は違った。想像していたものとは、似ても似つきもしなかった。
光が降り注ぎ、目の前には緑豊かな草原が広がっていた。そこには笑顔で旅をする一行の姿があった。
黒髪でダイヤモンドの瞳を持つ男、気品のある剣を携えた茶髪の男、美しい瞳の女性、そして他にも数人。皆が、見覚えのある顔……あのスライム魔獣と共に歩いていた。
「……起きたか、ベラミ」
後ろから聞き覚えのある声がした。振り返ると、そこにはスライム魔獣が立っていた。
「……ここは?」
「我の記憶だ」
スライム魔獣は笑った。
「見られるのは、少し気恥ずかしい」
「そうか……信じがたいですが」
僕は溜息をついた。
「状況を詳しく説明してください」
「うむ、そうだな……。つまりな……ベラミ、君は死にかけているのだ」
……。
……..…。
……..........。
そうだ。
思い返せば、ここに来る前の最後の光景は、ボロボロに打ちのめされ、自ら腕を切り落とした姿だった。今の状態なら、出血多量で死に瀕しているのは間違いない。つまり、ここは死後の世界か……。ん? なら、なぜスライム魔獣の記憶が関係しているんだ?
僕が問いかけるより先に、スライム魔獣は僕の心の疑問に答えた。
「だが、我はベラミを死なせはしない」
名前に「愚者」を付けるのをやめたのか? そう聞き返したかったが、今はそれよりも。
「貴方は、一体何をするつもりなんですか」
「我の話を聞いてはくれないか?」
僕は頷いた。スライム魔獣はそれを見て満足げに微笑むと、先を行く一行の後を追いかけた。彼らには僕たちの姿は見えない。これはただの、魔獣スライムの記憶が紡ぐ幻影なのだから。
「前にいるのが誰か、ベラミは不思議に思っているのだろう?」
「その通りですよ」
「先代の勇者一行だ」
……少し、信じられないな。
歴史上、魔獣と戦う使命を帯びたはずの勇者一行が、なぜスライム魔獣と隣り合い、友人のように談笑しているんだ。
「スライム魔獣、随分と一行に馴染んでいるんですね」
「ああ、皆、友人だったから」
スライム魔獣は振り返り、微笑んで言った。
「一行の中には先代の「愚者」もいたのだ。紫がかった黒髪にダイヤモンドの瞳。ベラミと瓜二つだ。ただ、背が高くて痩せこけていたがな」
「へぇ……先代の「愚者」。数百年前の話だと思っていましたが。確か、王国を追放された直後に亡くなったのでは?」
「人間の歴史については詳しくは知らん。だが、追放されたのは事実だ。ただ死んではおらず、世界中をあてもなく旅する根無し草となり、我と出会ったのだ。それから多くの人々と出会い、どういうわけか、後に勇者一行となったのだ」
「僕に本当の歴史を語ってくれるつもりですか?」
「十分な時間があればそうしたいところだが……。我にはもう時間がない。語りたいのは、我自身の物語だ。それともベラミ、聞きたくはないか? ならば代わりに、勇者一行の物語を話してもよいが」
「いえ、いいですよ。貴方が話したいことを話してください」
正直、勇者一行の話にはさほど興味がない。
僕がそう言うと、スライム魔獣は頷き、独り言を呟いてから本題に入った。
「我は、己の存在以外の何も知らぬままこの世界で目覚めた。それから多くのことを学び、命を繋ぎ、旅をし、同族の魔獣や、対話のできる人間とも絆を結んだ。出会いと別れ、出会いと別れ……それを何度も繰り返してきた」
記憶の情景が溶け出し、語りに合わせて場面が変わる。
新しく現れたのは、茶髪の男の膝枕で眠るスライム魔獣と、指を差して文句を垂れる先代の「愚者」の姿だった。茶髪の男の腰には、『勇者の剣』が帯びられていた。
「勇者と愚者はとても仲が良かった。二人は我と対話ができるだけでなく、とても親切にしてくれた。……ベラミのように」
「……」
「この時代の勇者も、我に親切にしてくれるのかと気になっていた」
「あいつなら……貴方に興味津々で、一日中話しかけてくるでしょうね」
「そうか。出会う機会がなかったのは残念」
「ああ。それからしばらくして、我は再び一人になった」
記憶の光景が砕け散る。その後の記憶は語られぬまま飛ばされ、森の中で一人、焚き火の前に座るスライム魔獣の姿が現れた。彼女の表情は先ほどまでとは違い、悲しみに満ちていた。
「省略しすぎて、同情する余地もありませんね。演出家としては落第ですよ」
「時間がないと言っただろう」
「まあいいです。知るべきでないことなら、知らずにいます」
「……皆と別れ、再び一人になってから、あることに思い至ったのだ」
スライム魔獣は僕の顔を見つめ、自分の顔に指を向けた。
「我たちは、何のために生まれてきたのだろうか?」
「……はぁ」
疑問に思うのが遅すぎませんか?
「魔獣という存在がなぜこの世界に誕生したのか。我は世界の均衡を保つためのモンスターなどではない。人間との接触も断たれている。我の存在は、あまりに不条理だ」
「そうですね。それで、疑問に思った結果、何か得られたんですか?」
「何も得られなかった。今に至るまでな。だが……うむ、時折不思議な夢を見るのだ。そこに何らかの繋がりがあると思っている」
スライム魔獣は考え込んだ。
「夢の中で……ええと、何の夢だったか。……自分が見知らぬ誰かたちと立っている。空は赤く染まり……恐ろしい悪夢だ。自分が自分でないような感覚。それ以外は……一欠片も思い出せん」
僕は再び溜息をついた。
「随分と、無益な生き方をしてきたんですね」
「いや、無益などではない」
スライム魔獣は無邪気に答えた。
「我の人生が、決して無益なものではない。我はそう信じている」
「……失礼しました」
「怒ってはいない」
他人の生き方を侮辱するのは褒められたことではない。僕は心から申し訳なく思った。
「……なあ、ベラミ。これから、我の人生が無益ではないことを証明してみせる。――命と、命を引き換えて」
「……」
「ベラミ、君を死なせはしない」
どんな方法かは分からない。けれど、命と命を引き換える?
「恩を着せるつもりがないわけではない。……ベラミ、我の頼みを聞いてはくれないか?」
「……」
「我の人生に後悔はない。だが、知りたいのだ。我たちの正体を。時代が変わるごとに排除される「魔獣」という存在を。人類の進歩のために、死ぬことが定められたこの運命を。……それなのに、消えたくないと願ってしまうこの心の正体を」
「貴方は――僕に『世界の真実』を探してほしいと言っているんですか?」
「うむ。世界の理によって覆い隠された、我たちの存在の真実を。それを追ってほしい」
壮大すぎて関わりたくない話だ。面倒だし、僕の時間を奪うことになる。
「拒絶してもよいのだ。我はお前に恩返しを期待して助けるのかもしれん。だが、この世界から消えていく我には、その結末を知る術はない。全くもって、無意味な行為だ」
「では、今この場で断ったらどうするんですか?」
「うむ。それでも、ベラミを助けるだろうな」
彼女は即座に答えた。
「たとえ最期が孤独であったとしてもな。ベラミ、君が我の元へ駆け寄ってくれた時、我の人生は再び鮮やかに彩られた。ほんの一瞬だったが、本当に嬉しかった。何より、この世界の誰とも違って、君は我の生存を望んでくれた」
スライム魔獣は僕に微笑みかけた。
「よく考えてみれば、この恩を返すために命を捧げるべきなのは、我の方だった。うむ、やはり今の頼みは忘れてくれ」
「……」
「ねぇ、なぜ目が震えているのだ?」
え? 僕は自分の震える目に触れ、顔を背けた。
「泣いているのか?」
「……貴方と知り合ってからまだ間もない。そんなわけないでしょう。僕は生まれてから十二歳になるまで、数えるほどしか泣いたことはありません」
「何回?」
「……二回だ」
「その二回とは、いつだ?」
スライム魔獣が歩み寄ってきた。彼女は本気で不思議がっている。僕をからかっているわけではない。
「……ここ数ヶ月のことですよ。二回ともね」
「それはもう、泣き虫と呼んで差し支えない」
「……うるさいですよ。知った風な口を利かないでください。不愉快です」
僕が震える声で言い返すと、彼女はクスクスと笑い、僕を抱きしめた。身体の大きさがさほど変わらないせいか、彼女の細い腕は僕の全身を包み込んだ。
「ベラミ、どうか生き続けてくれ。我の願いは、それだけで十分だ」
彼女が微笑むと、記憶の世界はゆっくりと溶け、消え去っていった――。
「ありがとう」
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再び目を開けた。……全身を苛んでいた激痛も、麻痺したような感覚も、すべて綺麗に消え去っていた。
「……あぁ」
欠損していたはずの僕の左腕は今……スライムのような黒い塊に覆われていた。
おぞましい。
あたりを見回すと、僕は洞窟の中にいた。目の前には焚き火があり、周囲には誰もいない。マックさんも、魔獣スライムも。……ただ、この忌まわしい黒い左腕だけがある。意思に反してピクリとも動かず、ただ……重い。
立ち上がろうとしたが、左腕の重さと未だ不完全な身体のせいで、僕は無様に転倒した。
「……」
ひどく疲れた。
あぁ、もう疲れたよ。
もう、やめてもいいだろうか。何もかも投げ出してしまっていいだろうか。
この手に入れた奇妙な腕も、引きちぎって捨ててしまいたい。
授かったこの命も、返してしまいたい。
結局、結末が変わらないのであれば。助けに走ったりせず、あのままスライム魔獣を死なせていれば、誰も傷つかずに済んだのではないか。
今は、息をすることさえ億劫に感じる。
ははは……。僕は――一体何を馬鹿なことを考えているんだ。
失敗し、間違いを重ね、思い通りにいかないからといって、すべてに当たり散らしている。負け犬のように、駄々をこねている。
スライム魔獣を助けに行き、その結果、彼女に助けられたというのか。自分自身の真実を探し出すという望みすら捨てて、僕のような者のために命を捧げたというのか。どこの誰とも知れぬ生意気なガキを、無条件で救ったというのか。
他人のために命を捨てる。それは僕には決してできないことであり、誰にもできるはずがないと信じてきたことだった。人間が成すには、あまりに高潔すぎる行為だ。
「最低だ……」
あまりに弱く、あまりに惨めだ。
自分自身が、嫌悪感を抱くほどに弱い。……僕は制御不能な黒い腕に触れた。
あまりの無意味さに、吐き気がした。
その時。
「よう、目が覚めたか」
見覚えのある男の声――。
「えっ」
「……心配すんな。今回は、穏便に来た」
そこには、無傷に見える姿で腕も揃ったマックさんが現れ、僕に向かって苦笑いを浮かべていた。




