カンナギ国の攻防 その8
砦の見晴らし台は、まだ焦げた空気の匂いに包まれていた。夕暮れに染まりかけた草原の彼方――地平線の向こうで、遅れて響く轟雷が低く腹を震わせる。
「終わったか」
カズトは腕を組み、遠くを見据えたまま呟いた。黒雲のようにうごめいていた魔物の群れは、今や統率を失い、炎に追われる獣のように散り散りになっている。赤々とした火線が大地を舐め、その中心で放たれた一撃の余韻だけが、まだ空気を震わせていた。
――あれは、アリーナの技だ。
迷いのない確信が胸に落ちる。あの規模、あの雷鳴。彼女以外に成し得ない。
「さすがアリーナおねえちゃんですね」
柔らかな声とともに、ルミナスが隣に立った。風に揺れる髪を押さえながら、誇らしげに遠方を見つめる。
「魔物たちも潰走し始めたよ。」
言葉どおり、炎に包まれた影が右へ左へと逃げ惑い、やがて草原の起伏の向こうへと消えていく。先ほどまで押し寄せていた圧迫感が、嘘のように薄れていった。
「だな。追撃はしなくていいって指揮官に伝えてくれるか?」
無理に追えば、こちらの被害も増える。勝ちは揺るがない――ならば、今は守りを固めるべきだ。
ルミナスは小さくコクリと頷いた。その瞳に戦いの緊張はなく、ただ安堵と信頼が宿っている。
「わかった。」
軽やかな足取りで踵を返し、石造りの階段を駆け下りていく。やがて扉が開き、閉じる音が響いた。
見晴らし台に残ったのは、風と、遠雷の名残だけ。
カズトはもう一度、草原を見渡す。焼けた大地の向こうに、戦局をひっくり返した少女の姿を思い浮かべながら――静かに息を吐いた。
◇
「なぜだ、なぜだ、なぜだぁッ!」
怒号が天幕を震わせた。
フルール軍の指揮官は、机上の地図を叩きつけるように払い落とし、乱れた呼吸で立ち尽くしていた。先ほどまで整然と並んでいた駒は床に散らばり、陣形を示す旗は無残に踏みつけられている。
勝利は目前だったはずだ。
魔物一万を超える大軍勢。強化されたオークキングは、通常の三倍の膂力と耐久を持つと報告を受けている。砦など蹂躙され、敵は恐慌に陥る――そう、誰もが疑わなかった。
それなのに。
伝令の報告は「潰走」「炎上」「統率崩壊」の言葉ばかり。
「これで勝てなければ無能……」
その言葉が、刃のように自らの胸へ突き刺さる。
「わ、私が……無能……そんなことは……」
指揮官は首を振り、汗に濡れた額を掻きむしる。鎧の内側まで冷えきったように震えが止まらない。天幕の外では混乱した兵の足音と、遠くの雷鳴がまだくぐもって響いていた。
椅子を蹴り飛ばし、近くに控えていた副官に怒鳴り散らす。
「偵察は何をしていた! 報告はどうなっている! 敵の増援など聞いていないぞ!」
だが、副官は顔を青ざめさせたまま、何も言い返せない。事実、想定外の一撃だったのだ。
不意に、指揮官の目が見開かれる。
「はっ、あの男だ。あの男が何か仕組んだんだっ!」
魔物の軍勢を用意した、あの“謎の怪しい男”。黒い外套に身を包み、不気味な笑みを浮かべていた姿が脳裏に蘇る。
――あの男が裏切ったに違いない。
責任の矛先を見つけた途端、指揮官の顔に歪んだ安堵が浮かぶ。自分の采配ではない。罠だ。裏切りだ。そうでなければ説明がつかない。
「どこだ! どこへ消えた! あの男を探せ!」
天幕を押し開けて外へ飛び出すが、夜風が吹き抜けるばかりで、黒衣の影はどこにもない。混乱した兵たちが右往左往し、遠くでは敗走の喧騒が広がっている。
「くそっ……くそぉぉぉっ!」
喚き声は虚しく闇に吸い込まれた。
責任をなすりつける相手すら見つからぬまま、指揮官はただ、崩れゆく戦局の中心で取り残されていた。
「ふっ、所詮この程度」
闇に溶けるように立つ“謎の男”は、薄く笑みを浮かべていた。彼の視線の先では、取り乱したフルール軍の指揮官が喚き散らしている。怒号も弁明も、もはや誰の耳にも届かない。
男は興味を失ったように肩をすくめた。
「まぁ、使った玩具は片付けないといけませんね。」
低く、短い呪が紡がれる。空気が粘つき、地面に黒い紋様がじわりと広がった。禍々しい魔法陣が指揮官の足元を取り囲み、不気味な光を放つ。
「な、な、な、ぎゃぁっ!」
悲鳴が夜を裂いた。
魔法陣の中から、ぬらりとした影が這い出る。数体のゴブリンが、黄色い眼をぎらつかせて指揮官へと飛びかかった。必死に剣を抜こうとするも、混乱と恐怖で手元は狂う。刃は空を切り、次の瞬間には複数の影に押し倒されていた。
やがて悲鳴は途切れ、湿った音だけが残る。
血の匂いをまとったゴブリンたちは天幕を飛び出し、敗走しかけていたフルール軍へと襲いかかる。統率を失った兵たちは為す術もなく、闇の中で次々と倒れていく。
怒号、絶叫、助けを求める声。
それらすべてが絡み合い、陣地は一瞬で阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
男はその光景を、ただ静かに眺めている。まるで盤上の駒が役目を終えるのを待つ観客のように。
「終わりましたか」
しばらくして、音は消えた。
月明かりの下、立っている者は誰一人いない。人も、魔物も。陣地にはただ、沈黙と残骸だけが横たわっていた。
男はゆっくりと視線を上げる。
「しかし……誰かが手を貸した……そうみるべきでしょうかねぇ。」
遠く離れたカンナギ国の国境砦。その方向を、細めた目で見据える。あの一撃。想定を超えた力。偶然ではない。
「……まぁ、いいでしょう。今は……ね。……あの方に報告が優先です。あの方の判断にお任せしましょう」
最後の言葉は、どこか愉悦を含んでいた。
次の瞬間、男の姿は霞のように揺らぎ、闇へと溶ける。
そこにはもう、誰もいない。
静まり返った陣地に、夜風だけが吹き抜けていた。
◇
砦の大広間は、いつもは兵士たちの訓練や作戦会議に使われる無骨な空間だが、今夜ばかりはまるで別世界だった。壁には戦旗と花飾りが並び、長机には肉の塊や焼きたてのパン、大鍋で煮込まれたスープ、樽ごと運び込まれた酒が惜しげもなく並べられている。燭台の炎が揺れ、笑い声と歌声が天井の梁に反響していた。
これはただの祝宴ではない。
倒れた者たちへの鎮魂。
生き延びたことへの安堵。
隣で戦った戦友への感謝。
そのすべてが、酒と熱気に溶け込んでいる。
人族も獣人も、そこに垣根はなかった。
豪快な笑い声をあげるクマ獣人の戦士の腕に、人族の女たちが遠慮なく絡みついている。丸太のような腕に抱き上げられ、きゃあと歓声が上がる。戦場では恐怖の象徴だった巨体も、今はただ頼もしい英雄だ。
一方では、酔った人族の若い男がキツネ獣人の少女に真剣な顔で求婚し、次の瞬間、周囲の仲間たちに拳骨を食らって床に転がされている。
「順序ってもんがあるだろうが!」
「まずは戦功をもう三つ立ててから来い!」
そんな怒号の中、少女は頬を赤らめながらもどこか満更でもなさそうに尻尾を揺らしていた。
騒ぎの陰では、そっと手を取り合い、喧騒から離れていく影もある。命のやり取りを越えたからこそ芽生える想い。明日が保証されない世界で、今この瞬間を抱きしめる者たち。
様々なドラマが、同時に生まれていた。
――その全てを、上座から眺めている男がいる。
カズトは肘掛けに頬杖をつき、口元に愉快そうな笑みを浮かべていた。
「いい光景だな……」
誰にともなく呟く。
右隣では、アリーナが半分眠りながら肩にもたれかかっていた。普段は凛とした彼女も、今は完全に戦士の顔を脱いでいる。重たそうな瞼、規則正しく上下する肩。戦場で最前線に立ち続けた疲労は、隠しきれるものではない。
「……カズト……うるさく、ない?」
ぼんやりとした声。だが、体重はしっかり預けられている。
「寝ていいぞ。今日は英雄なんだからな」
そう言うと、彼女は小さく笑い、完全に身を預けた。鎧を脱いだ細い肩は思ったよりも軽い。だが、その内側に秘めた強さを、カズトは誰より知っている。
左隣では、対照的にルミナスが頬を膨らませていた。
「ひどいんですよ? さっきからずっとですよ? うちに来ないか、待遇は保証する、研究環境は最高だって」
指を折りながら不満を数え上げる。
「まぁ、お前は優秀だからな」
「でしょう? 分かります?」
得意げに胸を張るルミナス。しかしカズトはにやりと笑う。
「でも渡す気はないぞ。なんならこの砦、つぶすか?」
一瞬、空気が凍り――
次の瞬間、ルミナスはくすくすと笑った。
「それは最終手段ですねぇ。交渉が決裂してからにしましょう」
物騒な会話だが、二人の間では軽口に過ぎない。ルミナスの瞳は、どこか嬉しそうに細められている。必要とされ、守られる側にいることが、彼女にとってどれだけ心強いか。
少し離れた場所では、タマモが中心になっていた。
金色の耳をぴこぴこと揺らしながら、酒杯を片手に豪快に笑っている。
「だから言ったであろう! あそこで一歩踏み込まねば勝てぬと!」
周囲の獣人や兵士たちも大笑いしながらうなずく。彼女の武勇談は誇張が三割増しだが、それもまた宴の華だ。
だが、その頬はほんのり赤い。
少し飲み過ぎているらしい。
その膝の上では、リズレットが丸くなって眠っていた。小さな体を器用に丸め、尻尾を顔にかけている。周囲がどれだけ騒がしくても微動だにしない。
「む……寝ておるか。ふふ、安心しきっておるな」
そう言って、タマモは優しく頭を撫でる。その手つきは戦場での鋭さとは別人のように柔らかい。
歌声が大きくなり、杯がぶつかる音が鳴り響く。
笑い、泣き、肩を抱き合う者たち。
明日にはまた戦いがあるかもしれない。
失ったものが戻ることはない。
それでも――
今、この瞬間だけは。
生き延びた者たちが、生きていることを祝う時間。
カズトはその光景を胸に刻みながら、静かに酒を口にした。
「……勝ったんだな」
その一言には、安堵と誇り、そして次の戦いへ向けた覚悟が滲んでいた。
宴はまだ、終わらない。




