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第23話『激闘の代償と、芽生えしもの』


意識が、現実へと引き戻される。

最初に感じたのは、全身を灼くような激痛だった。シルヴィアのダガーに切り裂かれた無数の傷が、まるで一斉に自己主張を始めたかのように、ズキズキと熱を持っている。

「……っつ……」

俺は、控え室の長椅子に横たえられていた。

視界には、見慣れた工房の天井ではなく、石造りのアーチ天井が映る。隣では、エリスさんが手際よく、俺の傷にポーションを染み込ませたガーゼを当ててくれていた。彼女の銀色の髪が、頬をかすめる。

「動かないでください。傷が開きます」

その声は、いつも通り冷静だった。だが、消毒液が傷に触れるたびに俺が身をよじると、それを押さえる彼女の指先に、ほんのわずか、いつもより力がこもっている気がした。

「……悪ぃ」

「謝罪は不要です。ですが、無茶をしすぎましたね」

エリスさんは、俺の腕に器用に包帯を巻きながら、淡々と告げた。

「私の脚本が破綻した後、あなたが勝利できる確率は、私の計算では17%まで落ちていました。正直、負けを覚悟しましたよ」

「……あんたの脚本が破綻したせいだろ」

俺が軽口で返すと、エリスさんの手が、ぴたりと止まった。

彼女は、ゆっくりと顔を上げ、俺の目を真っ直ぐに見つめた。

「……その通りです」

その声は、静かで、はっきりとしていた。

「私の分析が、"影舞"のシルヴィアの底力と、土壇場での対応能力を見誤っていた。完全に、私のミスです。あなたを、死なせてしまうところだった」

エリスさんが、初めて、素直に自分の非を認めた。

いつも自信に満ち溢れ、全てを計算し尽くしている彼女の、初めて見る表情。それは、俺の心に、不思議な温かさをもたらした。

「……まあ、結果的に勝ったんだから、いいだろ」

「よくありません。今回のデータは、次の作戦に活かします。二度と、あなたをこのような危険に晒すわけにはいきませんから」

その言葉は、ビジネスパートナーとして、俺という「商品」の価値を守るためのものだったかもしれない。

だが、俺には、彼女が俺自身の身を案じてくれているように聞こえた。

『フン。結果的にお前自身の力で勝ったのだ。我が乗り物として、少しは骨っぽくなったではないか』

頭の中から、イグニールの声が響く。それは、彼なりの、最大限の賛辞なのだろう。

「うるさい」

俺は、ぶっきらぼうにそう返しつつも、口元が少しだけ緩んでしまうのを、止められなかった。

激痛の中にも、確かな達成感が、心の奥底から湧き上がってくる。

俺は、初めて、自分の意志と力で、勝利を掴んだのだ。

◇◇◇

治療を終え、エリスさんに肩を借りながら、俺はゆっくりと控え室を出た。

Bランク冒険者との死闘で、体力も魔力も、文字通りすっからかんだった。

通路に出ると、そこに待ち構えていたかのように、一人の人影が立っていた。

銀色の髪、しなやかな尻尾。

"影舞"のシルヴィアだった。

彼女は、試合中のような殺気はなく、どこかバツが悪そうな顔で俺を見ていた。

「……よぉ」

俺が声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。

「……その怪我、私がやったのよね。ごめんなさい」

「いや、試合だったんだ。あんたが謝ることじゃない」

「でも……」

彼女は、何か言いたそうに唇を噛んだ。そして、意を決したように、俺に問いかけた。

「……完敗だったわ、アッシュくん。あなたの、あの最後の動き……あれは、一体、どこで身につけたの? どんな達人に師事すれば、あんな泥臭くて、最高に洗練された生存術サバイブが身につくのかしら」

その瞳には、試合中の敵意ではなく、純粋な武人としての、探求心と敬意が宿っていた。

俺は、彼女の真摯な問いに、どう答えるべきか迷った。

【危険感知】のことも、イグニールのことも、言えるはずがない。

俺は、少しだけ考えて、正直な気持ちを口にした。

「……師匠なんて、いないよ」

「え?」

「俺がやってきたのは、ただ、生き残るために、必死でもがいてきただけだ。下層区の路地裏で、もっと強い奴らから、ただ必死に、逃げて、隠れて、生き延びてきた。それだけだ」

それは、俺の紛れもない本心だった。

俺の動きは、達人の技なんかじゃない。

最弱のFランクが、この理不尽な世界で、妹と二人で生きていくために、身につけざるを得なかった、ただの悪あがきだ。

俺の言葉に、シルヴィアは、はっと息を呑んだ。

彼女は、俺の瞳の奥にある何かを、見抜いたのかもしれない。

「……そう。なら、これ以上は、聞かないでおくわ」

彼女は、ふっと、柔らかく微笑んだ。

「あんた、強いのね。私が今まで戦ってきた、誰よりも。……次の試合も、その調子で勝ち上がりなさいよ。じゃないと、私があんたに負けたことが、嘘になっちゃうから」

そう言うと、彼女は猫のようにしなやかな足取りで、颯爽と去っていった。

その背中には、もう敵意はなかった。

ライバルとの間に生まれた、奇妙で、そして、心地よい絆のようなものを、俺は感じていた。

ギルドホールに戻ると、俺たちは、熱狂の渦に飲み込まれた。

「うおおお! "彗星"の帰還だ!」

「アッシュ! すげかったぜ、お前! あのシルヴィアに勝つなんて!」

「お前、本物だな! 俺、お前のファンになったぜ!」

冒険者たちが、次から次へと俺を取り囲み、賞賛の声を浴びせ、祝いの酒を勧めてくる。

以前は俺を馬鹿にしていた『鉄の爪』の連中が、もはや崇拝に近いような目で、俺のために人垣をかき分けて道を作っていた。

この熱狂に、俺は戸惑いつつも、以前のような罪悪感だけではない、複雑な感情を抱いていた。

偽りの演武で勝った一回戦とは違う。

二回戦は、確かに、俺自身の力で勝ち取った勝利だ。

胸を張っていいのかもしれない。ほんの少しだけ。

俺は、その熱狂の中心で、少しだけ、笑った。

◇◇◇

聖騎士団詰所。

その静寂は、武闘大会の熱狂とは無縁の世界だった。

カイン・ウォルフォードは、自室で一人、瞑想に耽っていた。だが、その心は、嵐のように乱れていた。

(あの戦いは、一体、何だったのだ……)

アッシュの戦い方が、彼の脳裏に焼き付いて離れない。

エリスという魔道具技師の存在から、何らかのトリックがあるのだろうと、彼は予測していた。事実、試合前半の、あまりに正確すぎる回避運動は、何らかの外部からの指示によるものだろう。

だが、後半。

脚本が破綻した後の、あのアドリブ。

あれは、トリックや小細工の類では断じてない。

泥臭く、不格好で、騎士の剣技とは対極にある、無様な動き。

だが、その一挙手一投足は、生き残るという一点において、究極的に洗練されていた。

聖騎士団の誰よりも、彼自身よりも、ア-ッシュという少年は、「死線」を知り尽くしている。

カインは、そう直感していた。

(あれは、邪竜の力などではない。もっと、生々しい、人間の……いや、獣の生存本能に近い何かだ。だが、聖剣は、確かに奴に反応した。あの少年の内には、聖剣を反応させるほどの『厄災』が眠っているはず。だというのに、彼の戦い方には、その力の片鱗が見られない。一体、どういうことだ……?)

彼の信じる「正義」が、揺らぎ始めていた。

悪とは、強大な力で秩序を乱す、絶対的な存在のはずだった。

だが、アッシュという少年は、あまりに弱く、あまりに必死で、そして、あまりに人間的だった。

カインは、目を開けた。

その碧眼には、深い苦悩と、そして、新たな決意の光が宿っていた。

「……もはや、遠くから見ているだけでは、何も分からん」

彼は、立ち上がると、腰の聖剣『竜封じ』を強く握りしめた。

「俺自身の目で、確かめるしかない。アッシュ……お前という人間を」

◇◇◇

その頃、闘技場の喧騒から遠く離れた、下層区へ向かう薄暗い路地裏。

フードを目深にかぶった、三人の人影が、壁に寄りかかるようにして潜んでいた。

そのローブに刺繍された紋様は、牙を剥く、古竜の顎を模している。

古竜崇拝教団『原初の顎』。

〝滅びの竜王〟イグニールの復活を企む、謎の集団だった。

「……見ましたか、今の試合を」

一人が、興奮を抑えきれない様子で、声を潜めて言った。

「ああ。あのFランクの小僧……間違いなく、我が主、イグニール様の気配を、その身に纏っている」

「やはり、器でしたか。しかし、なぜ今、武闘大会などに?」

「さあな。だが、好都合だ。聖騎士団も、ギルドも、あの小僧に注目している。我々が、事を起こすには、絶好の機会かもしれん」

リーダー格と思わしき、長身の男が、フードの奥で、不気味に口元を歪ませた。

「計画を変更する。聖騎士団よりも先に、あの器に接触する。そして、その身に宿る、偉大なる我が主の魂を、我らが手ずから、解放して差し上げるのだ」

「……しかし、どうやって?」

「祭りの喧騒は、隠れ蓑になる。次の試合……準々決勝が、絶好の機会となるだろう」

三人の影は、闇の中へと、静かに溶けていった。

アッシュという、予期せぬ役者の登場により、彼らの計画は、静かに、そして、確実に、狂い始めていた。

そして、その狂いは、やがて、工房都市全体を巻き込む、巨大な混沌の渦へと、発展していくことになる。

◇◇◇

その夜、俺は、リリの穏やかな寝顔を見つめていた。

彼女の枕元には、俺が買ってきた、新しい薬が置かれている。

Bランク依頼の報酬と、武闘大会の勝利賞金で、当面の薬代には、もう困ることはないだろう。

だが、それでも、心が晴れることはなかった。

今日の戦いで負った、無数の傷。

それを見たリリは、俺の勝利を喜びながらも、泣きそうな顔で、言ったのだ。

「兄さん、もう、無理しないで……」と。

俺は、リリの頭をそっと撫でた。

「大丈夫だ、リリ。これは、俺が自分で選んで戦った、証だから」

それは、初めて、俺が心の底から言えた、嘘偽りのない言葉だった。

俺は、今回の勝利で、偽りの英雄の仮面の下に、確かな自分自身を、見出し始めていた。

翌日。エリスさんの工房で、俺は、準々決勝の対戦相手の資料を渡された。

そこに記されていたのは、Aランクの魔術師の名前だった。

その格上の相手に、俺は、以前のような絶望的な恐怖だけではない、何かを感じていた。

それは、武者震いに近い、静かな興奮。

「今回の戦いで、あなたの『アドリブ』という、新たな戦力が計算できるようになりました。私の脚本と、あなたの生存術。その二つが組み合わされば、我々は、誰にも負けない」

エリスさんは、自信に満ちた表情で、言った。

「次の脚本は、さらに面白くなりますよ」

その言葉に、俺は、静かに頷いた。

次なる戦いは、もう始まっている。

そして、その舞台裏で、俺たちの知らない、邪悪な意思が動き始めていることなど、この時の俺たちは、まだ、知る由もなかった。

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