第26話『英雄の代償と、動き出す世界』
意識が、浮上する。
最初に感じたのは、柔らかなベッドの感触と、全身を万力で締め付けられるような、凄ま-じい痛みだった。
目を開けると、見慣れた、エリスさんの工房の天井が目に入った。壁に並んだ魔道具や書物が、薄暗い魔導灯の光に照らされている。
「……っつ……」
身じろぎしようとしただけで、全身の骨が悲鳴を上げた。
イグニールの力を使った代償―――厄災魔力の奔流が駆け巡った俺の体は、内側からズタズタに引き裂かれたも同然だった。魔力回路は焼き切れ、筋肉繊維は断裂し、骨の髄まで、毒が染み渡ったかのように痛む。
「……目が覚めましたか」
静かな声に、俺はゆっくりと首を巡らせた。
ベッドの脇の椅子に、エリスさんが座っていた。
彼女は、いつも通りの冷静な表情だったが、その目の下には深い隈が刻まれ、銀色の髪も少しだけ乱れている。俺が眠っている間、ずっと看病してくれていたのだろう。
「……俺は、どのくらい……」
「丸二日、眠り続けていました」
二日。
俺の口から、乾いた息が漏れた。
闘技場での、あの出来事が、まるで遠い昔のことのように感じられる。
「……街は? 闘技場にいた人たちは、無事なのか?」
俺の問いに、エリスさんは、少しだけ間を置いてから、答えた。
「幸い、死者は出ていません。地神の巨人によって闘技場の一部が損壊し、負傷者は多数出ましたが、あなたのあの最後の一撃が、被害を最小限に食い止めました。……皮肉な話ですが」
その言葉に、俺は、わずかに安堵の息を吐いた。
リリも、きっと無事だったのだろう。
「聖騎士団と、ギルドが、街の復旧と警備にあたっています。武闘大会は、当然、中止。工房都市は今、厳戒態勢下にあります」
「そうか……」
俺は、ゆっくりと、自分の右腕を持ち上げた。
そこには、いつもと変わらない、黒い竜の紋様が刻まれている。だが、今は、その紋様が、まるで俺の命を吸い尽くす呪いの刻印のように見えた。
「……俺、とんでもないことを、しちまったな」
数万の観衆の前で、イグニールの力を解放した。
俺の正体は、もう、隠しようがない。
これから、俺はどうなる? 聖騎士団に追われるのか? 厄災として、討伐されるのか?
そんな俺の不安を、見透かしたように、エリスさんが口を開いた。
「世間の話をする前に、まずは、あなたの相棒と、話をすべきでしょう」
彼女がそう言うと、俺の枕元で、丸くなって眠っていた黒いトカゲ―――イグニールが、億劫そうに、その金色の瞳を開けた。
『……フン。ようやく、目が覚めたか、乗り物よ。随分と、惰眠を貪っていたではないか』
その声は、いつも通り尊大だったが、どこか、力ない響きを帯びていた。
「イグニール……お前も、無事だったのか」
『我を誰だと思っておる。だが……さすがに、あの石ころ人形を消し飛ばすのは、骨が折れたわ。魂を維持する魔力が、ほとんど空だ。しばらくは、この愛らしい姿のままで、静養させてもらう』
どうやら、彼もまた、あの最後の一撃で、相当な力を消耗したらしい。
俺は、ずっと気になっていたことを、彼に問いかけた。
「……なあ、イグニール。あの時、俺の意識と、お前の意識が、混ざり合ったような感覚があった。あれは、一体、何だったんだ?」
あの時、俺は、ただ力を借りるだけではなかった。
俺が御者で、イグニールがエンジン。
二人で一つの力を、コントロールしているような、不思議な一体感があった。
イグニールの金色の瞳が、俺をじっと見つめる。
『……同調率(シンクロ率)が、上がったのだ』
「同調率?」
『うむ。あの極限状況で、貴様の魂と、我が魂の、目的が、初めて完全に一致した。それにより、我々の魂の波長が、一時的に重なり合ったのだ。結果として、我が力の、より精密なコントロールが可能となった。……まあ、貴様の矮小な魂が、我が奔流に耐えきれず、途中で悲鳴を上げていたがな』
その言葉に、俺は、はっとした。
あの時、俺は、イグニールを「交渉」で動かした。
彼の性格を逆手に取り、「余興」として、戦わせた。
それは、彼を単なる力の源としてではなく、一人の「相棒」として、向き合った、初めての瞬間だったのかもしれない。
「……だが、代償は、大きいみたいだな」
俺が、自分の体を見下ろしながら言うと、イグニールは、ふんと鼻を鳴らした。
『当然よ。厄災魔力は、人間のような、脆弱な器には、猛毒だ。本来ならば、貴様の肉体など、あの力を使った瞬間に、内側から崩壊している。我が、魂の繋がりを通して、貴様の生命活動を、かろうじて維持しているにすぎん』
つまり、俺は、常に、体の中で、毒を中和し続けているような状態なのだ。
だから、これほどの疲労と、痛みが……。
「……厄介なものを、背負い込んじまったもんだな」
俺は、自嘲気味に、笑った。
◇◇◇
聖騎士団詰所。
その空気は、鉛のように、重く、沈んでいた。
円形闘技場での、未曾有のテロ事件。そして、伝説の厄災の顕現。
その二つの衝撃が、鉄の規律を誇る、この組織を、根底から揺るがしていた。
カイン・ウォルフォードは、騎士団長が待つ、最奥の執務室の前に、立っていた。
彼の心は、いまだ、激しい嵐の中にある。
あの日、彼が見た光景。
地神の巨人を、一撃で消滅させた、あの、禍々しくも、神々しい、漆黒の力。
そして、その力を使ったのが、あの、どこにでもいるような、Fランクの少年だったという、信じがたい現実。
彼の信じてきた、「正義」が、音を立てて崩れ始めていた。
厄災竜は、世界を滅ぼす、絶対的な悪のはずだ。
だが、あの時、アッシュは、その力で、工房都市を、救ったのだ。
あのまま、巨人が野放しにされていれば、被害は、闘技場だけでは済まなかっただろう。
悪が、街を救う。
その矛盾が、彼の思考を、完全に、麻痺させていた。
「―――入れ」
重々しい声に、カインは、意を決して、扉を開けた。
執務室の中央で、歴戦の傷跡が刻まれた、壮年の騎士団長が、腕を組んで、彼を待っていた。
「……報告は、聞いている。カインよ、お前の目で見た、ありのままを、話せ」
カインは、直立不動の姿勢で、あの日、自分が見た全てを、包み隠さず、報告した。
黒ローブの集団の襲撃。
アッシュという少年の、異様な変貌。
そして、地神の巨人を消し去った、あの、圧倒的な一撃。
報告を聞き終えた騎士団長は、しばらく、目を閉じ、沈黙していた。
やがて、ゆっくりと、口を開く。
「……ウォルフォード家に伝わる、聖剣『竜封じ』が、あれほどの光を放ったのだ。相手が、古の厄災竜の眷属であることは、間違いないのだろう」
「……はい。ですが、団長。彼は、その力で、街を……」
「救った、か」
騎士団長は、カインの言葉を、遮った。
「カインよ。力そのものに、善悪はない。だが、その力が、人の手に余るものであれば、それは、ただの『脅威』だ。制御できぬ厄災は、それがどんな結果をもたらそうとも、封印し、管理するのが、我ら聖騎士団の使命だ。違うか?」
その言葉は、正論だった。
カインが、これまで、信じて疑わなかった、正義そのものだった。
だが、今の彼の心には、その正論が、どうしても、響かなかった。
「……現在、ギルドと合同で、市内に潜伏している、黒ローブの残党の捜索にあたっている。そして、それと同時に、最優先事項として、『アッシュ』と名乗っていた少年の、身柄の確保を、進めている」
「……確保、ですか」
「そうだ。彼が、意図して、あの力を解放したのか。それとも、何者かに操られていたのか。まずは、それを、確かめねばならん。そして、その身に宿す力が、危険と判断されれば……」
騎士団長は、言葉を切った。
だが、その先を、言わなくても、カインには、分かった。
「処理」されるのだ。
たとえ、彼が、街を救った、英雄であったとしても。
「カインよ。お前は、この任務の、指揮を執れ。誰よりも、あの少年と、その力を、間近で見た、お前が、適任だろう」
それは、命令だった。
聖騎士として、拒否することは、許されない。
「…………御意に」
カインは、敬礼し、執務室を、退出した。
その足取りは、鉛のように、重い。
彼は、自室に戻ると、聖剣『竜封じ』を、鞘から、抜き放った。
美しい刃は、まだ、あの日の厄災の魔力に反応し、微かな光を、放ち続けている。
(俺は……どうすればいい……)
彼の正義が、今、試されようとしていた。
騎士団の命令に従い、アッシュを「脅威」として確保するのか。
それとも、自分の目で見た「真実」を信じ、別の道を、探すのか。
その答えは、まだ、見つかっていなかった。
◇◇◇
工房都市アッシュ・ギアの世論は、真っ二つに割れていた。
闘技場での、あの衝撃的な事件。
その映像は、記録用の魔導水晶によって、繰り返し、街中のスクリーンで、放映された。
人々は、その映像を、食い入るように見つめ、それぞれの思いを、口にした。
「見たか、あの黒い光を……! まるで、神話の戦いだ!」
「"彗星"のアッシュは、ただの冒険者じゃなかったんだ! 我らの街を守るために遣わされた、守護神だったんだ!」
一部の市民は、俺を、英雄として、熱狂的に、崇拝した。
彼らは、俺を、『黒腕の救世主』と呼び、その武勇を、称えた。
だが、その一方で、大多数の市民は、別の感情を、抱いていた。
それは、理解できないものに対する、根源的な、「恐怖」。
「……守護神? 馬鹿を言え。あれは、悪魔の力だ」
「そうだ。あの少年は、人間じゃない。我々と同じ姿をした、化け物だ」
「聖騎士団様は、一体、何をしているんだ! あんな危険な存在を、野放しにしていていいのか!」
彼らは、俺を、いつ、その牙を剥くか分からない、厄災として、恐れ、そして、排除すべきだと、主張した。
英雄か、怪物か。
俺の存在は、工房都市に、新たな、そして、深刻な、対立の火種を、もたらしてしまったのだ。
冒険者ギルドは、その対応に、追われていた。
ギルドマスター、ドナ・カッツェは、聖騎士団からの、アッシュの身柄引き渡し要求を、のらりくらりと、かわし続けていた。
「アッシュは、我々ギルドに所属する、Fランクの冒険者だ。彼が、何か、都市の規律を乱すようなことをしたかね? むしろ、街を救った、功労者だろう?」
「しかし、ドナ殿! 彼が宿す力は、あまりに危険だ!」
「危険かどうかは、あたしが決めることさ。あんたたちが、憶測だけで、あたしのギルドの組合員に、手を出すことは、許さんよ」
ドナは、ギルドの自治権を盾に、聖騎士団の介入を、断固として、拒否していた。
だが、彼女もまた、内心では、どうすべきか、迷っていた。
あの小僧が、ただの「面白い拾い物」ではなかったことは、もはや、明らかだ。
だが、あれを、どう、扱うべきか。
彼女の、長年の経験と勘をもってしても、答えは、出なかった。
◇◇◇
そして、その混乱の、全ての元凶である俺は。
エリスさんの工房のベッドの上で、自分の無力さを、噛み締めていた。
「……俺のせいで、街が、めちゃくちゃだ」
エリスさんから、外の様子を聞くたびに、俺の心は、罪悪感で、押しつぶされそうになる。
リリを、守りたかっただけなのに。
そのために手に入れた力が、逆に、多くの人々を、不安と恐怖に、陥れている。
「……後悔、していますか?」
エリ-スさんが、静かに、問いかける。
彼女は、俺が眠っている間に、独自の情報網を駆使し、様々な情報を、集めてくれていた。
黒ローブの集団、『原初の顎』のこと。
彼らが、古代の竜を崇拝する、狂信的なカルト教団であること。
そして、彼らが、闘技場で自決した仲間が落とした、奇妙な紋様が刻まれた短剣のこと。
「後悔、なんて……してる暇、ないだろ」
俺は、震える腕で、体を、起こした。
激痛が走るが、もう、寝てはいられない。
「俺は、英雄なんかじゃない。救世主でも、怪物でもない。ただの、Fランク冒険者、アッシュだ。……俺にできることは、一つしかない」
俺は、エリスさんを、真っ直ぐに、見つめた。
「『原初の顎』……そいつらを見つけ出して、俺自身の力で、叩き潰す。そして、俺が、イグニールの力を、完全に、コントロールできることを、証明する。それしか、この街の人たちに、信じてもらう方法は、ない」
それは、あまりに無謀で、あまりに青臭い、決意だったかもしれない。
だが、それが、今の俺にできる、唯一の、誠意だった。
俺の言葉に、エリスさんは、驚いたように、目を見開いた。
そして、やがて、その口元に、初めて見る、穏やかで、そして、どこか誇らしげな、笑みを、浮かべた。
「……本当に、あなたは、面白いですね」
彼女は、立ち上がると、工房の奥の、厳重にロックされた保管庫へと、向かった。
「……いいでしょう。あなたの、その無謀な決意に、私も、乗りましょう」
彼女が、保管庫から、取り出してきたもの。
それは、銀色に輝く、美しい、一振りの、長剣だった。
その刀身には、古代のルーン文字が、びっしりと、刻まれている。
「これは、我がウォルフォード家に、代々伝わる、試作品の一つ。『魔力喰らい(マナ・イーター)』。あらゆる魔力を喰らい、自らの力に変換する、呪われた剣です。今のあなたになら、あるいは、これを、使いこなせるかもしれない」
彼女は、その剣を、俺に、差し出した。
「あなたの新しい『脚本』は、私が書きます。ですが、今度の主役は、もはや、偽りの英雄ではありません」
その紫色の瞳は、絶対的な信頼と、そして、共に戦う、パートナーとしての、覚悟の光に、満ちていた。
「行きましょう、アッシュさん。あなたの、本当の物語を、ここから、始めるために」
俺は、その剣を、震える手で、受け取った。
ずしりと、重い。
それは、ただの金属の重さではなかった。
エリスさんの想い、リリの願い、そして、俺自身の、覚悟の重さだった。
俺たちの、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。
工房の外では、何も知らない、工房都市の夜が、静かに、更けていく。
だが、その水面下では、聖騎士団が、狂信者の集団が、そして、俺たち自身が、それぞれの正義と目的のために、大きく、動き出していた。




