第22話『影舞う刃と、覚醒の一手』
武闘大会二日目の空気は、初日とは明らかに異なっていた。
昨日までの、下位ランクの選手たちによる泥臭い潰し合いは終わり、今日からは本戦。真の実力者たちだけが残る、血と技が舞う舞台だ。観客たちの期待と熱気も、昨日とは比べ物にならないほどに凝縮され、巨大な円形闘技場全体が、まるで一つの生き物のように興奮に震えている。
その熱気の中心にいるのが、俺―――『彗星』のアッシュだという事実から、俺は必死に目を逸らしていた。
「おい、見ろよ。あれが"彗星"のアッシュだ」
「昨日の試合、信じられなかったぜ。あの"剛腕"のバルガスを、赤子の手をひねるように……」
「だが、今日の相手は"影舞"のシルヴィアだ。あのスピードスター相手に、昨日のような搦め手は通用しねえだろ」
「いよいよ、あいつの真価が問われるな……」
選手控え室。
昨日まで俺に投げかけられていた侮蔑や嘲笑は、今はもうない。代わりに向けられるのは、値踏みするような視線、警戒心、そして、得体の知れないものに対する、純粋な好奇心。その全てが、今の俺には重すぎた。
「……落ち着かない」
俺が壁際で小さくなっていると、ふわり、と甘い香りが鼻先をかすめた。
「ねえ、あなたが、彗星のアッシュくん?」
振り返ると、そこに立っていたのは、しなやかな尻尾を揺らす、猫の獣人の女性だった。
美しい銀色の髪、しなやかな体つき、そして、腰に差した二本の短剣。
間違いない。俺の二回戦の相手、『影舞』のシルヴィア、その人だった。
「昨日の試合、見させてもらったわ。不思議な戦い方をするのね。まるで、未来でも見えているみたい」
彼女は、獲物を品定めする猫のように、俺の周りをぐるりと歩きながら、興味深そうに俺を観察する。その妖艶な雰囲気に、俺は完全に気圧されていた。
「一体、どんなトリックを使ったの? ちょっとだけ、お姉さんに教えてくれないかしら?」
シルヴィアが、吐息がかかるほどの距離まで、顔を近づけてくる。
甘い香りと、肉食獣のような鋭い瞳に、俺の心臓は跳ね上がった。
「……さ、さあな。企業秘密、ってやつだ」
俺が何とかそれだけを絞り出すと、彼女は楽しそうに喉を鳴らした。
「ふぅん、秘密主義なのね。いいわ、気に入った。試合で、その秘密、無理やりにでも暴いてあげるから。覚悟しておいてね、"彗星"くん」
そう言い残し、彼女は猫のようにしなやかな足取りで去っていった。
俺はその場に立ち尽くし、彼女が放つ強者のオーラに、ただただ圧倒される。
『―――アッシュさん。聞こえますか』
インカムから、エリスさんの冷静な声が響き、俺は我に返った。
『動揺しないこと。彼女の挑発も、計算のうちです。彼女は極度の自信家。そして、自分のスピードに絶対の自信を持っている。その慢心を、我々は突きます』
「……本当に、あんたの脚本通りにいくのか?」
『ええ。ただし、今回の脚本の成功率は、70%。残りの30%は、あなた自身の力で埋めてもらう必要があります』
70%。その数字は、決して高いとは言えなかった。
俺は、ゴクリと唾を飲み込む。恐怖が、また鎌首をもたげてくる。
『フン。怖気づいたか、乗り物よ。ならば、今からでも遅くはない。我が―――』
「……うるさい。やるよ」
俺は、イグニールの誘惑を、強い意志で遮った。
「俺は、俺の力で、勝ってみせる」
その言葉は、誰に言うでもない、俺自身の、小さな誓いだった。
観客席の片隅。
聖騎士カイン・ウォルフォードが、静かに舞台を見つめていた。
(あの女斥候の速さの前では、前回の様な小細工は通じまい。アッシュ……お前の真の力が、今、試される)
◇◇◇
『さあ、始まりました、武闘大会二日目! 本日の第四試合は、今大会最大のダークホース、"彗星"のアッシュ選手と、音速の踊り子、"影舞"のシルヴィア選手の一戦です!』
実況の魔術師が、声を張り上げる。
闘技場に立った俺は、対面に立つシルヴィアと向き合っていた。
彼女は、楽しそうに唇を舐めると、二本のダガーを抜き放った。
「それじゃあ、始めましょうか。あなたのメッキ、剥がしてあげる」
試合開始のゴングが、鳴り響いた。
その瞬間、シルヴィアの姿が、掻き消えた。
「―――!?」
目で、追えない。
俺が反応するよりも早く、背後に回り込んだ彼女の気配を、【危険感知】が絶叫と共に知らせてきた。
『後ろ! ダガーによる斬り上げ!』
俺は、考えるよりも先に、体を前に倒してそれを回避する。
俺の髪を、数本、銀色の閃光が切り裂いていった。
「へえ、今のを避けるんだ。やっぱり、ただ者じゃないわね」
感心したような声が、今度は右側から聞こえる。
見れば、シルヴィアが、まるで瞬間移動したかのように、そこに立っていた。
彼女は、再び地を蹴る。アリーナの中を、縦横無尽に、影が舞うように駆け巡り、四方八方から、殺意の斬撃を繰り出してくる。
『左からの突き。半歩、右へ』
『次は足元への二段斬り。バックステップで回避』
『頭上から来る! 姿勢を低く!』
俺は、エリスさんの指示と、【危険感知】の警告だけを頼りに、その嵐のような猛攻を、ただひたすらに、回避し続けた。
前回のような、静的な回避ではない。アリーナ全体を大きく使った、ダイナミックで、息つく暇もない、死の鬼ごっこだ。
観客席からは、驚きの声が上がっていた。
「速い! シルヴィア選手、速すぎる!」
「だが、あのアッシュという選手、全てを完璧に見切っているぞ!」
「なんだ、あの動きは……!? まるで、未来予知でもしているかのようだ!」
シルヴィアの超人的なスピードと、俺の神業的な回避。
その攻防は、常人には理解できない、異次元の戦いに見えただろう。
だが、俺は、もう限界に近かった。
体力も、集中力も、すり減っていく一方だ。
「……エリスさん、まだか……!」
『もう少しです! 彼女の動きのパターンを、完全に読み切るまで……!』
エリスさんの脚本の核心。それは、シルヴィアの動きを、特定のパターンに誘導することだった。
エリスさんは、シルヴィアの過去の戦闘データから、彼女が特定の状況下で、無意識に取ってしまう、ほんのわずかな「癖」を、完全に見抜いていたのだ。
俺の役目は、彼女の動きを予測し、わざと特定の隙を見せることで、シルヴィアをエリスさんが望む「キルゾーン」へと、じわじわと、誘導していくこと。
それは、あまりに精密で、あまりに危険な、綱渡りだった。
「……見つけたわ。あなたの弱点」
不意に、シルヴィアが呟いた。
彼女は、俺から距離を取ると、妖艶に微笑む。
「あなたの動き、正確すぎるのよ。まるで、誰かに操られているみたいにね。そして、その反応には、ほんのわずかな『タイムラグ』がある。指示を聞いてから、動くまでの、コンマ数秒の遅れが」
心臓が、凍りついた。
見抜かれている。エリスさんの脚本が、この女には……。
「―――だから、指示が来る前に、動けばいいのよ!」
シルヴィアの姿が、再び、消えた。
だが、今度の動きは、これまでのパターンとは全く違う。
不規則で、予測不能な、獣の動き。
【危険感知】が、脳内で警鐘を乱れ打つ。
右か、左か、上か、下か。
未来予測が、定まらない。
『―――まずい! アッシュさん、計算外の動きです! 私の脚本が、破綻しました!』
インカムから、エリスさんの、初めて聞く、焦りの声が響いた。
そして、その声を最後に、インカムからの指示は、ぷつりと、途絶えた。
◇◇◇
脚本が、破綻した。
俺を支えていた、唯一の命綱が、断ち切られたのだ。
銀色の閃光が、俺の頬をかすめ、一筋の血が流れた。
浅い。だが、初めて、彼女の刃が、俺に届いた。
「どうしたの? 動きが鈍ったじゃない」
シルヴィアが、楽しそうに笑う。
その瞳は、完全に、俺を獲物として捉えていた。
絶望が、俺の心を支配する。
もう、ダメだ。
エリスさんの指示なしでは、俺は、ただのFランクだ。この化け物のスピードには、到底ついていけない。
『―――ほら見たことか。だから言ったのだ、小僧。人間の浅知恵など、所詮はこの程度よ。さあ、代われ! 我が、あの小生意気な雌猫を、啼かせることもできぬほどの、塵にしてくれるわ!』
イグニールの声が、脳内に響く。
そうだ。こいつに代われば、俺は助かる。勝てる。
だが―――。
俺は、唇を噛み締めた。
脳裏をよぎったのは、ワイバーンとの死闘。
あの時、俺は、こいつの力に頼らず、自分の力で生き残った。
あの時の達成感。
偽りの中に生まれた、確かな「真実」。
それを、ここで、手放してたまるか。
「……断る」
俺は、心の内で、はっきりと拒絶した。
『なに……?』
「俺は、お前の乗り物じゃない。Fランク冒険者、アッシュだ!」
俺は、エリスさんの脚本を、頭の中から消し去った。
彼女の指示も、計算も、もうない。
頼れるのは、ただ一つ。
この、うるさいほどに鳴り響く、【危険感知】の警告だけだ。
それは、エリスさんの計算された美しい動きとは、全く違うものだった。
泥臭く、不格好で、みっともない。
ただ、ひたすらに、生き残るためだけの、獣の動き。
転がり、飛びのき、時には地面を滑り、砂を蹴り上げて目眩ましをする。
これまでの訓練で培った、最低限の体術。
下層区の路地裏で、悪党から逃げ回って身につけた、処世術。
俺が持てる、全ての経験を、総動員する。
「……面白いじゃない! あなた、そっちの方が、ずっと良い顔してるわ!」
シルヴィアの目の色が変わった。
彼女は、俺の予想外の抵抗を、心底、楽しんでいるようだった。
斬撃の速度が、さらに上がる。
俺の体には、少しずつ、浅い切り傷が増えていった。
だが、俺の心は、不思議と、穏やかだった。
恐怖はある。だが、それ以上に、自分の意志で戦っているという、確かな実感があった。
そして、俺は気づいた。
シルヴィアの、本当の弱点に。
それは、エリスさんが指摘した、「癖」や「慢心」などではない。
もっと、単純なことだ。
彼女は、あまりに速すぎるがゆえに、「止まる」ことができないのだ。
常に動き続け、相手を翻弄することで、自分のペースを維持している。
ならば―――。
俺は、最後の賭けに出た。
シルヴィアが、とどめを刺すべく、二本のダガーを逆手に持ち、一直線に俺の心臓めがけて突進してくる。
【危険感知】が、回避不能な、絶対的な死を、予測した。
だが、俺は、動かなかった。
回避することを、やめたのだ。
「―――もらった!」
シルヴィアが、勝利を確信する。
だが、彼女のダガーが、俺の胸を貫く、その寸前。
俺は、わざと、足をもつれさせて、その場に倒れ込んだ。
「なっ!?」
あまりに不自然な動きに、シルヴィアの体が一瞬だけ、硬直する。
全力で突進してきた彼女は、急には、止まれない。
俺の体を飛び越えるようにして、体勢を崩した、その一瞬の隙。
俺は、地面に転がっていた、バルガスとの戦いで砕けた、闘技場の石の欠片を、拾い上げると、それを、彼女の軸足めがけて、全力で蹴り飛ばした。
「―――!?」
高速で動く彼女にとって、ほんのわずかな障害物、ほんのわずかなバランスの崩れは、致命的だった。
シルヴィアの体は、大きく体勢を崩し、前のめりに倒れ込む。
その、無防備な背中。
俺は、最後の力を振り絞り、地面を蹴った。
そして、倒れ込んだ彼女の、ダガーを持つ右手首を、両手で、強く、強く、掴み上げた。
「……っ!」
「……捕まえた」
俺は、彼女の腕を、地面に縫い付けるようにして、関節を決めた。
ミシミシ、と、骨が軋む音がする。
「……ま、参った……! 参りました!」
シルヴィアが、驚愕と、屈辱に顔を歪ませながら、降参を宣言した。
闘技場は、またしても、静寂に包まれた。
そして、やがて、それは、前回とは質の違う、本物の驚嘆と、賞賛の入り混じった、大歓声へと変わっていった。
「……勝者、アッシュ!」
審判の声が、夢のように、遠くに聞こえた。
俺は、その場に、大の字に、倒れ込んだ。
空が、やけに、青かった。
カインは、観客席で、ただ、絶句していた。
(達人の技ではない……。計算でもない。あれは……死線を、何度も、潜り抜けてきた者だけが持つ、執念と、生存術……。アッシュ……お前は、一体、どんな地獄を、歩いてきたのだ……)
控え室に戻った俺を、エリスさんが、複雑な、それでいて、どこか誇らしげな表情で、出迎えた。
「……私の脚本を、見事に超えてしまいましたね」
彼女は、初めて見る、穏やかな笑みを、浮かべていた。
「素晴らしい、アドリブでしたよ―――私の、パートナー」




