第24話『魔弾の術策と、招かれざる客』
武闘大会三日目、準々決勝。
闘技場を包む空気は、もはや単なる祭りの熱狂ではなかった。それは、伝説が生まれる瞬間を目撃しようとする、数万の観衆が放つ、畏怖と期待が入り混じった、一種の信仰に近い熱量だった。
そして、その信仰の対象が、Fランク冒険者である俺、『彗星』のアッシュであるという現実に、俺は未だに慣れることができずにいた。
「次はいよいよ、アッシュ選手の登場です!」
「相手は、優勝候補の一角、"千の魔弾"のゲオルグ選手! Aランクの大魔術師だ!」
「いくら"彗星"でも、今度ばかりは厳しいか!?」
「いや、あるいは……我々は、また奇跡を目撃することになるのかもしれない!」
観客たちの興奮した声が、選手控え室まで響いてくる。
俺は、壁に寄りかかり、静かに目を閉じていた。
二回戦でシルヴィアに勝利した後、俺の日常は、またしても一変した。
ギルドでは、俺を「アッシュ様」と呼ぶ者まで現れ、DランクやCランクの冒険者たちが、俺に教えを乞おうと列を作るようになった。もちろん、俺に教えられることなど何一つないのだが。
エリスさんの工房には、俺をモデルにした商品の開発依頼や、後援者になりたいという貴族からの手紙が、山のように舞い込んでいるらしい。
偽りの名声は、雪だるま式に膨れ上がり、もはや俺一人の手には負えない怪物と化していた。
だが、もう、恐怖はなかった。
俺の心にあるのは、ただ一つ。
この戦いを勝ち抜き、『星見の羅針盤』を手に入れる、という静かな決意だけだった。
「―――アッシュさん。作戦の最終確認です」
インカムから、エリスさんの声が聞こえる。
俺は、目を開けた。
昨夜、俺たちは、次の対戦相手であるAランク魔術師、ゲオルグの対策を、夜通しで練り上げていた。
工房のテーブルに広げられた資料には、ゲオルグの過去の戦闘データ、得意魔法の軌道、詠唱時間、魔力消費のパターンまでが、エリスさんによって完璧に分析され、記されている。
相手は、『"千の魔弾"のゲオルグ』。
その異名の通り、無数の追尾魔弾や、詠唱破棄による速射魔法を得意とする、老獪なベテラン魔術師だ。
さらに、Aランクの名に恥じぬ、広範囲殲滅魔法も複数習得している。
前回のシルヴィアとは、比較にならないほどの格上。まともに戦えば、俺が塵になるまで、コンマ1秒もかからないだろう。
「彼の弱点は、ただ一つ。魔術師の常として、極端なまでに接近戦に弱いことです。そして、大魔法を一度使えば、その魔力回復と再詠唱には、わずかながら時間差が生じる。我々が突くのは、その一点です」
今回の「脚本」の核心。それは、「いかにして、Aランク魔術師の嵐のような魔法を潜り抜け、その懐に飛び込むか」。
「そのために、これを」
エリスさんは、試合の直前、俺に一つの腕輪を手渡してくれた。
黒い金属で作られた、シンプルな腕輪。
「『瞬間障壁』。私が、あなたのために調整した、対魔術師用の決戦魔道具です。所有者の魔力をトリガーに、コンマ3秒だけ、あらゆる魔法を無効化する防御障壁を展開します。ただし、チャージに時間がかかるため、使えるのは、一度きり。使いどころを間違えれば、あなたの負けが確定します」
一度きりの、絶対防御。
これが、今回の作戦の切り札だった。
「怖いですか?」
エリスさんが、静かに問いかける。
「……ああ。怖いに決まってる」
俺は、正直に答えた。
「だが、あんたの脚本と、こいつがあれば、勝てる。……そうだろう?」
俺の言葉に、インカムの向こうで、エリスさんが、ふっと息を吐く気配がした。
『ええ。私の計算では、あなたの勝利確率は、62%。二回戦よりは、低いですが』
「……十分だ」
『アッシュさん』
「なんだ?」
『……必ず、生きて帰ってきてください』
それは、いつものビジネスライクな彼女からは、想像もできない言葉だった。
俺は、少しだけ驚いて、そして、笑った。
「当たり前だろ。俺は、あんたの、最高の『商品』なんだからな」
その軽口を最後に、俺は立ち上がった。
闘技場へと続く、光の通路へ。
Aランク魔術師という、巨大な壁が待つ、舞台へと。
◇◇◇
試合当日の朝。
俺は、リリにだけは、本当のことを話していた。
「今日の相手は、すごく遠くから、たくさんの魔法を撃ってくる、強い人なんだ」
俺の言葉に、リリは、小さな手で、俺の手をぎゅっと握りしめた。
「……兄さんなら、きっと大丈夫」
その瞳には、不安の色もあった。だが、それ以上に、兄を信じる、強い光が宿っていた。
「私、広場に行って、応援してるから。兄さんが、世界で一番、かっこいいんだから!」
この手と、この笑顔を守るためなら、俺は、どんな怪物にだってなれる。
俺は、妹の言葉を胸に、家を出た。
闘技場へと向かう、祭りの喧騒に満ちた道。
その中で、俺は、ふと、誰かに見られているような、粘つくような視線を感じた。
振り返るが、そこにいるのは、祭りを楽しむ、ただの人々だけ。
俺の【危険感知】が、チリ、と微かな警告を発したが、その気配は、すぐに人混みの中に掻き消えてしまった。
(……気のせいか)
俺は、首を振り、再び闘技場へと歩き出した。
その時の俺は、まだ知らない。
その視線が、俺たちの運命を、そして、この都市の運命すらも、大きく揺るがすことになる、邪悪な影のものであったことを。
◇◇◇
「さあ、準々決勝、第二試合! "彗星"のアッシュ選手、入場です!」
俺が闘技場に足を踏み入れると、割れんばかりの大歓声が、俺を迎えた。
二回の奇跡的な勝利を経て、俺は、もはや単なるFランクではなく、この大会の英雄として、観客に認知されていた。
対面の舞台には、すでに、対戦相手の老魔術師、ゲオルグが立っていた。
長い髭をたくわえ、いかにも、といった風情の、豪奢なローブに身を包んでいる。その手にした、先端に巨大な魔石が埋め込まれた杖は、それ自体が強力な遺物なのだろう。
ゲオルグは、俺の姿を認めると、その老獪な瞳を、侮蔑でも、油断でもなく、純粋な警戒心で細めた。
「……ふむ。噂の小僧か。なるほど、確かに、奇妙な気配を纏っておるわい」
彼は、これまでの対戦相手のように、俺を見下してはいなかった。
Aランク。その伊達ではない実力と経験が、俺という存在の異常性を、すでに見抜いているのだ。
「だが、小僧。お前のその奇妙な動きも、我が"千の魔弾"の前では、無意味と知れ」
試合開始のゴングが、鳴り響いた。
その瞬間、ゲオルグは、一切の詠唱もなく、その杖を、天に突き上げた。
「―――『炎獄の蛇』!」
彼の足元から、闘技場の石畳を溶かしながら、数十匹もの巨大な炎の蛇が、一斉に出現した。
蛇たちは、それぞれが意志を持っているかのように、うねりながら、四方八方から俺へと襲いかかってくる。
それは、もはや「魔弾」などというレベルではない。
アリーナ全体を埋め尽くす、灼熱の、死の津波だった。
「なっ……!?」
初手から、Aランクの洗礼。
広範囲殲滅魔法。これで、俺の回避能力を、完全に封じ込めるつもりなのだ。
『アッシュさん! 脚本通りに! 右前方、三時の方向へ!』
インカムから、エリスさんの声が飛ぶ。
俺は、恐怖をねじ伏せ、炎の蛇のわずかな隙間を、全力で駆け抜けた。
熱い!
肌が焼ける。ローブの裾が、炎に触れて燃え上がった。
俺は地面を転がり、その火を消す。
だが、蛇たちは、執拗に俺を追いかけてくる。
『次に、左へ跳びなさい!』
『障壁はまだです! 温存して!』
俺は、エリスさんの指示と、【危険感知】が示す、唯一の生存ルートだけを頼りに、魔法の嵐の中を、必死に駆け抜けた。
炎の蛇を障壁で防ぎ、地面から突き出す氷の茨を飛び越え、エリスさんから渡された煙幕弾を投げて、一瞬だけ姿をくらます。
それは、もはや戦いではなく、障害物レースだった。
死と隣り合わせの、極限状態の、立体的なアクション。
観客は、その人間離れした光景に、固唾をのんで見守っていた。
「あの魔法の嵐の中を、どうやって生き残っているんだ!?」
「信じられない……! アッシュ選手の動き、まるで全てを予測しているかのようだ!」
「これが……"彗星"の実力なのか……!」
俺は、少しずつ、だが確実に、ゲオルグとの距離を詰めていく。
ゲオルグは、その俺の姿に、初めて、焦りの色を見せた。
「……ありえん。なぜ、我が魔法が当たらんのだ……!」
彼は、俺が懐に潜り込んでくることを、読んでいたはずだ。
そして、そのための、次なる手を、当然、用意しているはず。
『アッシュさん、気をつけて! 彼の足元を見て!』
エリスさんの警告。
俺は、ゲオルグの足元に、魔力で描かれた、不可視に近い、罠の魔法陣が仕掛けられているのを、かろうじて視認した。
あれを踏めば、即死は免れないだろう。
だが、エリスさんの声は、冷静だった。
『―――好都合です。脚本通り、そのトラップに、わざと、かかりなさい』
「……は!?」
『あのトラップの爆発の勢いを利用して、一気に、彼の懐へ、跳び込むのです!』
無茶苦茶だ。
だが、もう、彼女の脚本を信じるしか、道はない。
俺は、覚悟を決めた。
そして、わざと、罠の魔法陣の上を、踏み抜いた。
◇◇◇
凄まじい衝撃と、轟音。
足元の魔法陣が炸裂し、俺の体は、爆風によって、木の葉のように宙を舞った。
ゲオルグは、俺が罠にかかったのを見て、勝利を確信したように、口元を歪ませた。
だが、彼の表情は、次の瞬間、驚愕に凍りつくことになる。
俺は、爆風の力を殺すのではなく、逆に、その全てを利用していた。
空中で、体を捻り、まるで砲弾のように、一直線に、彼の懐へと、突っ込んでいったのだ。
「な、馬鹿な……!?」
老獪なAランク魔術師の、人生で初めての、計算外。
その、ほんの一瞬の、硬直。
それが、勝敗を分けた。
俺は、彼の目の前に着地すると同時に、腕輪に魔力を込めた。
『瞬間障壁』。
「―――『終焉の雷』!」
ゲオルグが、最後の切り札である、零距離での雷撃魔法を放つ。
だが、その紫電は、俺の目の前で展開された、半透明の障壁に阻まれ、霧散した。
一度きりの、絶対防御。
それを、ここで使った。
ゲオルグは、絶望に目を見開く。
もう、彼には、なすすべはない。
決着か―――。
闘技場の誰もが、そう思った、その瞬間だった。
ドォォォォォン!!!
突如、闘技場に、不釣り合いな、巨大な爆発音が響き渡った。
それは、アリーナからではない。
観客席の、一角からだった。
悲鳴。怒号。混乱。
祭りの雰囲気は、一瞬にして、地獄の様相へと変わる。
「な、何事だ!?」
審判も、警備の騎士たちも、観客席の混乱に、意識を奪われた。
ゲオルグも、その例外ではない。彼もまた、爆発が起きた方角へと、一瞬だけ、視線を向けてしまった。
その、一瞬の隙。
俺は、見逃さなかった。
だが、俺が、とどめの一撃を放つよりも早く、それは、起こった。
ぞろり、ぞろり、と。
観客席の通路から、闘技場へと、黒いローブをまとった、不気味な集団が、なだれ込んできたのだ。
その数は、十数人。
彼らの目的は、明らかだった。
「……な、貴様ら、何者だ!」
聖騎士団の騎士たちが、剣を抜き、彼らの前に立ちはだかる。
観客席の最前列では、カインが、すでに聖剣を抜き放ち、臨戦態勢に入っていた。
だが、黒ローブの集団は、騎士たちに見向きもしない。
彼らの、フードの奥の、狂信的な瞳は、ただ一点。
俺だけを、見ていた。
「―――見つけたぞ、器よ」
一人が、不気味な声で、言った。
「我らと、共に来い。偉大なる、我が主の魂を、その矮小な肉体から、解放して差し上げる」
『原初の顎』。
その名を、俺はまだ知らない。
だが、彼らが、俺の、そして、イグニールの、敵であることは、明白だった。
『アッシュさん、逃げなさい!』
エリスさんの、悲鳴に近い声が、インカムから響く。
そうだ、逃げるべきだ。
だが、俺の足は、地面に縫い付けられたように、動かなかった。
逃げられるわけがない。
観客席には、どこかに、リリがいるかもしれない。
この騒ぎで、罪のない人々が、傷つくかもしれない。
何より、こいつらの目的は、俺なのだ。
俺が、ここで逃げれば、被害は、さらに広がるだけだ。
黒ローブの一人が、騎士の制止を振り切り、異様な速さで、俺に肉薄してくる。
ゲオルグが、慌てて牽制の魔法を放つが、黒ローブはそれを、片手で、まるで虫でも払うかのように、霧散させた。
強い。
今までの、誰とも違う。
このままでは、捕まる。
脚本も、作戦も、もう、どこにもない。
俺自身の、アドリブすら、通用しない。
絶体絶命。
その中で、俺は、覚悟を、決めた。
「…………イグニール」
俺は、静かに、相棒の名を呼んだ。
『……フン。ようやく、その気になったか、乗り物よ』
その声は、どこまでも、楽しそうだった。
俺は、黒ローブの男を、真っ直ぐに見据えた。
そして、叫んだ。
「―――力を、貸せッ!!」
その瞬間、俺の右腕に刻まれた竜の紋様が、今までにない、禍々しい、漆黒の光を、放ち始めた。
制御不能の厄災が、数万の観衆の前で、今、その牙を、剥こうとしていた。
その、異常なまでの魔力の奔流に、カインが、エリスが、そして、黒ローブの教団員たちが、驚愕に目を見開いた。




