第4話『ギルドの噂と王の対価』
森が一つ消えた。
その衝撃的なニュースは、翌朝、工房都市アストラル・ギアを瞬く間に駆け巡った。
原因は不明。
ある者は、古代兵器の暴走だと言った。
ある者は、天から降ってきた巨大な浮遊石の落下だと言った。
そして、ある者は、伝説の厄災竜が復活したのだと、声を潜めて囁いた。
無論、真相を知る者は、この世にただ一人。
俺、アッシュだけだ。
「……うっぷ」
冒険者ギルドのトイレで、俺は胃の中のものを全て吐き出していた。
昨夜、イグニールの力を使った代償は、想像以上に大きかった。
全身を襲う、骨が軋むような倦怠感。内側から焼かれるような、魔力回路の痛み。イグニールの厄災魔力は、俺のような脆弱な人間の器には、あまりにも毒すぎたのだ。
『情けないぞ、我が乗り物。その程度でへこたれるとは、先が思いやられるわ』
頭の中に、不機嫌そうなイグニールの声が響く。
昨夜から、俺の肩には一匹の黒いトカゲがちょこんと乗るようになった。翼の生えた、金色の瞳を持つトカゲ。それが、イグニールが普段、その姿を維持するためのマスコット形態だった。
周囲の人間には、ただの使い魔にしか見えないらしい。
「うるさい……! 誰のせいだと……」
俺は壁に手をつき、荒い息を繰り返す。
一睡もできなかった。まぶたを閉じれば、あの森が消滅する光景がフラッシュバックする。罪悪感と恐怖で、気が狂いそうだった。
何とか体裁を整え、俺はギルドのホールへと戻った。
ホールは、森の消滅事件の話題で持ちきりだった。誰もが興奮したように、あるいは怯えたように、それぞれの憶測を語り合っている。
その中で、Fランクの俺が『嘆きの螺旋』から生還したことなど、誰一人として気に留めていなかった。
(好都合だ……)
目立つのはまずい。特に、今は。
俺は人目を避けるように、受付カウンターへと向かった。目的は、依頼の失敗報告だ。
依頼主は死亡し、目的のブツは俺(の中の竜)が消し飛ばしてしまった。報酬ゼロ。結局、俺はまた、無一文のままだった。
「―――アッシュ」
不意に、低い声で名前を呼ばれた。
びくりと肩を震わせて振り返ると、そこに立っていたのは、屈強な獣人の老婆だった。猫のような耳と尻尾、しかしその体躯は熊のように大きく、顔には歴戦の傷跡が刻まれている。
彼女こそ、このアストラル・ギア冒険者ギルド中層区支部の頂点に立つ存在。
ギルドマスター、ドナ・カッツェ。
その鋭い金色の瞳が、俺を上から下まで、舐めるように見つめる。まるで、魂の奥底まで見透かされているようだ。
「……生きていたのかい、小僧。しかも、五体満足で」
「……運が、良かっただけです」
「運、ねぇ……」
ドナは、ふんと鼻を鳴らした。
「昨夜、あんたがギルドを出てから、『嘆きの螺旋』の方角で、とんでもない魔力の奔流が観測された。そして、森が一つ消えた。何か、知ってるんじゃないのかい?」
心臓が、氷水で満たされたように冷たくなる。
まさか、バレたのか?
俺は必死に表情を取り繕い、首を横に振った。
「さあ……何のことだか、さっぱり」
「ほう。あんたが受けた依頼は、『嘆きの螺旋』の調査だったはずだがねぇ」
「俺が遺跡に着く前に、何かがあったんじゃないですか? 俺は怖くなって、すぐに引き返しました。依頼は、失敗です」
我ながら、苦しい言い訳だ。
ドナは何も言わず、じっと俺の目を見つめる。その沈黙が、拷問のように長く感じられた。
やがて、老婆はにやりと、口の端を吊り上げた。その笑みは、まるで面白い玩具を見つけた子供のようだった。
「……そうかい。まあ、いいさ。証拠もなしに、Fランクの小僧が森を一つ消したなんて言ったところで、誰も信じやしないからね」
彼女はそう言うと、俺の肩をパン、と強く叩いた。あまりの力に、俺は数歩よろめく。
「だが、覚えておきな、アッシュ。このギルドの全ての依頼と冒険者は、あたしの管理下にある。何か面白いことを隠してるんなら、いつか必ず尻尾を掴んでやるからねぇ。楽しみにしているよ」
意味深な言葉を残し、ドナは豪快に笑いながら去っていった。
俺はその場に立ち尽くし、冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
面白がっている。あのギルドマスターは、俺の何かを確信し、その上で泳がせているのだ。
『クク、あの女、ただ者ではないな。我の気配を、わずかに感じ取っているやもしれん』
肩の上のイグニールが、感心したように呟いた。
冗談じゃない。これから、俺はどうなってしまうんだ。
俺は依頼失敗の書類にサインをするため、再び受付カウンターへ向かった。
そこには、銀髪の受付嬢、エリスさんがいた。彼女はいつも通りの無表情で、俺の手元を、眼鏡の奥からじっと観察していた。
「……ひどい顔色ですね。それに、体から発する魔力も、異常に乱れています。まるで、キャパシティを超えた魔法を使った後のように」
「……気のせいだろ」
「そうですか」
エリスさんはそれ以上追及せず、書類を受け取ると、静かに付け加えた。
「ギルドには医務室もあります。無理はなさらないように」
その言葉は、純粋な親切心からか、あるいは、探りを入れるためのものか。
俺には、判断がつかなかった。
◇◇◇
下層区の我が家(と呼ぶのもおこがましい、崩れかけの小屋)に戻った俺は、ベッドに倒れ込むようにして横になった。
厄災魔力を使った代償で、体は鉛のように重い。
「兄さん……? 大丈夫……?」
リリが、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「ああ、大丈夫だ。ちょっと、疲れただけだよ」
嘘をつくのは、もう何度目だろうか。
俺はリリに笑顔を向け、なけなしの金で買ってきた薬を手渡した。最後の一袋だ。リリは申し訳なさそうにそれを受け取ると、ゆっくりと水で飲み下した。
薬を飲んで、少しだけ顔色が良くなったリリが、俺の肩にいるイグニールに気づく。
「わぁ……可愛いトカゲ。兄さん、新しいお友達?」
「あ、ああ。まあ、そんなところだ」
『おい小僧。我をそこらの爬虫類と一緒にするな。不敬であるぞ』
イグニールが、念話で抗議してくる。
リリは、小さな指でそっとイグニールの頭を撫でた。イグニールは、まんざらでもないといった様子で、気持ちよさそうに目を細めている。
その光景は、どこか微笑ましくて、俺のささくれた心を少しだけ癒してくれた。
やがてリリが穏やかな寝息を立て始めると、イグニールは俺の肩から飛び降り、部屋の隅で魂魄形態へと姿を変えた。半透明の竜人が、腕を組んで尊大に俺を見下ろしている。
『さて、乗り物よ』
「……なんだ」
『我が力を使い、お前は命を拾った。契約に従い、その対価を支払ってもらおうか』
「対価……?」
そういえば、契約の時にそんなことを言っていた。魂を捧げるとは言ったが、それとは別に、何かが必要らしい。
「金か? 残念ながら、一文無しだ」
『フン。我にとって、財宝など道端の石ころも同然。我の言う対価とは、もっと根源的なものだ』
イグニールは、ゆっくりと指を一本立てた。
『一つ。我の魂を維持し、いずれ肉体を取り戻すための魔力。お前の生命力そのものを、我は糧とする。お前が生きている限り、我は存在し続けられる』
つまり、俺はイグニールのための、歩く充電池というわけか。
『二つ。我を楽しませる〝余興〟だ』
「余興?」
『そうだ。我は数千年の間、この遺跡の底で、ただひたすらに退屈していた。死ぬよりも辛い、永遠の孤独と静寂。もはや、退屈こそが我が最大の敵なのだ』
その金色の瞳に、ふと寂寥の色が浮かんだように見えたのは、気のせいだろうか。
『お前の人生、お前の奮闘、お前の絶望。その全てを、我は特等席で観させてもらう。せいぜい、我を退屈させないことだ。もし、お前の人生が退屈なものになれば―――』
イグニールは、恐ろしい笑みを浮かべた。
『―――その時は、我が手ずから、お前の人生を面白おかしく演出してやろう。例えば、この街を火の海に変える、とかな』
「なっ……!」
冗談で言っているようには聞こえない。こいつは、本気だ。
「……分かった。分かったから、街を滅ぼすのだけはやめてくれ」
『話が早くて良い。そして、三つめだ』
イグニールは、どこか楽しそうに続ける。
『我は、美味いものが食いたい』
「……は?」
あまりに俗な要求に、俺は拍子抜けしてしまった。
『数千年ぶりの外界だ。食事というものを、存分に味わってみたい。特に、甘いものが良い。さきほど街で見かけた、串に刺さった丸い団子のようなもの。あれを持ってこい』
「団子……って、それ、中層区の屋台のやつか」
どうやら、俺が屋台を横目で見ていた時、こいつも見ていたらしい。
『そうだ。あれを食すまでは、我は一歩も動かんし、力も貸さん。いいな?』
滅びの竜王の要求が、団子。
あまりのギャップに、俺は頭が痛くなってきた。しかし、逆らうことはできない。
「……金がないって言ってるだろ」
『知るか。盗むなり、奪うなり、好きにしろ。我は結果しか求めん』
無茶苦茶だ。だが、これが俺の契約した相手。俺の相棒。
俺は深いため息をつくと、重い体を引きずって、再び家を出た。
リリの薬代を稼ぐあてもないのに、竜王様のおやつを買いに行くために。
この先の人生が、どれだけ前途多難かを思い知らされながら。




