第25話『厄災の顕現と、それぞれの正義』
「―――力を、貸せッ!!」
俺の絶叫が、混乱の極みにあった円形闘技場に響き渡った。
それは、祈りであり、命令であり、そして、最後の引き金を引くための、合図だった。
応えるように、俺の右腕に刻まれた竜の紋様が、脈動を始めた。
どくん、どくん、と、まるで第二の心臓が生まれたかのように。
そして、その脈動に合わせて、紋様から漆黒の魔力が溢れ出す。それは、現代魔法のそれとは、密度も、純度も、そして格も、全く異質のエネルギー。世界の理そのものに干渉する、原初の力―――厄災魔力。
黒い魔力は、血管を逆流するかのように、瞬く間に俺の全身へと広がっていく。
右腕から肩へ、胸へ、足へ、そして頭へ。
黒い紋様が、皮膚の上を、まるで生き物のように駆け巡り、俺の肉体を内側から作り変えていく。
「ぐっ……う、あああああああああああっ!」
凄まじい激痛と、魂が根こそぎ奪われるかのような全能感。
相反する感覚の奔流に、俺の意識は焼き切れそうになる。
視界が、明滅した。
黒かったはずの髪の一部が、急速に色を失い、月光のような白銀へと変わっていく。
そして、瞳。黒かったはずの瞳が、溶かした金属のような、禍々しい金色へと変貌を遂げた。
俺の体から、黒いオーラが陽炎のように立ち上る。
闘技場全体が、その異常なまでの魔力の奔流に圧迫され、空気が鉛のように重くなった。
祭りの熱狂も、人々の悲鳴も、一瞬だけ、遠のいた。
そこにいる誰もが、アリーナの中央で起きている、人知を超えた「変貌」に、息を呑んでいた。
目の前にいた、『原初の顎』の教団員は、その光景に、最初は恍惚とした表情を浮かべていた。
「おお……! おお、おおお! これぞ、我が主! 〝滅びの竜王〟イグニール様の、御力……!」
その歓喜は、しかし、次の瞬間、純粋な恐怖へと変わった。
俺から放たれる魔力の圧は、彼らが想定し、崇拝していたものを、遥かに、遥かに、凌駕していたのだ。
それは、人が扱える力ではない。人が崇めることすら許されない、絶対的な、神の領域の力。
やがて、俺の口から、俺のものではない声が、漏れた。
それは、地殻の底から響いてくるような、低く、重く、そして、数千年の時を経た、絶対者の声だった。
『―――下賤なる塵芥どもが。我が、安らかなる眠りを、妨げるか』
その声が響いた瞬間、俺の体が、動いた。
いや、動かされた、という方が正しい。
俺の意識は、まるで客席から舞台を眺める観客のように、自分の体の主導権が、完全に奪われていくのを感じていた。
俺は、ゆっくりと、右手の指先を、教団員たちへと向けた。
「ひっ……!」
教団員の一人が、恐怖に顔を引きつらせる。
だが、もう遅い。
『不敬』
たった、一言。
それだけで、俺が指を振るうと、指先から放たれた不可視の衝撃波が、教団員たちを木の葉のように吹き飛ばした。
彼らは、悲鳴を上げる間もなく、闘技場の壁に叩きつけられ、血反吐を吐いて崩れ落ちる。
『アッシュさん、殺さないで! 彼らから、情報を引き出す必要があります!』
インカムの奥から、エリスさんの悲痛な叫びが聞こえる。
そうだ、殺しちゃダメだ。
その、俺に残された、か細い理性が、必死に、暴走する力の奔流に抵抗した。
(やめろ、イグニール! 殺すな……!)
『フン。この期に及んで、まだ我に指図するか、乗り物よ。だが、まあ、よかろう。貴様のその甘さも、余興としては面白い』
俺は、ふっと、口元に冷酷な笑みを浮かべた。
そして、今度は、地面に手をかざす。
『啼け。そして、ひれ伏せ』
その言葉を合図に、残った教団員たちの足元の石畳から、無数の黒い棘が、まるで巨大な薔薇の花が咲き誇るかのように、一斉に突き出した。
棘は、彼らの体を貫く寸前で、ぴたりと止まり、その身を拘束する、歪な檻と化した。
殺さず、しかし、一切の抵抗を許さない、絶対的な力の誇示。
ほんの数秒。
たったそれだけの時間で、あれほど脅威だった黒ローブの集団は、赤子の手をひねるように、完全に無力化されていた。
◇◇-◇
闘技場に、再び、静寂が訪れる。
だが、それは、新たな、より濃密な緊張の始まりを告げる、静寂だった。
俺の前に、一人の男が、ゆっくりと歩み出てきた。
輝く白銀の鎧。金色の髪。そして、その手に握られた、聖なる光を放つ長剣。
聖騎士、カイン・ウォルフォード。
彼の聖剣『竜封じ(ドラゴンベイン)』は、今までにないほどの、まばゆいばかりの浄化の光を放ち、俺が放つ厄災魔力に、激しく抵抗していた。
「……貴様、何者だ」
カインの声は、怒りとも、恐怖ともつかない、複雑な響きを帯びて、震えていた。
「Fランクの冒険者、アッシュ。それが、貴様の本当の姿ではないな。その禍々しい力……まさか、本当に、古文書に記された、厄災竜の……!」
彼は、目の前で起きた、信じがたい現実を、受け止めきれていないようだった。
市民を守る、という聖騎士としての正義。
そして、目の前に現れた、規格外の「悪」を、即座に排除しなければならない、という、ウォルフォード家としての使命。
その二つの間で、彼の心は、激しく揺れ動いていた。
俺は、そんな彼の葛藤を、心底、楽しむように、眺めていた。
『フン。聖なる剣、か。いつの時代も、お前たちのような、独善の光は、虫唾が走るわ』
「……黙れ、化け物め!」
カインが、聖剣を、正眼に構える。
一触即発。
二つの、相容れない力が、今、まさに激突しようとしていた。
その、瞬間。
「―――ぐ、おお……! 器を、貴様ら騎士団などに、渡すものか……ッ!」
黒い棘の檻に拘束されていた教団員の一人、リーダー格と思わしき男が、最後の力を振り絞り、叫んだ。
その手には、不気味な紋様が刻まれた、黒い短剣が握られている。
「目覚めよ、古の軛より! 我らが血肉を糧として、今こそ、その封印を解き放て!」
男は、その短剣を、自らの心臓へと、深く突き立てた。
彼の体から、生命力と魔力が、凄まじい勢いで流れ出し、床に描かれた、闘技場の装飾模様に吸い込まれていく。
それは、ただの装飾ではなかった。
この闘技場そのものが、何かを封印するための、巨大な、古代の魔法陣だったのだ。
『アッシュさん、まずい! 何か、とてつもなく巨大なものが、地下から来ます!』
エリスさんの、戦慄に満ちた声が、インカムから響いた。
彼女は、観客席の混乱の中から、いち早く、その術式の意味を解析していたのだ。
ゴゴゴゴゴゴゴ……!
闘技場全体が、地震のように、激しく揺れ始めた。
そして、アリーナの中央の地面に、巨大な亀裂が走る。
亀裂は、瞬く間に広がり、やがて、巨大な陥没穴と化した。
そこから、現れたのは。
「―――な、なんだ、あれは……!?」
カインですら、絶句するほどの、絶望的な光景。
地下の暗闇から、巨大な、岩石でできた、山のような巨人が、その姿を現したのだ。
その身の丈は、闘技場の壁を、遥かに見下ろすほど。
古代の文献にのみ記される、Sランク級の厄災。
神々が、大地そのものから作り出したとされる、伝説の番人。
―――『地神の巨人』。
巨人は、数千年の眠りから無理やり起こされた怒りを、咆哮として迸らせた。
その咆哮だけで、闘技場の壁の一部が、音を立てて崩れ落ちる。
巨人は、敵も、味方も、区別しない。
ただ、そこに存在する、全てのものを、破壊し尽くす、純粋な、厄災の化身だった。
◇◇◇
この、予期せぬ、最悪の事態。
それは、黒ローブの教団員にとっても、計算外だったのだろう。彼らの目的は、俺の確保であり、都市の破壊ではなかったはずだ。
聖騎士団の騎士たちが、市民を避難させながら、果敢に巨人へと挑みかかる。
だが、彼らの剣は、巨人の岩石の皮膚に、傷一つ、つけることができない。
逆に、巨人が振り下ろした腕の一撃で、騎士たちが、紙切れのように吹き飛ばされていく。
カインは、歯を食いしばると、迷いを振り切ったように、巨人の前へと躍り出た。
「市民を、この街を、好きにはさせん!」
彼は、聖剣に全ての聖なる力を込め、巨人の足首へと、渾身の一撃を叩き込んだ。
だが、巨人は、わずかによろめいただけで、その動きを止めない。
格が、違いすぎる。
このままでは、闘技場が、いや、この工房都市が、半壊する。
その、誰もが絶望に支配された、その時。
俺の中で、二つの意識が、激しく、ぶつかり合っていた。
『フン、下らぬ。人間同士の、実に下らぬ痴話喧嘩よ。我は、もう飽いた。眠りに戻るぞ、乗り物』
イグニールの意識が、俺の体から、離れようとしていた。
この、最悪のタイミングで。
(待て! 待ってくれ、イグニール!)
俺は、心の内で、必死に叫んだ。
(このままじゃ、街が……! 観客席のどこかにいる、リリが、危ないんだ!)
『知ったことか。我の知ったことではないわ。貴様の妹が、どうなろうとも』
その、あまりに冷酷な言葉。
だが、俺は、諦めなかった。
(違う! お前にとっても、無関係じゃないはずだ!)
『……何?』
(お前は、退屈が、何よりも嫌いなんだろ!? 数千年も、一人で、退屈してたんだろ!?)
(だったら、見ろよ! 目の前に、最高の『余興』があるじゃないか! あんなデカい的、滅多にないぞ! お前の、その最強の力で、あんなデクノボウを、一撃で、粉々にしてみろよ!)
(そしたら、きっと、最高の気分転換になる! 退屈なんて、全部、吹き飛ぶぞ!)
それは、懇願ではなかった。
挑発。
最強で、傲慢で、退屈を何よりも嫌う、この竜王の性格を逆手に取った、俺の、起死回生の、交渉だった。
一瞬の、沈黙。
やがて、俺の口から、イグニールの、愉快で、不遜な、笑い声が、響き渡った。
『ククク……ハッハッハッハ! 面白い! やはり、貴様は、最高の乗り物よ! よかろう、小僧! その挑発、買った! 我が、久方ぶりの、力の試運転に、あの石ころ人形は、ちょうど良い!』
俺と、イグニール。
その目的が、初めて、完全に、一つになった。
「目の前の、あのデカブツを、ぶっ飛ばす」という、一点において。
俺は、イグニールの力を借りながらも、今度は、意識の主導権を、完全に明け渡さなかった。
俺が、御者。イグニールが、エンジン。
二人で一つ。
新たな、力の使い方が、今、生まれようとしていた。
俺は、巨人の前に立つ、カインの背中に、叫んだ。
「聖騎士! そいつから、離れろ!」
カインが、驚いて、こちらを振り返る。
俺は、右腕を、ゆっくりと、天に突き上げた。
その腕に、闘技場の全ての闇が、凝縮されていくかのように、漆黒の魔力が、渦を巻いて、収束していく。
『見せてやろう、小僧。そして、見るがいい、人間どもよ』
『これぞ、世界の理を覆す、我が力』
『これぞ、〝滅びの竜王〟の―――』
「―――〝竜王の咆哮〟ッ!!」
俺と、イグニールの声が、完全に、重なった。
右腕から放たれた、漆黒の奔流。
それは、以前、森を消し飛ばした時とは、比べ物にならないほどに、洗練され、凝縮され、そして、コントロールされていた。
光の槍は、空間そのものを抉りながら、地神の巨人の、巨大な胴体へと、着弾した。
轟音は、ない。
ただ、静寂だけが、あった。
巨人の、岩石の体は、黒い光に触れた部分から、まるで、黒いインクが紙に染み込むように、静かに、侵食され、そして、「消滅」していく。
数秒後。
黒い光が、収まった時。
そこには、もう、何もなかった。
山のように巨大だった、地神の巨人は、その欠片の一片すら残さず、この世界から、完全に、消え失せていた。
闘技場に、再び、静寂が戻る。
観客たちも、騎士たちも、ただ、呆然と、その光景を、見つめていた。
まるで、神話の、一ページを、目撃したかのように。
カインは、巨人がいた場所と、そして、黒いオーラを収束させ、静かに佇む俺の姿を、交互に見つめ、聖剣を握りしめながら、戦慄と共に、呟いた。
「……お前は、一体、何なのだ……」
その問いに、俺は、答えることができなかった。
力の代償は、あまりに、大きい。
全身の骨が、軋む。意識が、遠のいていく。
その混乱の中、拘束されていたはずの、『原初の顎』の生き残りが、いつの間にか、その姿を消していることに、気づいた者は、まだ、誰もいなかった。
俺は、ふらり、と、その場に、倒れ込んだ。
最後に見たのは、観客席の混乱の中から、人知れず、こちらへ駆け寄ってくる、エリスさんの、必死の形相だった。




